■ AGAINST THE RULES ■
突然別れを切り出されて、あたしは持っていたマグカップを思わず取り落とした。
「あのさ…俺…」
「ちょっと待って。拭くから。」
あたしはキッチンに布巾を取りに立った。彼に背を向けていないと動悸が激しくなりすぎて、何を言い出すか自分で制御できない。
布巾を流れる水ですすいできつく絞る。きつくきつく絞る。ああ、もう身体のコントロールも利かない。
テーブルに戻ってこぼしたコーヒーを拭き取ると、あたしは旭(あさひ)の向かい側に座った。
「で、どういうことなの。」
テーブルに肘を突いて頬杖ついて、あたしは旭をじっと見つめた。
「他に好きな人がいるんだ。」
…好きな人が「できた」んじゃなくて「いる」んだね…
「いつから?」
「もう…2か月くらいかな。」
「あたしの知ってる人?」
「いや、バイト先の人だから…」
旭は俯きがちにぼそぼそと喋る。
「で、有梨(ゆうり)に相談に乗ってほしいんだけど…」
一体この男は何を言っているのか。たった今別れようとしている元カノに何の相談があるっていうのよ…
「相手は…妻子持ちで、」
「ちょっと待って。さいしもち?」
あたしは自分の耳を疑った。
「妻子って何よ。まさか、相手は男なの?」
旭は涙目になってこっくり頷く。あたしは頭を抱えた。
「旭、あんた…」
「彼と出会って、ああ俺ってこっち側の人間なんだなって初めて分かったんだよ。」
こっち側って何よ…そんなであたしと付き合ってたんじゃ、さぞやお辛かったでしょうね。
あたしはもう、保護者にでもなった気分で、生温い視線を旭に送った。
つまり、旭の話によるとこうだ。
旭がバイトしているカフェの先輩で久保田(くぼた)という30代半ばの男がいる。
こいつ(こいつ呼ばわりで構わないとあたしは判断した)は、将来的に自分の店を持ちたいために、勉強を兼ねてカフェで働いている。妻と4歳の女の子のいる家庭がある。
今から2か月ほど前のある日。その日、閉店時間まで働いていたバイトは旭と久保田だけだった。片付けをしたり掃除をしたりしていたら、うっかり旭がコップを落として割ってしまい、指を切ってしまった。
すると久保田はひどく心配して、切れた旭の指先を舐めた。
旭が困惑していると、久保田はこう言ったそうだ。
「いつも旭くんを見ていたんだよ。一生懸命な子だなって。君にどんどん惹かれていく自分を、もう抑えられないんだ。」
…ここまで聞いて、あたしはあまりの馬鹿馬鹿しさに、口をあんぐりしたまま旭の顔を見た。
旭は伏し目がちに、でも口許がちょっと弛んでいる。そんな嬉しいの…
さて、それで、その時は旭も何が何やら分からず、久保田に何を言ってるのかと訊き返した。すると久保田はいけしゃあしゃあとこう言った。
「本当は僕はバイセクシャルなんだ。妻と結婚したのは子どもが欲しかったためで、結婚した後も本当は男性と付き合いたいと思っていたんだ。」
…ここであたしはキレた。
「ねえ、何なの、そいつはっ。バカなの?それとも人でなしなの?」
「バカでも人でなしでもないよ。」
旭はちょっとムッとした顔であたしを見た。
「人の気持ちなんて理屈じゃ割り切れないよ。仕方ないじゃないか。」
「仕方ないって…あんた、そうやって丸め込まれたのね?」
「丸め込まれたとか言うなよ。自分の意思だよ。」
あー、ダメだこれ。洗脳されてる。
旭は更に話を続けた。
結局、その日はそれだけで終わったんだけど、翌日から久保田はあからさまに旭に迫ってくるようになった。
「俺も初めのうちは気味悪かったんだけど、あまりにも一途に思われるとほだされるっていうかさ…」
「一途でも何でもないじゃん。奥さんがいるんでしょう?」
「でも男には俺だけだし。」
ああもうっ。何を言っても無駄みたいだとあたしは悟って、黙って旭の話を聞くことにする。
そうこうするうちに、またとある日、閉店時に久保田とふたりきりになった。
旭がテーブルを拭いていると、久保田が近寄ってきた。ふと気付いて振り返ると、久保田は旭をテーブルに押し倒し、唇を重ねてきた。
あッと思う間に、旭は久保田のキスにぼうっとなってしまい、そのまま身体をされるがままに…
って、客用のテーブルで!あんたたち何やってんのよっ!
でもそれ以来、旭はもう久保田に抵抗する気もなくなり、ずるずると関係を続けているという。で、今日ついにあたしと別れよう、というわけ。
「で?何?相談に乗ってほしいって。」
あたしは頬杖をついたまま旭を見返した。旭はちょっと困ったような顔で俯いたまま、あたしをちらっと見た。
「こんな関係ってダメかな…」
「ダメに決まってるでしょう!」
思わずテーブルをばしんっと叩くと、旭はびくっとなって、泣きそうな顔をした。
「男同士だから…」
「そうじゃなくて!不倫はダメって言ってんの!」
「奥さんには絶対バレないようにするって彼が…」
「つまり、奥さんと別れる気はないってことでしょ。あんたは愛人なんだよ?」
「でも好きになっちゃったんだよ…」
旭はちょっと涙ぐみながら、あたしを上目遣いに見た。唇が震えてる。
こんな…こんな旭の顔、初めて見た。あたしと付き合ってた間、旭はここまであたしを思ってくれていたんだろうか…?
あたしは溜め息を吐いて、今度は努めて優しく言った。
「あんたの言ってることは分かった。明日店に行って、その久保田サンって人がどんな人か、あたしも見てあげるね。」
旭はこっくり頷くと、ちょっぴりホッとしたように微笑った。
旭が働いているカフェは、あたしが勤めてる会社のすぐ近くにある。
元はと言えば、あたしが昼休みにそのカフェに通っていて、旭と知り合って付き合い始めて…
なのに、その同じ場所で、旭が他の人に心を移すなんて、何の皮肉なんだろう。
確かに、旭はちょっと流されやすい性格だ。他人に強く言われると、そうかな、って思うようになっちゃうみたい。
でも、いつもニコニコしていて憎めないし、人が好くて誰にでも優しい旭が大好きだった。それが仇になったんだね…
あたしは溜め息を吐いて、カフェのドアを開けた。
「いらっしゃいませー。」
判で押したような、店員何人かの声。あたしは店内を見渡してから、カウンターに向かった。
昨日、旭は、久保田は大抵カウンターに入ってるって言ってた。見ると、客対応してるのは3人、そのうち2人は若い女の子、1人だけ男。こいつが久保田かな…
あたしはまっすぐ男の前に向かった。胸に付けてるネームプレートを見る。
…ああ、こいつだ。眼鏡をかけたやさ男。
思わず睨み付けると、久保田は不審気な顔になり、次には何か納得したように頷くと、ニヤリと笑った。
「もしかして…有梨さん?」
久保田はニヤニヤしながらメニュー表をあたしに差し出した。
「何で知ってるんですか。」
あたしはメニュー表を押し返しながら言った。
「旭くんから聞いてますよ。」
旭のバカ!余計なこと言わないでよ…でもあの子、嘘ついたりごまかしたりできないからな…あたしはちょっと俯いた。
すると久保田はたたみかけるように、
「自分の彼氏を寝盗った男の顔を見に来たんですか。」
と、半笑いで言った。
その瞬間、あたしの中の何かが、ブツッと音を立てて切れた。
あたしはカウンターの台を拳で思い切り叩いた。
「あんたねえ!!」
「お客様、どうなさいましたか?」
奥から店長らしき男が慌てて飛び出てきた。周りにいた他の客も、驚いた顔であたしを見ている。でも久保田だけは相変わらずニヤニヤとあたしを見ていた。
「…いえ、何でもない…です…」
あたしは久保田を睨み付けたまま、カウンターの前を離れた。
そのままドアの方に向かうと、テーブルを片付けていた旭が、呆然とこっちを見てるのに気付いた。でもあたしは何も言えず、そのまま店を後にした。
夜、家に帰ってぼうっとしていたら、旭から電話がかかってきた。
「有梨、ごめん…」
しょんぼりした旭の声を聞くと、胸がキュッとなる。
「ねえ旭、あいつダメだよ。付き合うなんて、ダメだよ…」
昼間の久保田の目付きを思い出して、あたしは必死に言った。
あんな奴に旭を奪われたくない。涙が出そうだった。
「あたし、今でも旭のこと好きだよ。旭と一緒にいたいよ…」
「ごめん…有梨。本当にごめんな…」
「謝らなくていいから、あたしのとこに戻ってきてよ…」
旭は小さく溜め息を吐いて、でもハッキリと、
「それはできないよ。」
と言った。そうして、
「俺、多分、もう女の子とは恋人として付き合えないよ…」
と、苦しそうに呟いた。
それは、ものすごい衝撃であたしを打ちのめした。そんなこと言われたら、もうそれ以上、あたしからは何も言えないじゃない…
「ごめん。」
旭はまた、繰り返し謝った。…もう…謝らなくていいよ…
「分かった。でもね、旭、あいつは本当にやめた方がいいよ。友達として言うけど。」
「うん…そうかも知れないね。」
電話の向こうで旭がどんな顔してるのか、今のあたしにはもう想像もできなくなっていた。でも。でも、あたしは…
「ねえ、友達だからさ、あたしたち。何かあったらまた電話してきてよ。話聞くから。もう怒ったりしないから。」
このまま旭と疎遠になってしまうのはイヤだ。どんな形でも繋がっていたい。
「うん、ありがと。じゃあ、またな。」
それだけ言って、旭は電話を切った。
あたしは切れた電話を見つめたまま、旭が久保田に傷付けられて、それでまたあたしのところに戻ってきてくれたらいい、とか、いや旭が傷付けられるのを待つなんて、あたしは酷いエゴイストだ、とか、ぐるぐる考えが巡って、でも本当に胸が苦しくて、気付くと、涙をぼろぼろこぼしながら椅子にへたり込んでいた。
■了■