2012.3月 12日 朝礼より
昨日は、東日本大震災が発生してからちょうど1年という区切りの日でした。
その当時私は宮城県に、社員は南相馬におり 大地震に巻き込まれました。
それでも、なんとか無事戻ってくることが出来ましたが、実際あの場の状況、雰囲気を
目の当たりにした記憶は、すさまじいものがあり、1年がたった今でも決して忘れることができません。
震災当時の映像等を私も色々見ましたが、実際はもっとひどい光景や場面が
数え切れないほどあったそうです。メディアは様々な制約から、残酷すぎる映像は
伏せていますが、その見えない部分から悲しみ、憎しみ、不安が垣間見えるようで
震災の及ぼす影響の計り知れなさに私はただただ愕然とするばかりです。
また、今回の震災が起こったことで多かれ少なかれ『死』というものに
日本国民が直面し、否応なしに考えさせられるようになったのではないかと思っています。
『死』には、4つの死に方しかありません。
ひとつは、『病死』 ふたつは、『事故(災害)死』 みっつは、『自殺』 よっつは、『他殺』。
今回の震災ではほんとうに多くの尊い命が『事故(災害)死』されました。
でも事故とひとくくりにいっても、私たち人間は
自然の脅威の前にはなすすべがなく、いとも簡単に『自然』というものに
殺されていく・・・。つくづく無力であることに否応なしにつきつけられる想いでした。
死の迎え方としてのぞましいのは、やはり天地を全うしてベッドの中で安らかに召される。
そうした死に対する覚悟や、準備がなく突然迎える死に対して
あまりに無防備であった今回の震災。
人々は、皆今日と同じような明日があるものと当たり前に思って暮らしています。
私も、1日が終われば美味しい酒が待っているとそれを励みに過ごすように。
震災に遭われた方が漏らす言葉に『明日も同じ日が続くと思っていた』と
つぶやかれていたのが心に強烈に残りました。
3年前に亡くなられた、いけだあつこさんという方の文章が私は好きで
記事を切り抜いて大事にとってあるのですが、その一説を紹介させていただきます。
『人生というものを、生まれてから死ぬまでの一定の期間と限定し、しかもそれを自分の権利だと
他者に主張するようなのが現代の人生観である。これはあまりに貧しい。自分の人生だと思うから
不自由になるのである。しかし人生は自分のものではない。生きるも死ぬも、これは全て他力に
よるものである。(人間自身より)』
『入れ替わり、立ち替わり、生まれては、死んでいる。繰り返している。その繰り返しの中に、
この私もいる。来年は私がいないのかもしれない。何が存在していたのだろうか。永遠的循環の
中の、1回的人生。いま生きているということ自体が、奇跡的なことである。』
これを読んで、私はいつも思います。
今こうして私が生きているのは自分の力ではない。
自然や他人によって生かされているのだと。
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