本の原稿  2004年1月///

ふるさとはあるがたきかな
   女優 松井須磨子
        ムム故郷長野から 伝えたいことムム  

目次
 序 伝説の女優 松井須磨子
須磨子伝説
伝説は真実なのか
 第一章 松井須磨子のプロフィール
信濃毎日新聞紹介のプロフィール
埴科郡清野生まれ上田育ち
須磨子上京
最初の結婚
第二の結婚
文芸協会演劇研究所に
試演ごとに須磨子の評判
新しい女ノラの時代
芸術座の誕生
劇団の芸術化か、スターシステムか
「復活」の大ブレイク
「復活」上演裏話
「復活」は地方公演を可能に
  大正三年五月
  第二章   ふるさとはありがたきかな
「須磨子来る」の大報道
長野新聞も「須磨子来る」
故郷公演は須磨子の念願
三幸座は模様替えして歓迎
高かった入場料
公演前の講演会
これからは女優の時代
地方でも東京と同じ舞台を
松代は象山と須磨子を出した
家族、親族、わだかまりなく
思いがけない非難
読者もまた
極めつけは丸山軍治節
須磨子の反論
  大正四年一月
  第三章  須磨子人気の定着
一月五日の上諏訪都座から
堀内将軍と須磨子
講演会は地元の要請に応えて
須磨子人気の定着
満員札止めの入場者
須坂入りは人力車を列ね
  大正四年の七月
  第四章  主演女優のがんばり
後援者への挨拶廻り
ケチと言われた須磨子
新しい演目は紹介記事
『その前夜』『サロメ』『飯』の評判はまずまず
初めての町は「復活」に燃えた
  大正六年四月、九月〜十月
  第五章  ついに生地松代公演
四度目の穂高は地域劇団を生んだ
報道は少なくても元気に巡業
臼田の佐久楽座
『人形の家』のノラをやる?
大洪水の松代海津座公演
  大正八年一月
  第六章  最後の報道
島村抱月の急死
須磨子自殺の報
なぜ、死を
須磨子の親族のインタビュー
抱月未亡人のインタビュー
中山晋平のインタビュー
中村吉蔵のインタビュー
逍遙のインタビュー
デスマスクと十四歳の死
須磨子の葬儀に六百名
初七日の追悼会
須磨子の遺書 なにとぞ一緒の墓に

  序 伝説の女優 松井須磨子

須磨子伝説

松井須磨子という伝説的な女優がいる。
カリスマ的存在は伝説に満ち満ちるものではあるけれど、須磨子もまた多くの伝説に取り巻かれている。
伝説の第一は、やはり、須磨子と島村抱月の激しい恋物語だろう。
抱月は早稲田大学の教授で、当時のあこがれの知的エリート。文芸協会の演劇研究所の教授でもある。その彼と、一研究生であった須磨子が、研究所の規則に背いて、恋に落ちたというのである。
恋愛が、まだ今のように市民権を得ていなかった明治であったから、演劇研究所にも、厳しい禁止規則があった。
この演劇研究所は、早稲田大学の坪内逍遥が私財を投げ打って作ったものだったが、抱月は逍遥の愛弟子だった。そして、日本に、「シェークスピアのような、新しいヨーロッパの演劇を根付かせたい」という、同じ夢を夢見る同志でもあった。
それにつけても、と逍遥は考えた。役者ではなく、俳優を育てたい。芸術性豊かな、教養をバックボーンに持つ、役者にまつわる性的スキャンダルと無縁な芸術家を、と。
逍遥自身も恋愛結婚をしていたから、恋愛の美しさをわからぬ男ではなかったが、それでも、演劇研究所の規則で、研究生どうしの男女交際を禁じた。
須磨子と抱月の恋愛は、この規則を、根底から揺さぶるものだった。
しかも、抱月には妻子があった。しかも妻は、恩人島村文耕の姪であった。島村文耕は抱月を貧困から救い出してくれた恩人なのだ。少年の身でもうすでに働いていた佐々山滝太郎(抱月)に目をかけ、養子の約束をし、学資を出し、最高の高等教育への道を開いてくれた。妻はその恩義ある恩人の姪なのだ。
須磨子伝説はいう。須磨子は、抱月を妻子から奪い、大学教授の地位を投げ打たせ、師である坪内逍遥を裏切らせ、文芸協会を空中分解させていったと。
激しい不倫の恋の伝説である。
そしてたぶん、第二の伝説は、「カチューシャかわいや、別れのつらさ」の大ヒットであろう。
トルストイ原作の「復活」を、島村抱月の脚色で舞台化し、主役の薄幸のヒロインを須磨子が演じ、驚異的な大ヒットをもたらしたカチューシャ伝説である。須磨子のカチューシャか、カチューシャの須磨子か。劇のタイトルそのものまで、いつか「復活」というより、「カチューシャ」と言うほうが通りがよくなってしまっていた。全国各地から、カチューシャがみたい、須磨子がみたいとお呼びがかかり、わずか五年で、四百四十四回の大記録を打ち立てた。一年のうち、四日に一回はカチューシャが上演されているというほどの、大ブレイク伝説である。
「カチューシャかわいや、別れのつらさ」は、その劇中で須磨子が歌ったもので、全国津々浦々、学校で禁止しても、小学生まで歌っていたという伝説の愛唱歌である。須磨子が歌ったレコードの売り上げ枚数二万枚。いや、四万枚も売れて、蓄音機の売り上げ台数二万二、三千の倍も売れて、倒産寸前のレコード会社を起死回生させた。そんな伝説まで残っている。
あるいは、須磨子が猛烈な練習熱心で、文字どおり体当たりの演技に熱中。熱中のあまり、なりもふりも構わず、時間も忘れ、いい加減のところでやめようなどと言おうものなら、相手が男性俳優であろうと罵倒したという伝説もある。
あるいはわがまま、あるいはケチ、あるいは田舎者、あるいは悪妻、あるいは音痴、あるいは大根役者、あるいは自分だけ舞台で目立ちたがりやのエゴイスト。あるいは役者は河原乞食だからと生家から勘当された、などなど。
伝説的な女優であるということは、あらゆる伝説に包まれるということなのだ。
もろ手をあげた賞賛から、いじわるな誹謗中傷まで、伝説は賛否両極をはげしく揺れ動く。

伝説は真実なのか

伝説は、はたして、真実を伝えているのだろうか。
真実を知るには、本人に聞いてみるのがまずは一番。須磨子か抱月に語ってもらうのがまず第一の筋なのだが、二人ともにもうこの世にはいない。
映像の残る時代でもなかったから、実際に舞台を見て評価することもできない。メーキングビデオももちろんない。
それならば、二番手として、彼女をほめる、あるいはけなす、その伝説の発信源の人々に直接会って聞くことも考えられるが、それらの関係者もいまはもういない。
それなら記録に当たるしかないわけだが、同じ記録なら、川村花菱の『随筆 松井須磨子』(昭和二十五年脱稿、四十三年、青蛙房より出版)、田辺若男『俳優』(昭和三十五年、春秋社)、河竹繁俊の『逍遥、抱月、須磨子の悲劇』(昭和四十一年、毎日新聞社)といった、直接、逍遙、抱月、須磨子と関わった人の書いた本を大事にすべきなのだろう。
しかし、人の記憶は、どんなにすぐれて公平な人であっても、好悪の感情によって、少しずつ偏向する。しかも、見聞してから書くまでの間にそうとうの年月がたっている。記憶は年月とともに、無意識のうちに、変質していくものなのだ。
だいたい、どのエピソードを書き残すか、それでも印象は変わってくる。
抱月を失った後のエピソードとして、亡くなった朝、須磨子が支配人を連れて外出し、抱月の貯金と電話の名義を、須磨子の名義に書き換えてしまったという話をとるか。それとも、告別式が終わって間もない芸術倶楽部の舞台で、喪服をつけた須磨子が、ひとり、「カルメンの唄」の稽古をしていた思いがけない美しい歌声の話をとるか。
須磨子の印象はまったく変わってくる。
そして、話は、直接体験か、人から聞いたことかでも変わってくる。須磨子が支配人を連れての話は、後から人に聞いた話だというし、喪服のまま、ひとり、抱月の告別式をしたその舞台で一生懸命歌っている姿は、実際、その場に居た者が見聞きした話である。
何をとり、何を捨てるか。人から聞いた話か、直接体験か。
だから、関係者の記録は、それとして読んで、そうかとも思うのだが、やはり、それは、花菱氏の心にかなった取捨選択があり、繁俊氏の心にかなった取捨選択がある。どんなに善意であっても、記憶した人の色を消すことは出来ない。
しかも時代は男社会。男の書き手は、無意識のうちに、女に厳しくなりがちなのだ。田辺若男のように、悪口を書かず、楽屋落ちめいた話もあまり書かず、公演の日々を淡々と語る回想記は珍しいのだ。

やはり、こうした記録だけでは、須磨子に不利なのではないだろうか。

だから、もし、できるなら、須磨子にできるだけ近い時点での記録を重ねてみたい。それが起きた時点に一番近い記録を積み重ねて見えてくる同時代の須磨子、それをもう一方に置いてやりたい。
そんな思いの一つとして、須磨子がはじめて自分の故郷長野で公演することになったころの新聞記事から見えてくるものを、証言の一つとして、置いてみたいと思った。
資料は当時の新聞とし、
一つは、信濃毎日新聞のマイクロフィルム。
もう一つは、長野新聞(明治三十二年四月から昭和十二年四月まで発行された新聞で、幸いにも、信濃教育会の教育博物館に収蔵されていることを偶然知った。うれしかった。)
この本でできることはほんのわずかである。長野の須磨子の足取りと、長野の須磨子を迎え取り巻いた空気だけである。
けれども、そういうものを、年ごとに、場所ごとに、重ねていけば、須磨子の真実がリアルタイムで見えてくる。
記憶の思い出集の須磨子と、リアルタイムの須磨子。両者相まって、須磨子の真実はより確かに浮かび上がってくるのではないだろうか。

 なお、本書の新聞からの引用は原文通りを原則に、ただ表記は、原文の総ルビを取り、新字体、現代仮名遣いにあらため、一部の漢字をひらがなに(其→その、計→ばかり等)、送りがなを補い(付→付き、等)、また句読点、かぎかっこを添えるなど、読みやすくするための表記上の変更をしている。

  第一章 松井須磨子のプロフィール

信濃毎日新聞紹介のプロフィール

「芸術座付き女優松井須磨子は埴科郡松代町の生まれだが、上田町にて育ち、その後東京に移り、文学博士坪内雄蔵氏主宰の文芸協会に入って、試演ごとに高評を博し、島村抱月氏が同会を辞するに当り、氏と進退を共になし、芸術座の新設さるるや同座付きとなり、益々天稟の才能を発揮し、「復活」におけるカチューシャ、もしくはイプセン劇のノラ、マグダ、あるいはモンナワンナに扮し、入神の技、よく天下一品の名を轟かせたのである。そこで須磨子は信州は自分の出身地でもあるし、故郷へ錦を飾るというような意味をもって、久しき以前より長野の開演を希望していたのを、今回漸く島村氏に容れられ、市下在住早稲田大学関係者の肝煎りにて、三幸座に独特の技を演ずることとなった次第で、座員は須磨子の外、武田正憲、中井哲、田辺若男、勝見庸太郎、波野雪子、村田栄子、松良静緒の男女優以下研究生十数名を網羅し、島村抱月、中村吉蔵の二氏は舞台監督のために同行のはずである。」(大正3年5月20日 信濃毎日新聞)
大正三年五月、須磨子の初めての長野公演が実現し、故郷に「錦を飾る松井須磨子」という見出しのもと、須磨子のプロフィールが新聞に紹介された。公演の様子は後にまわすことにし、まず、須磨子の半生を、この新聞のプロフィールに従って、たどっておきたいと思う。

埴科郡清野生まれ上田育ち

須磨子の生まれ故郷は、現在の住所表示なら長野市松代町清野になる。大正三年のころは、大まかに言えば「埴科郡松代町」。正確に言えば「埴科郡清野村字越」(5月28日 信濃毎日新聞)が須磨子の故郷である。
須磨子の本名は小林正子。父は小林藤太、母はゑし。九人兄弟の末っ子として明治十九年に生まれた。四人の兄と四人の姉がいた。
松代は江戸時代までは松代藩の城下町。小林家も松代藩の士族だった。
「上田町にて育ち」というのは、上田の長谷川友助に嫁いだ叔母(父の妹)の家に子供がなかったので、須磨子は養女にもらわれ、上田で育っている。松代は、夏休みや冬休みに帰るなつかしい生家であったが、上田町立女子尋常高等小学校を卒業した十五の年に、養父が亡くなり、須磨子は松代の実家に戻ることになった。

須磨子上京

ところが、同じその年、大好きな父・藤太もまた亡くなり、須磨子は人生の悲しみを知った。舞台の上で心ゆくまで泣きたい。それが、女優になる勇気を与えてくれた一つだったという須磨子の、人生最初の悲しみであった。
翌明治三十五年、東京の麻布飯倉の二番目の姉峰子(夫は七澤安(康)太郎)を頼って上京。プロフィールに「その後東京に移り」というのはこのことで、戸板裁縫女学校へ通うようになった。
女学校の卒業記念写真も残っている。紋付に袴をきちんとつけた正装で、下駄の太い鼻緒が印象に残る。須磨子はじつに手先が器用で、じつに手早く縫い上げるといった話が残っているが、ここでの修練があったからなのだろう。
姉の家は風月堂という菓子店を営んでいたので、その店先に立つこともあった。『牡丹刷毛』の中に、「ありがとう」という言葉さえ容易に口に出せない初々しい須磨子の姿が描かれている。
『牡丹刷毛』(大正三年六月)は須磨子が残したたった一冊の須磨子自身の随筆集である。抱月の手が相当に入っているという話もあるが、私は、素直に、須磨子の肉声を聞きとりたいと思うようになっている。女性ならではの感情の起伏は、男性には書けないと思うからなのだ。

最初の結婚

明治三十六年、上京した翌年の十一月、十七歳の須磨子は東京湾を船でわたって、千葉県木更津の割烹旅館の息子・鳥飼啓蔵と結婚する。しかし、この結婚は一年に満たずに壊れ、須磨子の心に深い傷を残した。東京に戻った須磨子は自殺未遂事件を起こしている。
この結婚のことも、自殺未遂事件のことも、『牡丹刷毛』にある。自殺未遂は「彼女が世話になっている姉の家」で起こしたと描かれているが、従姉の嫁ぎ先・町田濤次家でのことだったという話も伝わっている。
この結婚は、『牡丹刷毛』に書き残すほど心に残るものだったわけだが、どういうわけか、夫の姿は影法師のように希薄で、夫の両親の方が印象深い。実の親のように須磨子をかわいがってくれて、いつか顔形まで、実の父そっくりに見えてきたという。そうした思い出が懐かしいのであろうか。まだ初々しく、夫の夜の外出を浮気だとさえ気づかなかったころの夫婦であれば、夫の思い出といっても、淡すぎるものだったのかもしれない。
それでも、この結婚、須磨子の心に残った。女優として華やかな日々を迎えても、千葉という消印を封筒に見つけると、それだけで激しく動揺する。そんな須磨子の姿が『牡丹刷毛』にはある。

第二の結婚

それから四年後の明治四十一年、二十二歳の須磨子は新しい結婚に踏み出す。
ちなみに、明治四十一年は、川上貞奴によって、帝国女優養成所が開設され、後に帝劇女優代表として須磨子の弔辞を読む森律子等が入所した年でもあった。川上貞奴は女優第一号ともいわれ、夫の川上音次郎とともに欧米の巡業に進出。サンフランシスコで初舞台を踏み、一九00年のパリ万博にも招かれ、マダム貞奴と絶賛されていた。
夫の前沢誠助は、須磨子と同じ埴科郡の、坂城村の出身で、東京高等師範学校で学ぶために、須坂の小学校を休職して上京。二人の出会いは、東京の町田家だったと言われているが、すでに坂城で接点があり、須坂でも接点があったのではないかと、最近になって新しい可能性が問題にされ、調査も進んでいる。
坂城には、須磨子の一番上の姉きくゑがいた。須坂には、須磨子の三番目の姉井口ますが一時住んでいたし、須磨子の伯母小田切さい(父の姉)もいた。前沢も坂城は故郷、須坂は小学校の赴任先だったから、可能性なきにしもあらず。
須磨子は最初の結婚に破れ、自殺未遂事件を起こした後、坂城の大英寺で静養していたという話がある。これが二人の最初の接点の可能性で、須坂の伯母の家にも滞在し、そのおり、前沢の下宿を訪ねたという話や、再度上京したのは、この伯母の家からで、しかも伯母に黙っての上京であったという話も、浮かび上がって来ている。
しかし、須磨子の人生にとって最も大きかったのは、前沢が、児童読み物作家の巌谷小波に師事し、児童劇の先駆となるお伽芝居にもかかわっていたことだった。その縁で、お伽芝居の舞台に立ったという話もある。お伽芝居を見て芝居に開眼したという話もある。
また、前沢が東京俳優養成所の日本史の講師になったとき、その主事の桝本清と研究生の田口栄三に須磨子を引き合わせ、「うちの女房を女優にしたいのだが」といったと言う。「碌々口もきけないのである……器量も十人並で余り良くない……」という田口の記録も残っているそうで、須磨子が日本に入ってきたばかりの隆鼻手術を受けたのは、この桝本のアドバイスだったという話もある。

文芸協会演劇研究所に

明治四十二年五月、ついに須磨子は、彼女を女優として輝かせることとなる文芸協会の演劇研究所に飛び込んでいった。
新聞のプロフィールに従えば、「文学博士坪内雄蔵氏主宰の文芸協会に入って」ということになる。
坪内雄蔵は逍遥の本名。文芸協会は、初めは大隈重信を主宰に立ち上げられた早稲田文科の牙城で、推進力は、新帰朝の島村抱月。
彼は早稲田から派遣されてイギリス、ドイツに留学し、美学、心理学、美術、英文学などの新知識を持って帰国。早速、期待に応えて、明治三十九年二月、文芸協会を設立。構想は壮大で、宗教、美術、教育、文学を含む広範な文化運動を目ざすものだったが、実質的には、抱月が「早稲田文学」の復興を成し遂げ大いに気を吐いた活動と、逍遙の率いる演劇部門が三度ほど上演活動をしただけで、その他の、総合的な文化運動の方は展開できずに活力を失いかけていた。
そこで、新たに態勢を立て直す必要に迫られ、坪内逍遙が実質的な主宰を引き受け、活動も、演劇部門にのみ縮小することに決定。逍遙は自分の屋敷の土地を無償で提供し、演劇研究所を設立。俳優を一から育てることにし、研究生を募集。
須磨子が応募し、合格したのは、この、逍遙が主宰を引き受けた後期の文芸協会の演劇研究所で、その第一回の研究生だった。課程は二カ年、幹事を兼ねた教師陣に東儀鉄笛、土肥春曙、島村抱月、金子馬治、伊原敏郎。
ちなみに、明治四十二年は、小山内薫と、歌舞伎俳優市川左団次によって、自由劇場が設立された年でもあった。
思えば、この年は、明治とともにはじまった演劇改良のさまざまな試みが、自由劇場に実を結び、文芸協会の演劇研究所も、その流れの中で生み出された年だったのだ。

試演ごとに須磨子の評判

新聞のプロフィールに「試演ごとに高評を博し」という、その第一回目のチャンスが、明治四十三年三月、文芸協会第一回試演会でやってきた。演目はシェークスピアの「ハムレット」。注目のヒロイン、オフェーリアに、須磨子が抜擢されたのだ。
須磨子の女優人生のはじまりである。
須磨子は稽古に熱中のあまり家事を放棄。秋、夫の前沢が去っていった。しかし、須磨子は心に一点の傷も受けず、女優街道をひた走る。こう思うのは、ほんとうに不思議なのだが、須磨子の『牡丹刷毛』に、前沢のことが、まったく、一言も出てこないからである。結婚のことも、離婚のことさえも。
そして、翌明治四十四年五月、商業劇場の帝国劇場で七日間「ハムレット」を公演することになった。オフェリアはもちろん須磨子。
 同じ年の九月、演劇研究所に、客席六百の私演場(試演場)が出来上がり、こけら落としはイプセンの「人形の家」。主役ノラはまたも須磨子となった。ノラは、即座に、十一月の帝国劇場での公演が決まった。

新しい女ノラの時代

帝国劇場の「人形の家」は、女優須磨子の名を広く世間に知らせることになった。女の自立を訴える点でも注目をあびた。
初演の四十四年という年は、平塚らいてうが「青鞜」を発刊した記念すべき年でもあった。「青鞜」は周知のように、女の手による女のための初めての雑誌であり、「元始 女性は太陽であった」という熱い訴えは、大変なインパクトをもって人の心をとらえ、その後の女性運動の象徴となっていく。
ノラもまた、「なにが、不満なんだ。こんなに大事にしているじゃないか」という夫の庇護を振り捨てて、家を出ていく女だった。「僕のためにかわいい女でいてくれさえすればいい」という夫の言い分が、ノラには不満だったのだ。大切なことは相談されず、かわいい存在であることだけを求められる、そんな妻であることにノラは疑問をもった。自分で生きてみたい。自分の力で、自分の頭で、自分の心で生きてみたい。自分を一人前の人にしたいと、ノラは子供を置いて家を出る。ノラは新しい女だった。
そして賛否両論、世間は沸騰する。
与謝野晶子は、この劇の上演より早く、ノラの反抗を旧式で月並みな反抗と否定していた。「なぜノラは家を然う軽率に出るのか、なぜ然う極端に夫に反抗するのか、なぜ然う容易く子供を置き去りにするのかと反問したい。然う云ふ過激な事を決行せねば成らないほどノラの身の上は行詰まっては居りません筈です。私がノラなら矢張家にゐた儘あらゆる方法を尽くして其『自分を一人前の人に教育する』目的を遂げて見せます」と「新婦人の自覚」(明治四十四年七月『一隅より』)の中で批判していた。
晶子は夫の鉄幹以上に家計を支える稼ぎ手であり、女が社会で稼ぎ出し、生きていくことの大変さを身をもって知っていた。そして、子供のかわいさも。だから、ノラの甘さが目に付き、新しい女などと思えもしないわ、ということだったのだろう。
夏目漱石は招待を受けて帝国劇場に出かけた一人なのだが、須磨子の芝居が気に入らなかった。「すま子とかいう女のノラは女主人公であるが顔がはなはだ洋服と釣り合わない。もう一人出てくる女もお白粉をめちゃ塗りにしている上に目鼻立ちがまるで洋服にはうつらない。ノラの仕草は芝居としてはどうだかしらんが、あの思い入れやジェスチャーや表情はしいて一種の刺激を観客に塗り付けようとするのでいやなところがたくさんあった。東儀とか土肥とかいう人は普通の人間らしくてこの厭味が少しもないから心持がよかった」(日記 明治四十四年十一月二十八日)と書いている。
ちなみに、東儀鉄笛、土肥春曙は男性俳優で、かつ教師として教える側でもあった。
漱石はロンドン留学中に本場の芝居をずいぶんと見てきた人間なのだ。セリもあり、まるで竜宮城が舞台の上に出現したかのような豪華な舞台装置だけでも、漱石の度肝を抜くみごとな芝居を本場ロンドンで見てきた漱石なのだ。そういう肥えた目には五月の「ハムレット」も全く不出来に見え、ノラも不満ばかりだったとしても、日本の観客は、劇場まで足を運んでくれ、須磨子を見てくれた。
「主人公のノラに扮するはこの「ハムレット」でオフィリヤを勤めた松井すま子である」「始めは静かな水が次第に波瀾を起して千態万状に変じてゆく、その間にすこしのタルミなく表情もせりふも緊張して見物は全くこの女主人公に引付けられてしまう。」(伊原青々園「都新聞」明治四十四年九月二十三日 川村花菱「随筆 松井須磨子」より 以下同じ)
「日本に生まれた女優の口からはじめて自然なせりふを聞くことが出来た」「生まれて初めて近代劇を見て、やさしいような、淋しいような、いい知れぬ心持ちで胸が一杯になって、今迄の夫の親切をしみじみと礼をいうあたりで思わず涙をこぼす事の出来たのは、一つにすま子女史の力だと思う。」(川村花菱「歌舞伎」明治四十四年十一月)
ノラへの批判も賛辞もさまざまであったが、新しい女という存在が時代の注目を浴びる、そんな時代にノラをやれたということが、須磨子には、まことに幸いだった。

明治四十五年、ノラの次に演じた「故郷」のマグダも、故郷を捨て家を捨ててまで、自分のなりたいオペラ歌手になっていく新しい女だった。須磨子のマグダか、マグダの須磨子か、そんな言い方がされるほど、これもまた評判になり、東京の有楽座を皮切りに、大阪帝国座、京都南座、名古屋御園座と巡演が可能になった。
「ダラシのない新しい女優劇や陳腐な旧劇ばかり見ていた所だから、今度の文芸協会の「マグダ」は実質以上に面白かった。マグダの表情や態度がやや単調で、僅かな時間の間にその一生の悲喜哀感を現し尽くすような場合としては、なお物足らぬ気がするが、これほどの力の籠もった芸はこの頃の劇団では珍らしい。しまいまで惹きつけられて見ていた。」(正宗白鳥「国民新聞」明治四十五年五月十日)
西洋演劇の研究と実践のためにはじまった文芸協会の試演が、商業劇場の舞台から声がかかって巡演できる。これは大変にたいしたことだったに違いない。評判を呼べず、お客も来ないとなれば、商業劇場から声がかかるわけがないのだから。
須磨子に公演が支えられ、公演に須磨子が支えられ、須磨子は急速に押しも押されもしない人気第一の女優として注目を浴び、輝いていった。
以上が、新聞のいう、「試演ごとに高評を博し」の概要である。

芸術座の誕生

次に、「島村抱月氏が同会を辞するに当り、氏と進退を共になし、芸術座の新設さるるや同座付きとなり」というのには、つぎのようないきさつがあった。
単刀直入に言えば、抱月と須磨子の恋愛である。文芸協会演劇研究所の規則にふれる恋愛を、こともあろうに、逍遥の右腕である抱月と、会の看板女優である須磨子がしてしまったのだから、じつに大変なことになってしまった。
いつ、どのようないきさつで、問題にされだしたのか、こういうことは実はよくわからない。抱月の妻のイチ子が夫の様子をあやしんで、島村家の書生であった中山晋平に、夫の後をつけさせたという話もある。イチ子は逍遙にも相談に行っているが、家庭内の紛糾に止まるかぎり、文芸協会で問題にされることはないだろう。しかし、「早稲田文学」(大正元年十一月)に抱月の名で、熱烈な恋歌(「心の影」という総題の詩と短歌群)が掲載されたとなるとどうだろう。
或時は二十の心或時は四十の心われ狂ほしく。
ともすればかたくなゝりしわが心四十二にして微塵となりしか。
くれなゐに黄金に燃えて水色にさめてはまたも燃ゆる君かな。
セリセット死ぬに哀れの妻なれど妻に代へたる恋もたふとし。
こしかたの幕はとぢたり美しき夢のはじめのモンナワンナよ。
抱月は「心の影」の前書きに、「心の影には情の真実はあっても事実の真実はない。事実の記載であるかのやうに非難せられたのを私は悲しむ」と付しているけれども、事はそう簡単にはすまなかった。
逍遥は困惑し、早稲田の総長高田半峰と相談し、高田の奈良京都遊歴に、抱月を誘い、しばらく関西に滞在させることにした。冷却期間を持たせ、その間、それぞれに、思い切るよう説得する考えだったようだ。が、事態はむしろ進展し、というのは、抱月と須磨子の恋愛問題だけでなく、大学や逍遥が、抱月に冷淡であると不満をいだく、抱月擁護派の動きがきわだってくることになった。
抱月不在中に上演した「二十世紀」は仕方ないにしても、抱月帰京後の「思い出」の演出まで、松居松翁を使ったことにも、不満が生まれていた。松翁は芝居のほうから出た人で、早稲田に関係があるといっても、生粋の早稲田人ではなかった。
抱月を邪魔者にした、抱月外しではないか。だいたい「二十世紀」も「思い出」も通俗に流れすぎている。いっそのこと、低俗に流れる文芸協会を脱し、新しい演劇運動を起こし、その盟主に抱月を担ごう。そんな、若い、抱月擁護派の動きが活発になっていった。
逍遙と抱月、心の底ではお互いを信じ、決別する気はなかったと言われもするが、関西旅行以来、帰京しても会わない状況が続いていた。そんな中で、逍遙は演出に抱月を使わず、幹事会に抱月を呼ばず、抱月は抱月で、実質的に外すつもりなら、自分から辞表をと、ことが荒立ってきた。
抱月は辞表とともに、須磨子とのいきさつを弁解し、他の関係者を非難し、須磨子が文芸協会にとどまれるよう、長文の弁明書を送った。しかし、逍遙はにぎりつぶし、弁明書を送り返し、五月三十一日、須磨子に、諭旨退会を申し渡した。
須磨子をクビにしたのである。
早稲田総長の高田は、抱月と逍遙を、直接話し合わせようと、会見の場を設定したが、それが査問会のように誤解され、抱月擁護派はいきり立ち、賽は投げられてしまった。逍遙は文芸協会の会長辞任を表明、七月三日、芸術座が旗揚げされ、十五日、逍遙は文芸協会解散を公表した。
抱月は十二月、母校早稲田大学教授も辞任した。
これだけのいきさつが、抱月の退会と芸術座のスタートにはあった。

劇団の芸術化か、スターシステムか

恋愛問題のゴタゴタがからみ、真の意味が見えにくくなってしまったが、逍遙と抱月の対立は、劇団の持って行き方の違いがあったように思う。
逍遙は、劇団全体を芸術家集団にしようとし、抱月は、スターシステムで劇団作りをしようとした。その大きな対立だったと思う。
逍遙は大の歌舞伎通であり、劇や踊りを人一倍の愛着で大事にしてきた人だった。それだけに、役者にまつわる道徳的スキャンダルをまことに嘆かわしく思っていたのだろう。
演劇研究所の教室に掲げられた「規」には、その逍遙の思いが凝縮している。
一、本研究生は我劇壇に新芸術を興すと共に旧来の演劇及び俳優に纏着せる陋弊を一洗しその社会的地位を高むるを理想とすべし
二、本研究生は芸術に対し常に真摯厳粛の態度を持し軽佻を戒めて大成の道を畢生の研究に求むべし
三、本研究生は本所がその地位組織及び精神において我邦演劇研究機関の率先者たるの責任を自覚し深く自らを重んずべし
 演劇に志すなら、芸術を興す気概を持て、モラルを云々される弊風と縁を切れ。演劇芸術に真摯であれ、厳粛であれ、軽薄な心を持つな。日本演劇界の先頭を行く者であると自覚し、自らを重んじよ。
 逍遙の語気はまことに激しい。逍遙は、愛する演劇を、社会から芸術と認知されるものとしたかったのだ。演劇改良のためには、俳優全体が芸術家集団とならなければだめなのだという高い理想。その理想のために、研究生同士の男女交際を禁じる。理想は、小さな一穴からも、崩壊する。逍遥は厳格に対処した。
 一方の抱月はスターを中心とした劇団を考えていたのだと思う。そのスターが、たまたま抱月と愛人関係にあったがために、抱月の意図が見えにくくなっている。抱月は、新劇が社会の理解を得るためには、スター俳優のカリスマ性が大切だと考えていたのだと思う。
 須磨子は明治四十五年、ノラ、マグダを演じたところで、すでに、カリスマ的スターの階段を登り始めていた。中央の雑誌の人物評論に、取り上げられたのである。
 「中央公論」七月号、須磨子を論じるのは、各界名士の、中村吉蔵、正宗白鳥、徳田秋声、上司小剣、岡田八千代、小山内薫ら(以下、川村花菱「随筆 松井須磨子」による)。
 小剣は、早稲田や文芸協会の見事な背景を割り引く必要があると言い、岡田は、ノラとマグダは須磨子しかやっていない。他にも、あれ以上の理解と技芸を示す女優がいるかもしれないと釘をさすが、
 吉蔵は「一言でいえば、・恐ろしい勉強家・である。アアした態度を今後も長く続けて行って、一歩、一歩に確実な前途を開いて行く用意を怠らなかったらきっと、将来の演芸界の中天を飾るべき一のスターたる立派な地位を占め得る人であろうと思っている。(略)女優としての財産は、あの高い調子も強い調子も自由に出て、そして劇場の隅にまで透徹する力を持った声調である」と言い、
 白鳥は「教えられただけではあれだけの芸は出来まい。天分が優れているのだろう。(略)一流の女優として褒めて差し支えない」と言い、
 秋声は「たとえマグダが唯一の女史の持ち芸であるとしても、私は他の女優に比べて、この人気役者を買ってやるべき充分の価値があると思う」と言う。
 演劇研究所ただ一人の快挙である。
 話題性ある、雑誌を飾れる俳優。その俳優が一番輝くように、劇のすべてを作り、脇の俳優すべてが引き立て役に徹するスターシステム。
 抱月は、だからこそ、須磨子を甘やかしすぎると、あれほど批判されながら、それでも、須磨子の魅力を一番に発揮する舞台作りを、頑として変えなかったのだろう。
 人々は理解せず、抱月はだらしない、須磨子に愛着するあまり情けない、と怒ったけれど、スターシステムならば、すべては主演俳優を輝かせるために作られて当然なのだ。宝塚のトップスターを輝かせるシステムのように。

「復活」の大ブレイク

新聞のプロフィールに「復活」におけるカチューシャ、もしくはイプセン劇のノラ、マグダ、あるいはモンナワンナに扮し、入神の技、よく天下一品の名を轟かせたのである」とある須磨子の紹介はまさにそのとおりであるが、時間の順序はすこし違う。
ノラ、マグダは文芸協会時代からの主役だから、芸術座発足以前からの須磨子の持ち役。
モンナワンナ(今はモンナ・ヴァンナと表記)は芸術座としての第一回公演の主役で、カチューシャは第三回公演の主役である。
芸術座は第一回旗揚げ公演を、九月に、有楽座で「モンナ・ヴァンナ」で。十二月、帝国劇場の「サロメ」に臨時出演し、二回目は翌大正三年一月、有楽座で「海の夫人」と「熊」。須磨子はモンナ・ヴァンナ、サロメ、「海の夫人」のエリーダ、「熊」のヘレエネ、とすべて主役を演じ、好評であったけれども、それでも、座員全員を食べさせていくのは大変で、財政的赤字からは抜け出せない状況だったようだ。
そして迎えた第三回公演、「復活」のカチューシャが大ブレイクしてくれた。起死回生の大ブレイクであり、この後、「復活」は芸術座の最大演目となり、大正八年一月の須磨子死去までのわずか五年で、じつに四百四十四回もの公演を可能にし、芸術座のドル箱となる。この興行収入で、大正四年の十二月には、念願の自前の劇場・芸術倶楽部を完成させている。
場所は東京の牛込横寺町。須磨子は完成と同時に転居し、抱月も一月に、家を出て、ここに住まうことになる。
「復活」は持続し続けるブレイクだった。

「復活」上演裏話

トルストイ原作の長編小説を、しかも、宗教的思想的小説を、悲恋物語に作り替えたアンリ・バタイユ脚色の翻訳を、抱月は、これほどの結果を予想しきってやっていたのだろうか。
じつは、「復活」練習中に、沢田正二郎ら、おもだった俳優が脱退する大きな痛手があった。須磨子のわがままに業を煮やしてという話が伝わっている。須磨子のわがままを押さえようとしない抱月にも愛想を尽かしたという話もあるが、沢田は男優の花形である。「復活」のネフリュードフ公爵も沢田に決まっていたのに、その彼を欠いての公演に、抱月はどれほどの自信を持てていたのだろうか。
そして大事な劇中歌。カチューシャが劇の中で歌う「カチューシャかわいや、別れのつらさ」のあの歌は、島村家が書生に置いていた中山晋平に作曲を命じたものだったが、公演間近となってもできあがってこなかったという。
どうしても、詩に、いい感じで曲がついてこない。一番は抱月の作詞、二番以降は相馬御風の作詞。どちらも当代一流の書き手であったけれども、苦しんだ晋平は、その詩にはなかった「ララ」という一語を放り込んでみた。「神に願いを、ララ、かけましょうか」と。そしてその途端、即座に曲が完成した。
これは中山晋平伝説が伝える劇的なエピソードである。「復活」ヒットの一要因が、この劇中歌の、やさしくなつかしい調べであったことは、これもつとに伝えられる伝説である。
そして、全国津々浦々に「カチューシャかわいや」のメロディーが流れる。学校で禁止されても、子供たちまで歌っていたという伝説とともに。
須磨子の声で吹き込まれたレコードは、じつに四万枚売り上げる大ヒットとなり、倒産寸前だったレコード会社を起死回生させた。蓄音機売り上げ台数二万台余という時期に、四万枚売れたという伝説なのである。
このレコード、今も残っていて、須磨子の歌声を聞くことができる。

「復活」は地方公演を可能に

新聞のプロフィールに「そこで須磨子は信州は自分の出身地でもあるし、故郷へ錦を飾るというような意味をもって、久しき以前より長野の開演を希望していたのを、今回漸く島村氏に容れられ、市下在住早稲田大学関係者の肝煎りにて、三幸座に独特の技を演ずることとなった次第」とある。
今回長野市三幸座の招聘により」(5月19日 信濃毎日新聞)とあるとおり、長野の常設館・三幸座の方から呼んでくれたのだ。公演日は五月二十九日からの四日間。
「復活」の初演は三月の下旬、東京の帝国劇場で大好評のうちに終わり、ただちに、大阪、神戸に呼ばれていた。こうした都会から都会へのケースは、今までにも何度もあった。文芸協会の時代も、芸術座になってからも、何度もあった。
けれども、地方からの招待は、初めてのことだった。しかも、初演からまだ二ヶ月。こんなにも早い時期に、地方の町から来ないかとお呼びがかかる。「復活」のブレイクは、今までのノラやマグダとはまったく様相の違う大ブレイクだったのだ。
「田舎廻りは今回が初めての皮切りで」(5月29日 信濃毎日新聞)と、抱月もうれしそうに、新聞記者のインタビューに答えている。しかも、お呼びは、長野だけではなかった。
「長野を打ち上げて後、越中富山、福井、岐阜方面を廻り、都合次第、金沢へ出るかもしれません。岡山からも是非来てくれとという申し込みがありますし、どうしようかと考えています。」(5月19日 信濃毎日新聞)
初めての地方公演でありながら、長野だけで終わるのではなく、そのまま北陸へ展開可能になっていたのだ。長野は須磨子の故郷であるから、須磨子への関心が深いのも当然に思えるが、須磨子に直接関係ない地方からも声がかかる。それが「復活」だった。
「復活」は次々に地方公演を可能にする。この事実ほど、人気のすごさを、雄弁に語るものはない。
「復活」は、芸術座の運命も、須磨子の運命も大きく変えた。

大正三年五月
  第二章 ふるさとはありがたきかな

「須磨子来る」の大報道

「 松井須磨子来る  
本県松代出身にして、例の問題となれる島村抱月主宰の芸術座女優松井須磨子は、今回長野市三幸座の招聘により、来る二十九日より向こう四日間、花々しく開場する事に決定し、ウンと新しき処の妙技を演ずる由なるが、芸題はトルストイ翁の「復活」、喜劇「嘲笑」。二の替りはイプセン劇「ノラ」と「マグダ」等にて、いずれも須磨子の独特天下一品の称あれば、定めて大入りを占むるならん」
(大正3年5月19日 信濃毎日新聞)
須磨子の、初めての故郷公演は、じつに驚くべき報道量だった。
まず、この記事を第一報に、五月二十九日開演の十日前から、須磨子関連の記事がほとんど連日のっている。
もともと、三幸座などの出し物は、変わるたびに、「演芸だより」にのせるものだった。それが、当時の新聞の慣習ではあったけれど、一回のるか、二回のるか。これが通常の演芸記事の扱いなのに、「松井須磨子来る」の報道は十日前からほとんど連日、ない日もあるにはあるけれど、あるほうが普通という丁寧な報道ぶりなのだ。
まず信濃毎日新聞から、もう少し具体的にいえば、二十日に「松井須磨子来る」の詳報をあらためてのせ、二十一日から二十九日にかけて、五回、須磨子の『復活』の舞台写真をのせる。
写真はかなりに大きく、その度ごとに見ていけば、『復活』のヒロイン・カチューシャの悲劇がおおよそ見当が付いて、かわいそうなカチューシャに同情の思いもわいてくる。そんな丁寧な説明付き写真なのである。まずはブロマイド風の舞台写真で親しんでもらってということだったのだろう。
その他に、記事や談話もある。
まず初めが二十日の記事。芸術座を率いる島村抱月が公演に先立つ五月二十七日に、上田と長野の両方で文芸講演会を開くという予告記事である。講演会は今日ですというお知らせもあり、二十七日には、記者が直接権堂の宿・花房屋に出向いてインタヴューした抱月の談話記事ものせた。
もちろん、須磨子自身の談話記事もある。二十七日、化粧品会社がスポンサーになった広告記事の扱いで、須磨子の写真とともにかなりの大きさで、地元公演が須磨子の長年の夢であったことが熱く語られている。
記者による批評記事もある。
 二十七日の「須磨子の為に一言」という見出しの記事がそれで、かなり辛辣。女優須磨子にというより、人間として女としての須磨子に一言文句がある、いや、とても一言ではすまないといった批評ぶりは、今ならば、記者はけっして書かない、批評家に書かせるだろうなと思う辛口の扱いである。が、辛口でも記事は記事。あれだけの大きさで紙面を使ってくれれば、宣伝効果としてやはり抜群だったのではないか。
須磨子の動静報道もある。
須磨子が座員とは別行動をとって、一足早い二十五日に松代の生家に帰ったこと、後援会が松代にできたこと、松代の人が団体鑑賞してくれることなどが、二度三度と記事になっている。
そしていよいよ二十九日、初めての故郷公演の幕があがると、早速見にいった三名による合評記事が大きくのった。六月一日に打ち上げると、その翌日、読者からの賛否それぞれの投書をのせ、六日、名物弁護士の談話記事をこれまた大きくのせて、「松井須磨子来る」の一連の信濃毎日新聞の報道が終結する。
じつに、信濃毎日新聞の報道は十九日間。

長野新聞も「須磨子来る」

長野新聞も、一日遅れの五月二十日、「松井須磨子来る」の第一報からやはり大きく扱い、三十一日までの十二日間。関連記事は二十六ほどもある。事実関係の報道は信濃毎日新聞とほぼ重なるので詳述しないが、長野新聞は「真の新しき芸術劇女優の第一人として、嘖々の名のある芸術座松井須磨子」(28日)と第一報から高く評価しているせいか、須磨子関連のゴシップ的記事はまったくのせていない。
特徴的なのは劇のストーリー紹介の熱心さで、かなりの紙面を割き、「復活」のあらすじは一幕ごとに二十一日から二十六日まで、六日連続でのせた。
二十九日には「復活」の試演会の模様が詳述され、観客が新聞記者、早稲田校友会の人々、その他特別の関係ある者、三四十人であったことがわかる。
また、おもしろいのは、化粧品広告がらみの須磨子の大きな談話記事が、まったく同じ見出し、まったく同じ写真、まったく同じ文面で、二十七日に信濃毎日新聞にのり、翌二十八日、長野新聞にのっていたことである。
コマーシャルがらみの記事だから、同じ形でどちらにもということ、不思議ではないのだが、大正三年の昔々の新聞である。かたや信濃毎日新聞、かたや長野新聞に、全く同じレイアウト、同じ須磨子の談話に、同じ写真を見つけたときには、おや、ここにもと、不思議な愉快さがこみあげてきた。
また長野新聞には、芸術座 松井須磨子 一行公演 三幸座入場券 大割引取り次ぎ この機を失せず即刻御求めあれ 長野市諏訪町 かめや商店という小さな広告が何度かのった。わずか二行二段の広告ではあるが、芸術座の須磨子の入場券は身近な商店でも売られていたのだ。

故郷公演は須磨子の念願

須磨子フィーバー。そう言ってもいいほど、故郷の新聞が熱く報道してくれているとき、須磨子もまた、故郷公演に並々ならぬ意欲をもって向かっていた。
「多年の宿志として、芸術に身を委ねまして以来、幸いにも大方の御賞賛を博し、興行ごとに喝采の栄を荷ないますのは、世の中の旧い劇趣味から新しい気分に移り行く時代の風潮に投ずるからの事でございましょうが、又私共一行の芸術座が、芸術に忠実専心の大車輪をもって興行するによる事と信じます」「たとい、まだまだ前途は遠く、責任は重く、とうてい錦を飾るというまでには参りませんが、故郷忘じ難いと申す人情は、当長野県下で、是非一度、未熟ながらも演じてみたいと希望していました願いも空しからず、当三幸座に出演いたすことになりましたのは、誠に嬉しく光栄と感ずる次第でございます。」(5月27日 信濃毎日新聞)
須磨子自身が熱く語っている。
須磨子の言う、芸術に身をゆだねて以来の日々というのを、仮に、文芸協会の演劇研究所の試験を受けて以来の日々と解すれば、それは、明治四十二年の五月である。
それから大正三年までの六年の歳月は、思えば、猛練習につぐ猛練習の日々だった。須磨子の体当たりの猛練習ぶりはだれもが異口同音に言う。そして、それに続く緊張した公演の日々。練習に熱中するあまり、夫はあきれて去っていき、沢田正二郎のような有力な俳優とも次々に衝突し、次々に去って行かれた日々である。また、彼女自身が、逍遙によってクビを言い渡された日もあり、抱月とともに新しい芸術座を結成した日々でもあった。
そうした芸術に身をゆだねて以来の曲折の日々、未熟ではあっても故郷で演じてみたいと、ずっと願い続けたと須磨子は言うのである。
抱月も、芸術座を率いる抱月も、それはよくわかっていた。だから、長野公演は是非とも成功させねばならなかった。
「長野は松井の郷里にも近いし、最も大切な場所でもあるから、何とかして成功させたいと思います。」(5月29日 信濃毎日新聞)と抱月も記者のインタビューに答えている。
 この二人の熱い思いを、地元の受け皿となって強く支えたものに、「市下在住早稲田大学関係者の肝煎り」(5月20日 信濃毎日新聞)があった。抱月は辞職したとはいえ、早稲田の教授であったわけだから、早稲田大学につながる在校生や卒業生が、島村先生が来るならばと一肌脱いで後押ししようと、かなり活発に動いてくれたようなのだ。そうでなければ、「肝煎り」という言葉は使えない。

三幸座は模様替えして歓迎

三幸座も熱かった。須磨子一行を迎えるために、数日間も興行を休んで、内装を変更。照明も明るくし、内部の様子をまったく一新してしまった。
「長野市城山三幸座は数日来、職工を督して、専ら舞台の手入れをなし、大道具等一切出来し、さらに一昨日来、場内の装飾にとりかかり、昨日中全部これを終わりたるが、場内は全然見扮うばかりに飾られて、尚正面には大額を掲げ、アーク灯二台を備え付ける等、準備遺憾なく整いたり」(5月27日 長野新聞)
内部の装飾を請け負ったのは丸為呉服店だった。
「三幸座は数日前より舞台の修繕をなせるが、内部の装飾は全部丸為呉服店にて引き受けたり」(5月27日 信濃毎日新聞)
それまでの三幸座は、須磨子の言う「旧い演劇趣味」の劇団ばかりを呼んでいた。須磨子たちのすぐ前は、歌舞伎定番の曽我兄弟の仇討ち物だったし、後は、苅萱道心と石童丸の物語、そのまた後はこれまた歌舞伎十八番の仮名手本忠臣蔵。
そういう座が須磨子を呼び、翻訳物のカチューシャやノラやマグダをやろうというのだから、三幸座も思い切った冒険に出たわけだった。それだけ「復活」のカチューシャ人気が全国版だったということでもあるが。
が、はじめての冒険には、それだけ熱い覚悟が必要で、三幸座も内装の模様替えに思い切ってお金をかけ、新しい劇団を迎えようとしたのだろう。
三幸座は城山公園の一角にあったと言われる。
正確には、善光寺裏手に向かい合った形で、中島写真館の南の角地にあったという。今は個人の邸宅となっている場所で、中島写真館の南側あたりまでを含んで敷地があったのではないかともいう。これは善光寺鏡善坊御住職・若麻績修英さんからご教示をいただいた。なかなか立派な常設の芝居小屋だったそうで、なかは桟敷になっていて、百六十坪くらいはあっただろう、善光寺周辺整備の一環で取り壊され、権堂に移転し、相生座となったというお話だった。
また、すぐ近くのお宅に嫁いでこられた松本つや子さんからも、三幸座の位置を書いた絵地図入りのお手紙をいただいた。お舅さんから聞かれた話として、「昔はとにかく善光寺周辺はにぎやかで、料理屋、茶店、お土産屋、写真館等たくさんあって、善光寺にきて一日遊んで帰ることが何よりの楽しみだったのですね」とのこと。
三幸座の芝居見物も、善光寺参詣の楽しみの一つだったのだ。

高かった入場料

それにしても、入場料は高かった。
「入場料は一等一円、二等七十五銭、三等三十五銭、四等十五銭等である。」(大正3年5月20日 信濃毎日新聞)とある。
この一円という値段、新聞の購読料と比較すると、結構の高さなのである。大正三年の信濃毎日新聞は一ヶ月二十五銭。一等で見るなら新聞四ヶ月分の購読料を一挙に払う計算になる。二等なら三ヶ月分、三等で一ヶ月半弱、一番後ろの四等でも半月分を越える。
抱月も心配だったのだろうか。「神戸はさすがに外人の多い土地柄だけ金持ちも沢山あると見えていつの公演も必ず成功します」(5月29日 抱月談話 信濃毎日新聞)と言ったりしている。
それでも、長野で成功させたい、たくさんのお客さんに足を運んでもらいたい。あるいは、この熱意が、十九日にわたる新聞報道の影の力になっていたのかもしれない。

公演前の講演会

早稲田大学関係者の肝煎りもこうした心配があってはなおさらに大切であっただろうし、抱月自身も、公演日まで黙って座って待っているのではなく、積極的に打って出る方法を考えた。
講演会がそれである。
今では、劇の公演前に、演出家が講演会をやるなど、ハードすぎて考えられないが、芸術座は上田で一度、長野で一度。長野では関係者を呼んでの試演会もやっている。
「早稲田大学教授島村抱月、相馬御風両氏は、二十七日午前四時上田駅着列車にて上田町に来たり、午後二時より同町木町中村座において催す文芸講演会に出席するはずなり。同町在住新聞記者発起となり、有志者の賛同を得、同日正午観水亭において懇親の小宴を張る由」(5月27日 信濃毎日新聞)とある。
前夜の夜行で上野を出発、まだ夜の明け切らぬ午前四時に上田について、昼食は新聞記者や有志らとの懇親会を開き、午後二時からは講演会。
「二十七日午後上田町の講演会を終わりたる島村抱月、中村春雨、相馬御風の三氏と共に、午後五時長野市に乗り込み、直に荒町西洋軒の顔つなぎ会に出席したり。終わって島村氏の一行は三幸座の講演会に臨みたり」(5月28日 信濃毎日新聞)
上田の講演会を終えるとすぐに長野に汽車移動して、午後五時には長野市荒町の西洋軒の顔つなぎ会に出席、六時には三幸座で、再度の講演会に臨むのだから、ハードきわまるスケジュールである。
講師は抱月、春雨、御風の三名。演出と脚本を担う芸術座の幹部で、中村春雨は中村吉蔵の名のほうが現在の通りがいい。長野公演の喜劇「嘲笑」は中村が書き下ろしたもの。芸術座の創作劇の多くを書き下ろし、「復活」につぐ人気をほこる「剃刀」も吉蔵の創作。
ちなみに、試演会は二十八日夜。「須磨子一行は明二十八日来長し、同夜、市下各新聞社の新聞記者及関係者を招待し試演会を催し」(27日 信濃毎日新聞)とある。

これからは女優の時代

では、講演会で抱月たちは何を語ったのか。
残念ながら、その記事はない。ただ、その他の記事からの類推で、日本語でやりますよという一点と、これからは女優の時代ですよという一点は、間違いなく力説されたと思う。
まずは二十九日の信濃毎日新聞にある抱月の談話。
「私どもの芝居を英語か何かで演るように思ってる人もあるらしいが、今度一回無事に演了したらば、もちろんその誤解を解き得ることだろうと思います。かって大阪で公演した際にも、そんな風説があったのを聞きました。」
芸術座の出し物は、トルストイ、あるいはイプセン、あるいはズーデルマンといった外国物が多い。もちろん、抱月たちの翻訳でやるのだけれど、これは英語かなにか外国語でやるにちがいないと思いこむお客がいても不思議ではない。
今回芸術座を呼ぶ三幸座も、曽我兄弟の仇討ち物や、苅萱道心と石童丸の物語、仮名手本忠臣蔵が、普段の演目なのだ。お客も歌舞伎や新派のほうが馴染みなのだ。
こうした演劇事情は周知の抱月である。日本語ですから、安心して来てくださいと、ユーモアまじりに大阪の噂を持ち出したことだろう。

もう一点、女優の話があったと思うのは、
「ああいう役(『嘲笑』の須磨子が演じた役・引用者)は喜多村にでもさせたらと思うと、抱月君の今に新派劇が亡くなるという講演を思い出して、急に河合や喜多村のために泣かざるをえなかった。」(5月31日 信濃毎日新聞)という合評記事があるからのこと。
同じ合評記事に、カチューシャは、「役が役だから誰がやっても受ける役に違いはないので、河合武雄に演じさせても、観客はなるほど旨いというだろう」という反応も見える。
作家の徳田秋声も、初演の「復活」を見て、同じ感想をいだいた。「カチューシャは河合などのふるいつきそうな役柄で」と。かといって、須磨子を下手だと言っているわけではなく、「四幕目の病院の場は、一番しんみりとした場面で、誰でもホロリとするような、しおらしいカチューシャをみせている。……そして『カチューシャ可愛や』の唄の哀調がいかにもしみじみとした幕切れを見せていた。」(3月29日 読売新聞 川村花菱『随筆 松井須磨子』より)とほめているのだが。
ちなみに、喜多村緑郎も河合武雄もどちらも男性俳優。女形の名演技で知られる二人を、女優の須磨子の演ずるカチューシャを見ながら思い出し、同じ土俵で批評するのが大正三年の感覚だったのだ。
須磨子が女優として立っていたのはこういう時代だった。
長年の女形の伝統を壊し、新しい女優の伝統を築く、その最先端を、須磨子も芸術座も歩いていたのだ。
となれば抱月、公演に先立つ講演会で、女形に未来はない、女優こそが未来を作る、芸術座は未来を作る劇団だ、と高らかに宣言したに違いないではないか。抱月の勇ましさが、この合評記事の嘆きから、逆に聞こえてくる。

地方でも東京と同じ舞台を

芸術座は地方巡業に、「背景その他は帝劇公演当時の物を総て使用する」(5月20日 長野新聞)という売りで臨んでいた。
輸送手段の不便な大正三年である。背景や大道具のような大きな物を、どうやって運んだのだろう。こうは言っても、大きな物は現地調達だったのではないか。その何よりの証拠にこんな記事もあると思っていた。「三幸座は数日来、職工を督して、専ら舞台の手入れをなし、大道具等一切出来し」(5月27日 長野新聞)
が、じつは、背景となる書き割り、普通なら木の板などの上に描くものを、はじめから移動可能なように、布の上に描いておいて、その布を、枠に貼り付けたり、打ち付けたりする、舞台作りをしていたのだった。これならば取り外しはいたって簡単。舞台が終われば次の公演まで木枠から外してしまっておき、地方公演には、前もって貼り付ける木枠の寸法を連絡して準備してもらい、乗り込むと同時に、持っていった布を貼り付けて、舞台装置を完成させる方式だった。
地方公演は人員はもちろん舞台装置も落ちる。それが普通の芝居一座の常識で、観客もそれを承知だった。そこへ、都会と同じ配役で、同じ舞台装置で見せるという地方公演をやってのけた芸術座の心意気。
「復活」を裏から支えるポイントだったのではないだろうか。

松代は象山と須磨子を出した

「須磨子はこれより先、二十五日、屋代町に下車し、ただちに郷里埴科郡清野村字越の自宅に母を見舞い、同夜、松代町須磨子会幹部の人々と晩餐をともになし、二十六日は親戚旧知等を訪問せるが、進退動作すこぶる閑雅にして、その瀟洒たる風貌、郷党の意に叶い、評判はなはだ可なりという」(5月28日 信濃毎日新聞)
新聞記事はありがたいもので、須磨子の動静がリアルタイムでわかる。須磨子は芸術座の一行とは別行動をとり、一足早く二十五日に長野入りして、松代の実家に母を訪ねていた。
このころは屋代下車で松代にはいるのが一番の近道だったのか。そんなこともわかるし、須磨子を待っていてくれたものが、母や親戚旧知だけでなくて、松代町須磨子会、つまり須磨子の後援会がすでに立ち上げられていて、後援会幹部も待っていてくれた。そんな嬉しい帰省の様子がわかる。
そして松代の人々の目に映る須磨子がじつに良いものだったことも。
物腰のゆったりと優雅なこと、瀟洒と言ってもらえるほど、すっきりあかぬけた姿に、郷里の人々は満足し、評判すこぶる良しという、最上級のお褒めの言葉をもらえたのが、大正三年五月の帰省だった。
三十日にものった。
「松代町にては、二十八日午後公会堂において、松井須磨子歓迎会を催したるに、賛成者百余名に達したり。尚、須磨子会幹部にては、須磨子の定紋を染めぬきたる縮緬の旗二流を贈れり。三十日は十数台の馬車を買い切って来長、三幸座の団体観覧をなす由なり」
須磨子は幹部の歓迎だけでなく、公会堂で歓迎会も開いてもらい、百名を超える人々が参加してくれた。旗二流もプレゼントされた。二流という数え方はあまり馴染みがないが、歌舞伎座に翻っているような縦に長い旗のことなのだろう。縮緬のというからには絹地なのであろう。須磨子の定紋を染め抜きにしたものをプレゼントされて、初めての故郷公演を開催できた須磨子はどんなに嬉しかったことだろう。
そしてなにより、十数台の馬車を借り切って、松代から長野へ団体鑑賞に来てくれるというのだ。あの高い入場料をものともせずに、須磨子のために来てくれる。
「須磨子は松代出身なるより同町にては百数十名の団体にて見物に来たり」(5月27日信濃毎日新聞)
故郷松代はこんなにも暖かかった。
「田舎廻りは今回が初めての皮切りで」という抱月の不安を吹き飛ばす暖かさで松代の人々は歓迎してくれていた。「長野は松井の郷里にも近いし、最も大切な場所でもあるから、何とかして成功させたいと思います」という抱月の力こぶも和らぐような、暖かい歓迎ぶりだった。
佐久間象山と並べる賛辞も、松代の町に飛び交っていた。三十一日の芸術座鑑賞合評記事の中に、こんな話がのっている。
「芸術座を一身で背負い立っている須磨子は偉いものである。評判も大したものだ、松代人は誇って曰く『松代は象山と須磨子を出した』と。」(5月31日 信濃毎日新聞)
こういう歓迎ぶりを読んでいると、須磨子勘当説はどれほどの真実だったのだろうか、と疑問に思えてくる。芝居者を河原乞食とさげすんだ江戸の名残が、松代藩の誇りを熱く持つ松代には残っていて、士族の家の娘が女優になるとはなんたることかと勘当された、というあの説である。
歌舞伎役者は、江戸時代も河原乞食とさげすまれたが、一方で、大変な人気者でもあった。江戸土産の人気グッズが役者の浮世絵だったというし、傑作もたくさんある。
女優に対する思いも、建前と本音の使い分けがあったのかもしれない。松代の歓迎も真実、勘当説もまた真実ということだってある。須磨子の『牡丹刷毛』の中にもこんな一節がある。
「実に実に思いもかけなかった女優というものを志願して、親類や知人の間の問題となっている」「親の意に従わないで不幸な娘となった私だけれど」という一節である。
けれどもまた、須磨子は明治四十二年五月に文芸協会に入り、女優修行を始めたわけだが、そして、明治四十三年三月、文芸協会の試演会で抜擢されてオフェリアを演じているが、同じその年の夏、松代に帰省している。明治四十三年八月二日の消印のある葉書が、実家に帰ったなによりの証で、「滞在中はいろいろお世話様に」と母あてに出されている。大正元年の母あての葉書もあり、「御地の新聞へは何か出ませんか、出たら知らせて下さい」と聞き合わせている。そして、大正三年のこの歓迎である。
いったい、いつ勘当になっていたのだろう。勘当になっている暇があまりないような感じがして、もしも、そうであったとしてもきわめて短期間だったのではないか。あるいは、問題視する親戚知人には勘当という言い方をして宥めたというぐらいのことだったのかもしれない。

家族、親族、わだかまりなく

須磨子の松代への愛着は深い。父も好き、母も好き、叔母や姉たちとも仲がよい。
生家の象徴である二つ窓の土蔵は、須磨子の目に焼き付いている。「ああもうあの土蔵が見える」「ああまだ見える」。帰るにしろ、去るにしろ、須磨子はいつも生家の土蔵を目印にしてきたという。
『牡丹刷毛』の「私の故郷」にそう書いているが、ここに描かれる帰省は冬枯れの季節。お土産はオフェリアやノラの絵葉書や写真だったというから、須磨子はすでに女優として名を上げている。ノラの初演は明治四十四年九月。十一月に帝国劇場で再演されている。この帰省が、同じ年の冬だとすれば、残っている葉書以外の年にも、須磨子はいそいそと母の家へ帰って来られたわけで、勘当説の実態はますます弱まる。
須磨子は、清野の家に帰る前に、仲原の叔母のところにも寄って、たまっていた話を矢継ぎ早に次から次へと話しては叔母に笑われている。「そんなに急いで話さないだって、有丈皆話したり聞いたりする間位はとまって行かれるはずだから」と。
叔母ともきわめて良い関係なのだ。
清野の母は、嫁いだ姉たちとも話させてやりたいから、手紙を書いて呼び寄せようという。「お前起きたら手紙を書くんですよ姉さんたちに。だが大きい姉さんはこの間来たばかりだから来られるかどうかわからないが、まあ上げてごらん、あとの二人は来られるだろう」
姉妹の関係もきわめて良好で、どこにも勘当の影はない。
そうして母は、亡くなった長女の残した孫娘を引き取って、その世話を焼きながら暮らしている。須磨子にはちょっと焼けるのだ。次々と畳みかける須磨子の、話したくてたまっていた話を聞いていながら、孫の世話を焼いたりしているのだから。
その母は三味線を弾き、良い声で歌える人だった。「汐汲みを弾くから踊ってごらん」と言われて「あらいやだきまりが悪いわ」「お母様の前で踊るのがきまりが悪いのかえ? そんな事でよく舞台へ出られたね」「だって舞台は死物狂いですもの」と言いながら、台所の板の間で踊った。母と須磨子の間がなかなか合わなくて、五度目にやっと気持ちよく踊れて、ふと気がつけば、母の声に老いの影が落ちていた。
そんなしみじみとした心の行き交いが、母と娘にはある。そして、父。父は亡くなってしまったけれど、すぐ上の墓地に眠っている。その墓の前にぬかずけば、人一倍かわいがってくれた父の声が聞こえてくるような気がしてくる。父は須磨子の心持ちをよく知っていてくれる人だった。
「もうここまででも漕ぎ出したのだから、どんな荒波に揉まれ揉まれてでも必ず目ざした処まで漕ぎ着く事を祈ってて下さるに違いない」
父は、こう確信できる父だった。
そして遠縁のお嫁さん。
須磨子はこの帰省の時、遠縁の花嫁さんの髪や化粧や着付けを直してやっている。今日は花嫁さんが親戚歩きをするという日で、須磨子の母は支度が気にかかるといって見に行って、盛装したお嫁さんとお姑さんを連れて戻ってきて、「お前なおしてお上げ」と言う。お姑さんも「何卒お願い申します」と頼むので、須磨子も、中腰になり、立て膝になりと、髪の具合からお化粧着付けまで、一生懸命尽したわけだが、この一コマもまた、親戚とのわだかまりのなさを物語っている。
どうも、須磨子は女優になったがために勘当されたという伝説は、あまり重く受け止めない方がよさそうだ。
大正三年、長野公演にあたって、松代に後援会ができ、後援会長に町長さんがなってくれたのを機に、須磨子の勘当が解けたという伝説も、どの程度のものだったのか。あまり深い根はなさそうな伝説に思えてきた。

思いがけない非難

五月二十七日、「須磨子の為に一言」という見出しのもと、一記者の意見がかなりの長さでのっている。かなり辛辣な須磨子批判である。このごろの新聞にはこういう調子の記事はまず見られないと思うのだが、こういう調子も、大正三年の新聞には許されていたのだろう。社会常識として許されていなければ、載るはずはないのだから。
 「松井須磨子に就いてもなかなか非難が多い。抱月さんとどうとか、男優とどうとか、随分やかましいようだ。といったら、……それは誤解だ……と弁疏するかも知れないが、誤解ならば誤解で、その誤解をとくようにしたら善さそうなものを、濡れぬ先こそ露をも厭え、新聞にもさんざん書かれた揚げ句だ、どうせ自棄だよ言わぬばかりに殆ど捨て鉢的に、抱月さんの手塩にかけて無暗と大切にする図に乗って、女だてらのあられもない、六尺の大男を向こうへ回し、酢の蒟蒻のと醜態の限りをつくし、日本一の女優には誰が成ると言わんばかりの振る舞いは第一女子の道に反むいている仕打ちとはご存じないか。」
 記者に言わせれば、須磨子が芸術家としても、一女性としても完成された人間となることを願って、短所も指摘するというのである。
「芸術上にある程度の成功をしたからとて、それですべての欠点が帳消しになったものとは言えまい。しかしながら、長所は長所としてこれを称揚し、短所は短所として別にこれを指摘し、芸術家としてもはた一女子としても、願わくは余り非難せられぬように、むしろ完成の者に仕立てたいと思うは、あながち無理な付会(こじつけ)でもあるまい。」
もう一度、記者の須磨子批判にもどれば、島村抱月との恋愛の噂がやかましい、それだけでなく、ほかの男優との噂もやかましい、と恋愛問題をうんぬんする。が、なぜか、この記者の非難は、須磨子にのみ向いている。恋愛は一人でできるものではないのだから、抱月やその他の男優にも、同じような非難を浴びせてもいいはずなのに、なぜか、女の須磨子にばかり矛先が向く。
私は不倫はきらいだ。不幸な人を生むから好きにはなれないが、男には甘く、女には厳しくというのはフェアでない。
「女だてらにあられもない」という記者は、この発想からすれば、女は男に従い、男を立てる、が有るべき姿であって、対等に喧嘩するなどとは「女子の道」にそむくと頭から否定する。須磨子に非があるのか、それとも六尺の大男に非があるのか、喧嘩の中味を問うこともない。女が男を向こうに回して喧嘩したというだけで、非難に値することだったのだ。
日本一の女優に私がなると揚言することも、女の取るべき態度ではない、「女子の道に背く」と非難する。
このような記者の目から見れば、松代の人々の歓迎ぶりは、「狂態」である。「軽挙妄動」である。女子という動物はそもそも「虚栄の動物」である。これが記者の確信するところである。その女である須磨子を「凱旋将軍」のように歓待などしようものなら、須磨子はいい気となり、芸術座の「尼将軍」にしてしまう恐れがあるというのである。
「松代の人々は、須磨子会なるものを組織し、彼を待つにあたかも大勝を博して帰る凱旋将軍の如き待遇を以てし、狂喜抃躍、成さざる所あらざらんとするような狂態をしておるのは、却って軽挙妄動に過ぎる傾きがないでもない。さなきだに女子は虚栄の動物である。やたらに調子付けてしまうと、益々善い気になり、芸術座に尼将軍をこしらえる虞(おそれ)がある。イヤ、もう尼将軍に成り済ましている気かも知れない。ホントにそうなら、いよいよもって大変だ。」
もちろん、この記者は、一軍を率いる将軍は男でなければならないと確信している人物である。きっと社長も、座長も、学長も、リーダーは男でなければと確信する人物にちがいない。
もう一度執筆意図に帰れば
「信州人はこの際芸術家としての須磨子を迎ふると同時に、よろしく彼が個性の短所を矯正すべく、その方法に出づるが善かろう。芸が旨いからといって、無暗に持ち上げ偉い偉いで、天下何物も眼中に無き底の狂人を製造してしまうことは、人物払底の信州から、折角須磨子ほどの芸術家を出して置きながら、彼女をして遂に舞台上にも、また社会上にも自滅せしむる要素を築かせるものであろう。余はこれ信州の為にとらず、而して更に須磨子の為にとらないのである。」
須磨子ほどの芸術家と、女優須磨子を認めながら、一女子としての須磨子を認めない。須磨子の生き方は社会的に葬られねばならぬ、反社会的な、女子の道に反するものである、と、再び、記者の執筆意図を語って長文の批判を締めくくる。

読者もまた

六月二日、二つの投書がのった。芸術座の公演は二十九日から六月一日までで打ち上げ、二日は、その翌日の新聞になる。
「松井須磨子堕落女の好標本ではないか。僕は県下より彼のごときものを出したるを恥ずるものである。それになんだ、松代辺の鼻下長連は、この農繁期に須磨子会だ後援会なんて騒ぎ回るとは、いやはや。(須磨子唾棄生)」
「僕は県下より須磨子のごとき芸術家を出したことを誇りとする者だ。人はその裏面を以てただちに堕落者と罵倒するけれども、芸術とは別問題だ。(芸術崇拝生)」
読者の中にも、須磨子を女優の力量で評価するのでなく、プライベートな私生活で堕落者と問題にする向きがあったのだ。嫌う者はもっぱら私生活の問題で嫌い、芸術家須磨子を崇拝する者も、そうした非難が世間にあることは承知している。そんな空気が須磨子を取り巻いていた。

極めつけは丸山軍治節

そして、須磨子フィーバーとも言うべき十九日間にわたる新聞報道の締めくくりは、名物弁護士丸山軍治の軍治節。記者が出かけて行ってとったインタビュー記事なのだが、これがまた強烈な須磨子批判なのである
「ナゼあんな品性の下等な松井須磨子なんという代物を担いで騒ぎ回るんだか、チットモ訳がわかりゃしない。ソレに最も気違いじみているのは、社会の上流に立つ代議士とか、県会議員とか、市会議員とか、学士とか、医者とか、弁護士とか、金持ちとかいう、長野市にても人の師表に立たねばならぬ人々が、よってたかって須磨子歓迎会などを行ったのは、余りにも非常識の甚だしいもので、僕は実に呆れ返っておる。」
(6月6日 信濃毎日新聞)
ここでも暖かく須磨子を迎えた松代の人々が批判の矢面に立たされている。私たちにとって新しい情報は、須磨子の後援会のメンバーに、代議士、県会議員、市会議員、学士、医師、弁護士といった人々が名を連ねていたということである。
「須磨子何者ぞ。彼は最愛の亭主に、女房の身として、褌を洗わせ、早稲田の坪内博士に知られ、女優となるに及んで、偕老同穴の契りを結んだ亭主を振り棄ててしまったではないか。この縁切りの裡面には、島村などとの醜関係もあるらしいようにさえ伝えられておる。かかる女に何処に取り柄があるだろう。また須磨子も須磨子なら、亭主も亭主で、亭主の前川某は長野県師範学校を卒業した幾分の教育ある身でありながら、品性の甚だ善くない奴だという事を僕は知っている。鬼の女房に鬼神とやら、須磨子などと寄り合う奴に、ろくな人間がありやしないさ。」
男子厨房に入らずの発想は、丸山軍治節にあざやかで、洗濯を亭主にやらせるなどとはもってのほかとのご託宣。ただし、「褌」というからには、ご亭主が自分の物を洗うということなのだが、それにしても、批判するのに名前を間違えるとは。前川ではなく、前沢誠助が正しい。名前すら間違えながら、品性甚だ善くない奴と批判するのは迫力に欠けるが、この人の発想からすれば、児童演劇に興味をもって巌谷小波に師事したこと自体を品性が善くないと言いそうな気がする。批判の中味を言わないからわからないが、演劇とか、児童読み物の作家などは、頭から否定しそうな気がするのだ。
ちなみに、前沢誠助は意欲に燃えて上京し、東京高等師範を卒業後、東京で奉職。関東大震災の猛火の中、本所区(現墨田区)双葉小学校校長として、御真影を守って殉職。信濃教育会編「教育功労者列伝」の一人である。
「僕もアノ芝居を見た一人だが、須磨子の芸はそう大騒ぎするほど旨いものではない。アンナ芸ならば、世間に幾らもある。殊に芝居そのものが風俗を壊乱し、日本古来の人情習慣と相容れぬため、家へ帰っても親や子供の手前で話をするわけにいかぬ。芝居の筋が不穏当の所へ持って来て、須磨子が前にいうとおり下劣だから、ほとんど見るに堪えないものになってしまった。要するにアンナ芝居は社会風教に害あって益なきものだと思う。」
女優須磨子の批評はわずかにこれだけ。芝居のどういうところが風俗壊乱にあたるのか、内容説明がないので困るのだが、上演された「復活」は原作の小説とは少し展開が違うので、長野新聞が丁寧に紹介記事をのせた粗筋のあらすじを書いておく。

「復活」の第一幕はネフリュードフ公爵の寝室。彼は結婚を申し込もうと思っているミシーの写真を見ながら眠りに落ち、十年前の、叔母の屋敷で知ったカチューシャとの恋の思い出を夢に見る。カチューシャは小間使いで、身分が違うことも、親の許しがないことも承知していながら、若いネフリュードフの情熱にとらわれてしまった純真な少女だった。
第二幕は裁判所内の審議室。陪審員が傍聴した裁判の評決をするための審議室で、ネフリュードフ公爵は大変なショックを受けていた。それは商人毒殺容疑の被告が、昨夜夢に見たカチューシャだったからなのだ。しかも彼女の転落は、彼が叔母の屋敷で誘惑したその結果だったのである。罪は自分にある。そう承知しながら、告白できなかったために、陪審員十二名の評決は有罪に傾き、有罪判決が出てしまった。ネフリュードフ公爵は高名な弁護士にすべてを打ち明けて弁護を依頼し、カチューシャの魂を甦らせて結婚する決意をする。
第三幕は監獄の場面。ウオッカをラッパ飲みしながら、誘惑され捨てられ、屋敷にもいられなくなった転落の有様をしゃべる荒みきったカチューシャは、弁護士とともに面会に来た公爵が、初恋のネフリュードフであるとは気付けなかった。しかし、やがて昔の写真に記憶が甦り、憎しみと恥ずかしさで半狂乱になる。
第四幕は監獄病院の薬局の場。ネフリュードフの尽力で、未決の間、病院の看護婦となったカチューシャは、純真な心を取り戻し、しかし、彼の申し出た結婚にはためらいを感じていた。そんな折、カチューシャに強引に言い寄る医師助手の讒言の方を信じ、カチューシャの言い分に冷たいネフリュードフに、カチューシャは転落の過去の重さを知り、ネフリュードフの義務としての愛を見てしまった気がした。
第五幕はシベリヤの一寒村の駅。シベリアに送られる囚人たちを、国事犯のマリアやシモンソンが懸命に世話している。カチューシャもその親身な一人として立ち働き、シモンソンとの結婚を決意するようになっていた。ネフリュードフが、上告が聞き届けられ、二十年の徒刑が一年の流刑に軽減されたと知らせにくるが、カチューシャはシモンソンとシベリヤで生きる決心を告げ、ネフリュードフに別れを告げる。深く愛してはいても、生きる道の違いを知ったからであった。そして、復活祭の鐘が鳴り、「キリストは甦り給へり」という声と共に幕となる。

このどこを風俗壊乱と言うのだろうか。日本古来の人情習慣と相容れぬというのは、どこの部分なのか、説明がないのはじつに困るのだ。
しかも、これは須磨子の責任ではない。このようなストーリーの劇を上演すると決めたのは芸術座の演出陣である。島村抱月や中村吉蔵らに向かって非難すべきことなのに、須磨子に非難が向けられるのが当時の状況だった。
ところで、このインタビューを名物弁護士丸山軍治からとった記者、隅に置けないところがあって、じつに愉快な光景を書きとどめている。
「丸山君がビールを煽りながら須磨子を罵倒しつつある時、奥の座敷から令嬢の声で『カチューシャ可愛や、別れのつらさ、せめて淡雪とけぬまと、神に願いをかけましょか』と聞こえて来たんで思わずもニヤリと苦笑した。」
カチューシャがどんなに持て囃されたか、全国津々浦々で喧伝されたという、その一コマを、鮮やかに見せてもらった気がする。
この丸山家においてさえ、かくも愛されたのである。いわんや、である。そして、この令嬢のような素直に感応する心が、四百四十四回の『復活』巡業を支る力だったのだ。この一コマをとらえた記者の目はじつに鮮やかであった。

須磨子の反論

「私は女優としての誇りよりも屈辱の方を多く感じて居ます。迫害せられて居ます。全体『女』というものは何の場合にも人に媚を呈さなければならないものでしょうか。何時も黙って人の言うなりにばかりなって居なければならないものでしょうか? これが昔からこの日本の女の習慣となり美徳となって居ます。そのために私たち女の仕事なり芸術なりが侮辱されている事はどれ程だか知れません。」(『牡丹刷毛』)
はじめて、このような言葉を読んだとき、私はなんと大袈裟なと思った。被害妄想ではないかとまで思った。
けれども、信濃毎日新聞の記事を読むうちに、須磨子を取り巻いていた当時の男性陣の非難がなまじのものでないことを知った。
二十七日の「須磨子の為に一言」の記者(ほぼ確実に男性記者)の説も、名物弁護士丸山軍治の説も、批判というよりも誹謗という言葉の方が近い。少なくとも、今の我々の感覚では誹謗と呼ぶしかないだろう。
大正三年、須磨子が立っていたのはこういう誹謗の中だったのである。そうであれば、彼女の言葉になんの誇張があろう。被害妄想どころか、まさにそう感ぜざるを得なかっただろうと納得されてくるのだ。
『牡丹刷毛』の出版は、これらの非難と同じ大正三年だった。
たとえば、あの一記者の「女だてらのあられもない、六尺の大男を向こうへ回し、酢の蒟蒻のと醜態の限りをつくし」と言う、あの非難を思い出してほしい。その上で、須磨子の言葉を聞いてほしい。
「女も男と同じ人間で有ると口には立派に言う人でもいざという場合に、何か事件が起こって男と女の重大な争いになるともうだめです。女の方が正しとわかり切って居ても、女で有るから男には一歩を譲らなければならないという事になる。何の故を以て女は男に従わなければならないかと口惜し涙を流しながら、それでもやっぱり私自身もこの呪うべき美徳や習慣から全く逃れることが出来ず、胸をさすり涙を呑みながら泣き寝入りに目を眠って了わなければなりません」(『牡丹刷毛』)
「役の精神を舞台の上にあらわす技芸の点に於ては幾ら女だって私には私自ら信ずる処が有って進みます。少なくとも或種類の男の俳優よりは私が上だと信ずる場合が幾らも有ります。その時自分の信ずる所に向って進もうとすると『女のくせに生意気で有る』とか、『女が言う意見に従うのは不見識だ』とか言ってそれに反対する。」(同書)
私は須磨子の行動をすべて肯定しようという人間ではないけれど、人の行動も発言も、常に、時代の中のものであると思っている。だから、今の尺度で、大正三年を判断しては誤ることがあると思っている。時代を越えて変わらぬものもあるけれど、変わるものもまた多いのだ。
これは仮定だが、もしも、須磨子が今を生きる女優であったなら、こんなに肩肘張って、つけつけと物を言わないかも知れない。男女共同参画が時代の目標になってきている今、つけつけ言わねばならぬほど、彼女を苛立たせること自体が減ってきているだろうと思う。男と同じに生きるために大変な無理を強いられる時代から、男も女も人間としての視点が見えてきた時代では、女にかかるストレスそのものがずいぶんと違ってきている。
もしも、須磨子が今の女優であったなら、彼女はもっと穏やかな物言いで生きていかれたのではないか。そんな思いを抱きつつ、大正三年、『牡丹刷毛』の出版されたころの須磨子は強いストレスの中でこう言う。
「世の中はほんとに妙な者よ、私の様な我まま者に聖人になれと言うのですもの、私は聖人なんて柄じゃないんですよ。」
もちろん、これらすべてが、今の物差しでも、すべて肯定されるものではないけれども、大正三年の須磨子は、男ならば容認され、女であれば叩かれる、その不平等加減ががまんできないのだ。男に許されるなら、女であるからといって須磨子に許さない道理がないではないか。男と同じにしてほしい。そう須磨子は強く主張する。
「S先生がよく私の事を文壇で言ったら正宗白鳥さんと小川未明さんをつきまぜた様な性分だと言われますが」「それでも正宗さん小川さんは別に聖人でないと言って人格がどうのこうのとも言われないで却ってそういう所に文学者としてえらい所がある様にも思われてるじゃ有りませんか。私はただ女というためにそれが悪い事かなんぞの様に言いたてられて、随分つまりませんわ。つまり女というものは男よりずっとずっと聖人にならなければ悪いわけなのですものね、同じ人間で有りながら、男には許されて女には許されないというのはおかしいじゃ有りませんか」
「仮りに私が男だとしたらまさかあんな失敬な物の言いぶりはすまいと思う様な態度で私たちの事を彼是言う人があります。そういう人はやっぱり知らず知らず『女の癖に』という女子蔑視の思想からぬけ切って居ないのですよ、それで自分ばかりえらそうな事を言って、女には自分等男よりも遙かに多い負担をしょわせるのが当然のように考えて居るのです」
「私はすべて私のする事を男として考えて貰いたいと思います。男と同じ自由を与え同じ尊敬を払って見て貰いたいと思います」

一記者の意見や丸山軍治のインタビューを改めて読み直していただきたい。
さなきだに女は虚栄の動物である」「第一女の道に背いている」「最愛の亭主に女房の身として褌を洗わせる」「芸術家としてもはた一女子として完成の者に仕立てたい」「よろしく彼が個性の短所を矯正し」といった彼らの非難に、一つ一つ、須磨子は反論していたのだ。男に許されることを、私にも許すべきであると。
離婚をしても、恋愛をしても、座員と喧嘩をしても、座の中核となっても、女である須磨子ばかりが非難される。相手の男性はほぼ不問の状況だった。丸山軍治は前沢や島村も非難しているが、一記者のように不問にする方が多い。こうした、須磨子が当時立たされていた非難の渦を抜きにして、須磨子の言葉を読んでは誤解してしまうだろうと思うのだ。
私自身が初めて『牡丹刷毛』を読んだとき、大袈裟と思い、被害妄想と思い、その反動として須磨子をわがままな人間と思ったように、誤解してしまうだろうと思う。
そして、もう一つ、須磨子は芸術座の尼将軍という、例の一記者の批判のように、女が先に立つことを許さない気風があった。須磨子も、与謝野晶子のように一人の芸術ならば女であっても立派にやっていけるが、劇のような集団の芸術は絶望が深い、とも言っている。
そして、世間は、芸術座に対して文句を言うべき筋合いまで、須磨子にぶつけてきていたのだ。名物弁護士の、劇の筋が風俗壊乱であるという非難もしかりだった。
しかし、抱月はその間の事情を理解している。
「君はいつも芸術座が受ける世間の敵からの射撃標とせられる、それを引き受けて忍んでいる君の態度はヒロイックである」(『牡丹刷毛』の序文)
須磨子に対して、これほどの理解ある言葉を、抱月の他に、だれか、言ってくれる男性、いたのだろうか。抱月は須磨子の置かれた立場を理解し、言ってくれる男性だったのだ。

 かくて、大正三年の、初めての故郷公演、初めての地方公演は終わり、芸術座は富山、福井、岐阜へ、巡業に旅立っていった。
 そして再び東京の上野大正博覧会演芸場で、八月十八日から二十二日まで、破格の安価興行を行い、「復活」の須磨子人気は定着した。連日の大入り満員で、午後七時開演のところを五時には観客が詰めかけ、入れなかった者が騒ぎになってという人気ぶりだったという。

  大正四年一月
  第三章 須磨子人気の定着 

一月の上諏訪都座から再び

 芸術座は、翌大正四年の一月、再び信州に戻ってきた。
 今回は、前回のように長野の三幸座一カ所だけの公演ではなく、上諏訪、松本、須坂と、信州各地の巡演が設定されていた。
 同じ県内のいくつもの町で巡演できるということは、それだけ、観客が動員できる劇団に成長していたわけで、それだけ広く、須磨子も芸術座も知られ、見たいと思う客を増やしていた何よりの証拠であろう。
 演目は、前年と同じカチューシャの『復活』に、中村吉蔵の新作『剃刀』。
 『剃刀』のお鹿も、須磨子のカチューシャに継ぐ当たり役となったもので、お鹿の夫為吉は村の散髪屋。家業を引き継いですでに十数年、毎日、客の髪を切り、髭をそる単調な生活に苦しんでいる。為吉は小学校時代いつも一番だったが、上の学校に行く金がなく、天職だと校長に説得されて床屋を継いだ。しかし、世の中、学歴があれば、つまり金があれば、役場の書記にも、校長にも、代議士や参事官にもなれて、社会的にもちやほやされる。現に、為吉の親友でいつも彼より成績の悪かった岡田が、代議士となり参事官となって故郷に錦を飾った。恋女房のお鹿は、かって酌婦だった客あしらいのうまさで、社会的地位のある客に愛想をふりまく。為吉はいらだち、長年の不満が爆発。岡田の首を剃刀で刺してしまうという社会派心理劇。
 この二つを持っての公演の日程は、
 「芸術座の松井須磨子一行男女優三十余名は四日上諏訪町都座に乗り込み、五日より六日まで例の『復活』を演ずるはずなるが、なかなかの好人気なり」「上諏訪打ち上げ後七、八の両日松本市松本座に乗り込みて開演」(1月5日 信濃毎日新聞)
 「松本打ち上げ後、直ちに上高井郡須坂町に乗り込み、十日十一日の両日午後四時より須坂座に開演することとなり、芸題は『復活』と『剃刀』なるが、同地は初めてのことなれば、定めて大入りを占むるなるべし」(1月8日 信濃毎日新聞)
 というわけで、
 五日六日が上諏訪の都座、
 七日八日は松本の松本座、
 そして、十日十一日に、須坂の須坂座。(建物は現存)
 今回の巡演も、信濃毎日新聞の報道はかなりの量にのぼる。十九日間も報道した初めての故郷公演ほどではないが、今回も、第一回目が一月の四日、須磨子の化粧品広告に絡んだ大きな談話記事で始まり、四日に一つ、五日に三つ、六日に三つ、七日、八日、九日と連日掲載され、十一日に二つ、十二日、十三日と十日間に渡って公演や講演会の知らせがあって、なかでも力作なのが演劇鑑賞記事。長文の批評が五回連載され、最終回は十三日。
 長野新聞も一月五日から十一日まで、上諏訪から須坂までまんべんなく芸術座と須磨子の動静を追って記事をのせている。

堀内将軍と須磨子の格差

 須磨子は今回も、松代の母を訪れている。
 「須磨子は一行に先立ち、二日東京発、郷里松代に帰省」(1月5日 信濃毎日新聞)「故郷で新年の屠蘇を汲むのは彼女にとって十幾年ぶりかであった。それだけに昔懐かしく、思い出の数々を語って、その夜は母とともに一夜を語り明かして」(同日 同紙)
 上諏訪と松代ではかなりの寄り道ではあるが、須磨子は久しぶりで実家の正月を母と一緒に楽しんだ。そして翌日、前年の長野公演のおりに、後援会を作ってくれた矢沢町長宅まで挨拶に出向いた。あいにく町長は、松代の英雄・堀内文治郎将軍の帰郷歓迎のために留守であったが、たまたま将軍と共に帰宅。玄関先でのすれ違いの模様を、新聞はいささか劇的に、両者の立場を暗示しつつ報じている。
 「翌三日、彼女は去年の春、須磨子後援会をつくられた矢沢町長を訪うた」「令夫人と挨拶して居る時、門前へ二台の人力車がまた止まった。そして靴音高く入ってきたのは誰あろう、軍服いかめしい短躯矮小の堀内将軍と、図抜けて背の高い燕尾服姿の矢沢頼道氏で」「矢沢氏は一目見て須磨子であると知ったが、この場合親しく挨拶することもならず、無言のまま僅かに頭を下げたのみだった」(1月5日 信濃毎日新聞)
堀内将軍は、高田連隊長時代に、オーストリアのテオドル・レルヒ少佐から技術を学び、日本初のスキー導入者でも知られ、第一次大戦では「青島攻囲軍司令官として名声赫々たる」人物で、「幕末の俊傑佐久間象山先生を産出したることを、何よりの誇りとしている松代人は、最近また一つの新しい誇りを加えた」と、松代挙げて、公式行事で歓迎する英雄だった。
須磨子も、一年前の長野公演のおり、「松代は象山と須磨子を出した」と言われもし、歓迎会も開いてもらったが、将軍と女優の社会的地位の差は歴然としてあった。町長は後援会長になってくれる理解ある人だったが、それでも、将軍の前では挨拶をはばかる。須磨子もまた「妾なんだか将軍に、女優になんかなっていると叱られそうで、恐ろしゅう御座いましたワ」と記者に語ったとある。
 しかし、夜のプライベートな時間になると、後援会幹部の人々は須磨子と懇親の夕食会を持つのをはばからない。「その夜、須磨子後援会幹部連と梅田屋において晩餐を共にして」とある。
 須磨子は翌朝の「四日午前十時、篠ノ井発にて、上諏訪に乗り込み」(同日 同紙)芸術座一行と合流した。

講演会は地元の要請に応えて

 文芸講演会も、前年と同じように、公演に先立って、それぞれの土地で開かれている。
「上諏訪町高等女学校において、五日午後一時より島村抱月、中村春雨両氏の文芸講演会を開催し、一般の傍聴は随意なりと。なお一行は四日午後六時上諏訪着、牡丹屋に滞在のはず」(1月5日 信濃毎日新聞)「島村抱月、中村春雨の両氏七日松本市に来たるをもって、有志者は両氏を聘し、同日午後一時より、松本幼稚園楼上において文芸講演会を開くよし、傍聴は随意」(1月6日 信濃毎日新聞)「十日須坂町須坂座に乗り込み、午後抱月氏の講演ありて」(1月11日 信濃毎日新聞)
 講演会の主催者は「諏訪教育会の主催に係る高等女学校講演会」(1月5日 長野新聞)「松本にては多分南信連合青年会主催となり」(1月5日 長野新聞)とある。
 この主催者の顔ぶれからすると、講演の形、初めての故郷公演の時とは変わってきている。七ヶ月前の前回は、芸術座の側から劇公演の成功のために、前宣伝として、女優や新しい演劇について語るといったものだったが、今回は、土地の人々から要望されてだった。新知識をもった抱月たちがせっかく来るのだから、話をしてもらおうではないかという動きがあってのことだったのだろう。そうでなければ、主催者が、演劇開催に直接関係のない団体になるわけがない。
 須坂の主催者は不明だが、「抱月氏は『新文芸と演劇』と題して二時間にわたり講演し」(1月11日 長野新聞)」と報じている。芸術座の宣伝に限定せず、広く、新しい文学の潮流を語り、新しい演劇の方向性を語る。演題からはそのような講演が想像されてくる。

須磨子人気の定着

 それにしても初めての故郷公演から七ヶ月、芸術座はすっかり周知の劇団となり、須磨子は舞台に登場するだけで拍手喝采を浴びる女優になっていた。
 こんな言い方をするのは、「芸術座の女優としてカチューシャ可愛いやの唄とともに、津々浦々の果てまでもその嬌名を謳歌せられている松井須磨子」(1月5日 信濃毎日新聞)といった紹介記事があるからでもあるが、それよりも、梓水のペンネームで書かれた五回の力作連載記事があり、そこにこんな表現があるからなのだ。
 「なにがさて、観客は須磨子の名とカチューシャの歌とを見ない先から随喜の涙をこぼしているので、舞台を見ているよりも観客の顔を見ていた方が面白いくらいである。恐らく数千の観衆は、頭の禿げた老人と白髪のお婆さんでない限り、ダークチェンジの中に沈んでいく甘き蜜のような公爵とカチューシャとの恋に胸を躍らせ、神仙女のごときカチューシャ可愛やのメロディに、全身の血を湧かせた事であろう」(1月13日 信濃毎日新聞)
 梓水は信濃毎日新聞の記者と思われる人物で、じつに真面目な態度で、『復活』と『剃刀』の劇評を書いている。
 じつに真面目というのは、記事そのものに、須磨子をゴッシップ的関心で批評しようという気がいっさいないからである。一人の女優として、その演技をしっかりと見て、しっかりと批評しようという態度に真面目さを感じるのである。
 しかもこの梓水、一回見ただけで書いているのではなく、諏訪の公演も松本の公演も見ている。前年の長野の公演も見ているし、東京の設備が整った劇場での公演も見ている。
 梓水記者には、演劇は三一致の法則にのっとるべきではないかというこだわりがある。時の一致、場所の一致、筋の一致という西洋古典劇の約束にこだわりがある。
 ところが「復活」は、時間は一挙に十年飛ぶし、場所も飛ぶ。カチューシャとネフリュードフ公爵が恋に落ちた別荘の場、それからモスクワの裁判所で再会する十年後、そして、流刑地シベリヤと、場所も時間も大きく飛躍する。記者は場所の転換には付いていけても、十年の時間の飛躍を納得できる舞台にはなっていなかったというのである。
 もちろん、そういう人だから、須磨子一人に注目するのではなく、舞台装置、照明、ネフリュードフ公爵役や、『剃刀』の為吉役の演技、さらに脇役の演技へも目配りがきき、脚本のストーリー展開の問題点にも及ぶという総合的な劇評になっている。そうした点がじつに真面目と思う理由なのだ。
 これだけ批評するには紙数もいるわけで、連載は五回、毎回五十九行、五十八行、八十三行、七十八行、八十三行という長文の批評で、一行が十六字だから、全部でおおよそ五千七百字。
 これだけの紙数を使い、七ヶ月前の三幸座の公演のころとは格段に進歩している芸術座の努力を評価した上で、さらに残る問題点、あるいは新たに生じた問題点、演技が型にはまる恐れなどを論じようとするのであるから、批評される芸術座側の抱月や須磨子たち、知己の言と聞いたに違いない。
 その梓水が、舞台から目を転じて、背後の観客を見て、観客の目に宿る須磨子待望の熱い熱気を、これこそ見物しがいのある光景とおもしろがる。それが「なにがさて、観客は須磨子の名とカチューシャの歌とを見ない先から随喜の涙をこぼしている」といった感想になっているのだから、かなりの確度でこれは信じていい。
 須磨子は、登場する前から観客が随喜の涙を流して待っていてくれる女優になっていた。カチューシャの唄に酔いたくて観客は来てくれているのだ。こんな熱い思いで劇場に足を運んでくれる客を、満員札止めにするほどたくさん増やして来たのだ、この七ヶ月。
 七ヶ月というのは、三幸座の初めての故郷公演(大正三年の五月末)から七ヶ月である。須磨子も、ネフリュードフ公爵の武田正憲も、為吉の田辺若男も、脚本演出陣の抱月や中村吉蔵も、芸術座が積み重ねてきた努力が、これだけの人気を生み出していたということなのだろう。
 「やがて中国九州からことによったら台湾までも押し渡ろうとは島村氏の談話の一片、近代生活の啓発に対する氏の理想実現の成否は別として、単に劇団における永き歴史を回想して、ともかくも吾等は芸術座の事業を特筆しないわけにゆかないのである。」(1月13日 信濃毎日新聞)
 抱月のこの抱負は実現し、芸術座はこの年の五月から、大阪、京都、名古屋、北陸、信州、東北、北海道の国内各地を巡演。さらに台湾、朝鮮、満州にわたり、ハルピン、ウラジオストックまでの巡業の旅を、その年の暮れまで続けることになった。
 「松本座の楽屋で、連日連夜の苦心の監督に労れた島村氏から近代劇協会との交渉顛末を聞いていると、ちょうど四幕目を終えたカチューシャの須磨子が妹を連れて駆け込むように入ってきて、直ぐ又次の扮装にとりかかる。鏡の前に惜しげもなく美しい真っ白な肌をうつして脱ぎ捨てた病院のカチューシャの上着を手にとってみれば、汗にしっとりとなったたった一重の薄い青磁の絹裳。寒国の信濃の冬の真中に、一重の衣に汗をかくは、中学生のマラソン競争の選手ならでは女史一人、カチューシャの歌の雲のごとく潮のごとく広がりゆくも故あることと思われる」(1月13日 信濃毎日新聞)

満員札止めの入場者

 須磨子の人気を、なにより正直に語るのは、満員の入場数である。
 「上諏訪町南信日々新聞社の分身なる号外新聞社主催の芸術座松井須磨子一座の『復活』劇は」初日の「開幕前すでに満員締め切りの盛況を見たるが、何がさて、『復活』劇は須磨子の十八番、ことに日本向きの翻案劇とて非常の喝采を博したれば、二日目も無論満員締め切りの事となるべく」(1月6日 長野新聞)
 おもしろいのは、上諏訪の都座の公演が、都座が呼んだのではなく、地元新聞社の主催によるものだったということ。新聞社の宣伝とお客様サービスをかねたものだったのだろうが、このような催しに、芸術座は呼ばれるようになっていたのだ。
 「松本座に於ける 須磨子劇大盛況 主催者はホクホク」「須磨子一行の『復活』劇及び『カミソリ』は予期以上の人気にて、両日とも満員の盛況を呈し非常なる成功を見たる」(1月10日 長野新聞)
 それにしてもこの人気ぶり。観客の反応は、松本座の予想をはるかに超えるものだったらしい。座元としては儲かってホクホクだというから、芸術座とは定額の契約で、予想を上回る儲けは座にいく仕掛けだったのだろう。
 こういう点が、抱月はやはり大学教授だった人だ、儲け方が下手だと言われもするところ。
 須坂での公演は「午後五時より、序幕喜劇『剃刀』を開演したるが、開幕前の入場者すでに千余名に達し、午後六時に至るや、満場全く立錐の余地なき大入りとなりて締め切りたる」(1月11日 長野新聞)
 千名を超えるという観客は、数をもって盛況ぶりを伝える初めての記事である。が、当時、千名も入れる劇場が須坂にあったというのも驚きであった。本当にこれだけの数が入ったのであろうか。いささか、多すぎて、正確かどうか不安になるが、今と違って椅子席でなく、桟敷の時代だったから、お膝送りを願えば伸縮自在、かなりに詰め込み可能だったのかも知れない。
 ただ、この千名の記事の直ぐ前に「島村抱月氏の講演会又非常の盛況にて定刻前すでに六百名の入場者あり」とあるこの数字は、どうもかなりオーバーだったのではないかと思われる当時の日記がある。
 須坂市太子町に住む「北信新報」須坂支局長の鈴木与喜治氏の日記(御子息の鈴木敏氏所蔵。高山村村誌編纂室の青木廣安氏のご厚意でコピーを見せていただいた)で、大正四年一月十日のくだりに、「島村抱月氏ノ講演ヲ聞クベク劇場ヘ行ク未ダ十数人ノ入リナリ四時前漸ク開講」とある。鈴木氏は、当日、田中邦治町会議員(後に須坂市二代目市長)の案内で訪れた須磨子の挨拶を受けている。その後、講演会に行き、いったん帰宅して夕食をすませ、再び須磨子の劇を見に行った人の日記なので、信憑性は記事より日記のほうが高い。
 六百といい、千という数字。いわゆる主催者発表によればという数字かもしれない。というわけで、須磨子劇に千名というのにも不安が残るが、こちらの数字は日記に記載がない。

須坂入りは人力車を列ね

 須磨子一行の須坂入りはまことに華やかだった。
 「東京芸術座松井須磨子の一行は」「午後二時吉田駅到着。折柄の降雪を冒して出迎えの人々と共に、腕車三十余台を連ねて須坂町に至り、桐屋旅舎に到着した」(1月10日 長野新聞)
 大正四年のこのころ、長野電鉄はまだ吉田駅までしか通じていなかったので、出迎えの人々は、須坂から吉田まで出向いて、一行を迎えた。「腕車」は人力車。人力車で須坂までは大変な道のりである。途中、千曲川を越えねばならず、折悪しく雪が降っていてという中を、三十余台の人力車は須坂に向かう。
 川村花菱「随筆 松井須磨子」に、駅から旅館までの人力車の道のりの長さが観客の多さに比例した。だから、出来るだけ長く、多くの人に見て貰うため、わざわざ遠回りして旅館に行ったという話があるが、リアルタイムの新聞に、人力車の行列記事を見つけたのは、これがはじめてである。
 旅館到着も華やかで、「煙火三十余発の速射を合図に、桐屋に予定のごとく入るはずにて」(1月9日 長野新聞)と前日、報道されている。はたして本当に須磨子は花火で迎えられたのかどうか。当日の記事には言及がない。既報ゆえ、書かなかっただけかも知れず、雪の激しいゆえに省略されたのかも知れない。が、こうした華やかな出迎え行事も、須磨子人気の高さを伝え、また、宣伝にこれ努める座元の意向が見える気がする。なお、須磨子は桐屋に泊まらず、伯母の小田切家に泊まったという話もある。
 次の記事は、半年後の巡演のおりになるが、上田の中村座は、芸術座座員の市中まわりを要望したらしく、こんな記事がのった。
 「五日六日の両夜、上田町中村座において開演する芸術座松井須磨子の一行は、五日午前十時四十一分上田駅着の列車にて上田町に至り、直ちに腕車を列ねて木町中村座に入り少憩、それより市中廻りをなし、午後五時より開演す」(4年7月6日 信濃毎日新聞)
 市中のまわった場所は、「原町より中村座に到り、木町、房山、馬場町、下道等を経て旅舎に入るはずにて」(4年7月5日 長野新聞)とある。

  大正四年の七月
  第四章 主演女優のがんばり

三度目の信州巡演

 芸術座、三度目の信州巡演は大正四年の七月だった。
 二日、三日、四日が、長野市の三幸座。「その前夜」「サロメ」「飯」の三本。
 五日.六日、上田の中村座、「復活」と「剃刀」。
 八日.九日、伊那の旭座、「復活」と「剃刀」。
 十一日.十二日、十三日、飯田の曙座、「復活」と「剃刀」。
 須磨子はこれら五つの演目すべての主役をつとめている。

後援者への挨拶廻り

 芸術座の信州巡演も三度目。三度目ともなると、さすがに新聞報道も沈静化する。が、まず際立つのは、須磨子のがんばりである。
 「いよいよ来る二日より三日間、三幸座にて「その前夜」「飯」「サロメ」を開演する芸術座松井須磨子一行は、二十七日富山打ち上げ後、二十九日より二日間高田にて『復活』を出し、七月一日長野に乗り込むはず、しかして松井須磨子は、二十八日いったん郷里松代の家を訪問し、後援者廻りをなし、二十九日引き返して高田に向かう予定なりという」(大正4年6月27日 長野新聞)
 大正四年の芸術座の巡演は五月から始まっていた。大都会の大阪、京都、神戸、名古屋はもちろんのこと、地方巡業はまず北陸に入り、信州は北陸各地に引き続いて組まれていた。信州のあとは東北、北海道、そして海外に渡って台湾、朝鮮、満州へ、巡業は十二月まで続いていた。
 抱月、須磨子は、念願の自前の小劇場を持つべく、前年の八月、上野の大正博覧会で安値興行を終えたあたりから手を打ち、演芸場の建物の払い下げを受けていた。四年二月には芸術倶楽部を設立し、九月には芸術座付属の演劇学校も設立する。劇場の客席は三百。演劇のみならず、映画、演奏会、展覧会、講演会など、幅広い文化活動に破格の安さで提供する計画で、建設に必要な莫大な資金を、この年は、八ヶ月にわたる巡業をやり抜くことで稼ぎ出そうとしていた。
 強行軍は承知である。短いこの記事からも想像できる。しかも須磨子は看板女優。座員の中でも、最も出番の多い公演をこなしているわけだが、その須磨子が忙しい中を縫って、松代に帰郷していた。富山からつぎの巡業先の高田までの移動でよいところを、高田を通過して松代まで足を伸ばし、再び、とんぼ返りで高田にもどって「復活」のカチューシャを、というわけだから、大変な強行軍である。
 その理由は、母に会うためというより、松代の後援者廻りをすることにあったようだ。高田の次の長野公演、どうぞよろしく御後援をというために、あえてこの強行軍をこなす必要があったのだ。
 芸術座は、巡業の先へ先へと段取りをつけ、挨拶をしてまわる先乗りがいたけれども、やはり、須磨子が挨拶に出向かなければ、収まりがつかない場所というものもあった。松代の後援会も、そのように、特に大事にされたところだったのだ。
 信濃毎日新聞は、やや揶揄的趣向ではあるけれど、松代の須磨子の動静を詳しく報道している。
 「実母と積もる話をして昼食をする間も慌ただしく、今度は俥を大奮発して後援会の幹部を歴訪した。『今度は手興行ですから一層盛んに御援助下さいませ』と舞台そのままの眸を利用して盛んに愛嬌をこぼして歩いたものだから、鼻下長をもって有名な後援会の連中とて直ちにグット参って仕舞い、遂に須磨子を擁して佳月楼上で晩餐会を開くことになった」(7月1日 信濃毎日新聞)
 「手興行」という意味は、今回の三幸座の公演は、芸術座の自主興行でやるという意味である。座の方で呼んでくれるなら、損も得も座が持つから、大入りであっても、芸術座は契約の一定額しかもらえない。「手興行」ならば、観客が大入りとなれば、芸術座の収入も大入りとなる。少なければ、芸術座の赤字になる。そんな形の「手興行」での長野入り。そのためには、ぜひとも、後援会幹部の応援を取り付けておきたい。それには須磨子自身が挨拶に出向かねばということだったのだろう。
 須磨子はこの夜、お酌もしたようだし、抱月との立ち入った関係を聞かれもしたし、翌日は高田までもどって公演する日だったのに、夜の十時まで付き合っている。請われれば握手もするし、「手興行」成功のために、看板女優は、ここまで頑張ったのかという感慨がわく。
 「須磨子の差した盃の酒の味はまた格別でござるなどと勝手な熱を吐いて、呑むほどに酔うては遠慮もなにもあったものにあらず」「抱月と須磨子とのスッパ抜きの載っている新聞を突きつけ、『こんな新聞が出ておりますが事実なんですか』」「かくて十時も鳴ったので、須磨子はお暇して帰るべく座を立ったが」「それではせめて握手でもと、今や駈け出そうとする俥の側近くすり寄り、須磨子と固い握手を交換し」(7月1日 信濃毎日新聞)
 公演成功のために、須磨子自身が挨拶まわりという話は、新聞記事としてはこの七月がはじめてだが、半年前の須坂公演のおりにも、須磨子は土地の有力者のもとへ挨拶に出向いていた。まず田中邦治町会議員のもとに出向き、その案内で、「北信新報」須坂支局長の鈴木与喜治氏のもとにも出向いている。手みやげに、彼女の随筆集『牡丹刷毛』を持参していたことも、鈴木氏の日記に記されている。
 「田中君来リテ後刻松井須磨子ヲ挨拶ノタメ連レ来タルト言ヒ去リタリ。ヤガテ一時半頃カ田中君ノ案内ニテ目下女優トシテ天下ニ名声嘖々タル松井須磨子嬢ハ人車ニテ挨拶ニ来リ牡丹刷毛ナル小冊子ヲ土産トシテ去ル」(大正四年一月十日の日記より)
 記事になる何倍、あるいは何百倍も、須磨子はせっせと挨拶まわりをしていたのだと思う。公演の成功のために、須磨子は汗水たらして舞台以外でもがんばっていたのだ。

ケチと言われた須磨子

 「比較的ジミな絽縮緬の単衣を軽やかに流して……それでも胸間には金鎖金時計をブラ下げ、その白魚?のような指にはダイヤのリングを輝かせて、篠ノ井からガタ馬車に乗って帰った。とかくの評はあるにもせよ、日本一の女優として世間も認め自らも許している須磨子!一万円の貯金を有している須磨子が、僅かに十五銭を奮発してガタ馬車で帰る、そこに彼女の面目が躍如しているではあるまいか」(7月1日 信濃毎日新聞)
 これも、長野の「手興行」、よろしくご支援を、と松代入りした須磨子報道の一部なのだが、馬車があるなら馬車でという選択を、須磨子ほどの女優になると、いかにもケチではないかと話題にされる。
 須磨子伝説のひとつに、彼女のケチぶりがある。楽屋への差し入れもすべて彼女が独り占めにしていたという話も伝わっている。食べきれない飲みきれない差し入れを一人貯め込む、あるいは酒屋に引き取らせたり、売ったりするイメージは異様であるが、はたしてどの程度の真実であったのか。
 ただ、この伝説、大正四年七月の新聞にこう出るからには、このころすでに、相当に伝播していた話だったのだ。
 十五銭のガタ馬車といい、一万円の貯金といい、見てきたような嘘のたぐいかもしれないが、出さずにすむお金は倹約しという精神がなければ、一万円という多額な貯金を、「復活」の初演からわずか一年数ヶ月で貯められるわけがない。
 そして、「復活」初演から二年もたたない大正四年の十二月に、(これはこの新聞記事からわずか六ヶ月後なのだ)、東京の牛込に、芸術座の自前の小劇場・芸術倶楽部を落成させてしまった抱月と須磨子がいる。小さいにしろ、自前の劇場を持つなどという猛烈な理想主義を、可能にしてのける力も、出さずにすむところは出さないケチケチ精神がなければ実現しないのではないか。
 須磨子のケチは、大いなる理想のためにケチだったのではないか。
 あるいは、この一万円、須磨子の個人的貯蓄であって、芸術倶楽部建設費とは別枠のお金だったかもしれない。
 そうであっても、私は須磨子をケチと呼びにくく思っている。というのは、須磨子が人生を共にしたい抱月には妻子がいた。彼は芸術倶楽部が完成し、妻子と暮らす家を出て、須磨子と同棲するようになったが、離婚だけはついにしなかった。妻と離婚し、須磨子と結婚するという証文が三通残っている。証文は実行されないまま、さらに、さらにと、書かれたわけだ。須磨子からすれば大変な不安であったろう。抱月の妻にどうしてもなりたいのに、どうしてもなれない。この不安な精神状況を埋めていくものが、もしや、お金だったのではないか。私はそんな思いを捨て去れずにいる。

新しい演目は紹介記事

 三度目の巡演報道は静かなもの。
 それが新聞全体の印象ではあるが、新しい演目となるとやはり扱いは別になる。
 長野の三幸座は、同じ座での二度目の公演になる。芸術座は出し物を変え、ツルゲーネフ原作の「その前夜」、中村吉蔵創作の「飯」、オスカーワイルド原作の「サロメ」の三本でいった。東京で初演されて、評判も取っていたが、長野では初めてなので、三つそれぞれに、かなり詳しく紹介している。
 やはり須磨子は別扱い。新しいニュースがあれば報道するにやぶさかでないということなのだろう。
 「『サロメ』は西洋の歌舞伎十八番ともいうべき劇で、舞台面の絢爛、壮麗、神秘を極めた中に、サロメ女王が恋人の首に接吻して狂舞するというのであるから、色彩音楽ともに半オペラ式に演ずる。日本ならば『勧進帳』『助六』などと対比すべきものだという。従って音楽、背景、電気装置等も東京及び京阪から持って来た」(6月29日 長野新聞)
 「『飯』は東京の町はずれの貧民長屋の真状を暴露して、社会の一部にはかくのごとき人生もある事を示せる喜劇とも悲劇とも見られ得べきもの」(6月30日 長野新聞)「親子三人が一つ土鍋の飯を奪い合うあたりは笑っていいか泣いていいかわからないようになる。それを東京ではあの金ぴかづくめの帝劇の舞台にのぼしたのであるから、まず第一にその対照の強烈なのが人の目を驚かし、ひいては社会学者方面の非常な注意を惹いたものである」(7月2日 長野新聞)

『その前夜』『サロメ』『飯』の評判はまずまず

 しかし、観客動員力は、『復活』には及ばなかったようで、満員盛況、満員札止めといった大入りを告げる表現は、今回の三幸座公演にはみられない。
 「三幸座にて目下開演中の松井須磨子一行は連夜相当の客足を引きつつありて」「『その前夜』『飯』『サロメ』等いずれも好評を博し居れり」(7月4日 信濃毎日新聞)
 「相当の客足」というところが実態だったのだろう。
 その理由と思われるのは、一つはミスキャスト。東京では評判の良かったサロメだが、長野では、須磨子にぴったりの役ではないと観客に思わせてしまった点。
 「劇の主人公なる須磨子のサロメには、神秘的な気品を欠いていやしまいか。須磨子の持っている気分が著しく現代的に傾いておりはしないだろうか。終わって帰りがけの大勢の批評が、はからずも記者の考えと暗合しているのはどういうものだろうか」「劇の総体からいえば俳優の衣装に赤い色を使用し、寂しい中に華やかな所があって面白く見られたけれど、俳優の技が割合に貧弱で、王妃に扮した女優のごときは問題にならないぐらいであった」(7月3日 信濃毎日新聞)
 もう一つは、五幕の劇を、時間の都合で三幕に縮めるなどという乱暴な演出をしてしまった点。
「『その前夜』はいったいが五幕のものであるのを、時間の都合で三幕に切り縮めてしまったため、変な継ぎはぎが出来ている」「須磨子が扮した女主人公ヱレエナは須磨子としての見せ場ないようで、『復活』で見た時の緊張した気分を味わい得られなかった」(7月4日 信濃毎日新聞)
 その中では、中村吉蔵書き下ろしの「飯」のお市は、須磨子のはつらつとした演技を引き出す役柄で、観客もカチューシャとは違う新しい須磨子を感じ、魅了されている。
 「須磨子のお市は無類飛び切りの上等で、居座って盛んに口説き立てる禿の藤吉を得意の啖呵でやりこめるあたり、須磨子ならずんばと思わせ、極貧長屋の山の神を十分にしのばせ、とうとう亭主の幸作に逃げられ、飯を食うだけに二人の連れ子をして藤吉の家へ押しかけ女房に出かけるまで、少しのタルミも認められなかった。須磨子は世話物のようなものでも成功している」(7月4日 信濃毎日新聞)
 須磨子のお市は、カチューシャと同じように、演劇的には成功し、記者の評判もなかなかのものだ。けれども記者は演劇通。見巧者ともいうべき記者にはよかったのだが、しかし、観客は満員御礼が出るほど、足を運んではくれなかった。観客はやはりカチューシャの須磨子が好きだったのだ。良くできた劇ではあっても、深刻な社会問題に向き合うより、カチューシャ物語のような、夢を見させてくれるものを好んだということなのだろうか。

初めての町は「復活」に燃えた

 やはり観客は、須磨子のカチューシャが見たかったのだ。
 上田、伊那、飯田は「復活」と「剃刀」でまわっているが、新聞は「剃刀」には触れずにすべて「復活劇」とだけ紹介する。観客の興味がもっぱら須磨子のカチューシャに集中していることを承知で、ずばり「復活劇」と報道しているのだろうが、反響は大変に大きく、大入り満員の盛況を告げている。
 なかでも上田は、須磨子が小学校時代を過ごした土地であり、同窓生が動いてくれ、抱月のからみで早稲田の同窓生も動いてくれた。
 「須磨子は小学時代上田町に居住せしこととて、旧知も多く、その向き向きに後援者あり、前景気はすこぶるよろし。郡内塩尻、塩川、長瀬等の村落よりは、すでに団体観覧の申し込みありと聞けり」(4年7月4日 信濃毎日新聞)
 「松井嬢の同窓婦人連、また島村氏に対する早稲田大学同窓生、及び上田町記者団等の後援の下に、着々準備中なり」(4年7月4日 長野新聞)
 伊那では初日の観客数千三百人。観客は伊那町だけでなく、南からも北からも、沿線住民が足を運んでくれた。そこで伊那電車、観客の帰宅の足を確保すべく、臨時電車を出した。臨時電車まで出させた「復活劇」、これもまた、須磨子人気を伝えるニュースである。
 「初日千三百人」「伊那町旭座に於ける松井須磨子一行の芸術座は非常の人気にて」(7月10日 長野新聞)
 「伊那地方空前の人気にて、伊那町はもちろん赤穂、宮田、松島、木下、辰野、高遠、美篶、手良方面より観劇申込み者非常に多く、伊那電車会社にては観客の便を図り、両夜とも演劇終了後、臨時電車を伊那町より赤穂、辰野の両方面に運転するに決し、各駅に掲示しつつあり」(7月7日 長野新聞)
 飯田は初日千名、二日目も良い席から午前中に売り切れて、初日以上の入場者が予想される勢い。
 「飯田の復活劇 初日入場千人」「なお十二日の二日目は特等一等共に全部午前中売り切れとなり、前日以上の大盛況を呈したり」(7月13日 長野新聞)
『団体申込み多し』「団体観覧は飯田図書館閲覧会の百余名を始めとし、小学校、商店、工場等十数組に上り」(7月10日 長野新聞)
 飯田の新しいニュースは、飯田図書館閲覧会なるものが組織されていてという点。図書館を中心にした本好きの人々の会が、この時代にすでに組織されているということ、注目に値する。閲覧会の人々は本の世界にとどまらず、ひろく芸術を愛し、演劇もまた、団体で見ようというのである。その数、百人を越え、観客動員の大きな力になっていた。

 飯田が、三度目の信州巡演の打ち上げで、その後、東北、北海道へ、それから台湾、朝鮮、満州各地での巡演が待っていた。

  大正六年四月、九月
  第五章 ついに生地松代公演

四度目、五度目の信州巡演

 大正六年四月に 穂高町の穂高劇場で「復活」と「剃刀」
 大正六年九月からの巡演は「復活」と「剃刀」と、所作事「京人形」で、
 九月二十七日二十八日、上田の大屋座、
 二十九日三十日、小諸の高砂座、
 十月一日、臼田の佐久楽座、
 二日三日、松代の梅津座、
 四日、丸子の丸子劇場。

四度目の穂高は地域劇団を生んだ

 大正六年、芸術座の信州巡演は二度。四月に穂高町の穂高劇場で「復活」と「剃刀」を、そして、九月から十月にかけて、上田、小諸、臼田、松代、丸子の信越線沿線の巡演。
 穂高が四度目、上田からの巡演が五度目になる。
 もともと、須磨子の信州公演の日程は、元長野市民劇場事務局長の岡野和夫氏が「松井須磨子ムム生誕百年にあたって」(信濃毎日新聞 昭和六十一年十一月一日と五日の二回)で調査報告してくださったもの。
 私もこれを参考にさせていただいて、信濃毎日新聞、長野新聞に当たることができた。
 けれども、残念ながら、穂高公演だけは両紙とも載っていなかった。田辺若男が五十年の俳優生活を語った『俳優』に、芸術座の八百八十日の「転演」の地名が列挙されていて、そこに穂高もある。芸術座創立以来ずっと踏みとどまった俳優は須磨子と、この田辺と、中井哲の三人きり。長野の観客には「剃刀」の主役為吉役でお馴染みだった。
 その田辺の回想にあるのだから、まず間違いはないと思っていたが、今回、穂高の、母親文庫などの読書活動に熱心な青柳節子さんが調べてくださって、『穂高町誌』にのっていることがわかった。
 「大正六年四月、穂高劇場で、新劇女優松井須磨子らの「芸術座」がトルストイの「復活」(カチューシャ)を上演した。この新劇のざん新な舞台表現に魅せられ、地域演劇活動の主導者となったのが清沢清志である。四年後の大正一〇年一二月、東京遊学から帰省中の清沢は、仲間の青年たちを誘って、自宅の製糸工場の寄宿舎で、クリスマスパーティの名目で、金子洋文作の「老船夫」と、農民一揆を舞台化したアイルランドの翻訳劇一幕を上演した。これが穂高演劇協会の幕開けであった」(『穂高町誌』歴史編 下)
 須磨子の公演をきっかけに、地域の演劇グループ誕生という話は、初めてである。ずいぶん素敵な種が蒔かれたわけで、穂高演劇協会は昭和三十七年まで公演活動を続けていた。県下各地の公演回数五百回。翻訳劇、創作劇、狂言、時代劇、民話劇と幅広く上演していた。日中戦争中の文化弾圧のもとでも活動を続け、一時、清沢が反戦主義者として投獄される苦難もあり、在郷軍人会、翼賛壮年団の支援を受けて活動する時期もあった。清沢は昭和三十四年死去、『復活』に魅せられ、地域文化を育てた人生の幕を閉じた。

報道は少なくても元気に巡業

 芸術座の信州巡演は,大正六年九月からの五度目が、結果的に、最後となる。芸術座自身も、観客も、まだまだ巡演の機会はある、そう思っていたにちがいないのだが。
 だから、報道もいたって気楽に、なにしろ、もう五度目であるし、演目も「復活」と「剃刀」。それに所作事の「京人形」があるとしても、こちらは踊り中心の軽いもの。「復活」も「剃刀」も観客周知の十八番。なにも、事改めて紹介するまでもないという調子で、報道はいたって簡単。日程と演目のお知らせにとどまっている。
 「大屋座 芸術座松井須磨子一行にて二十七八の両日開場。出し物は中村春雨作悲喜劇『剃刀』一幕、トルストイ原作島村抱月脚色悲劇『カチューシャ』四幕、所作事『京人形』一幕」(9月28日 信濃毎日新聞)
 「二十九日より二日間、高砂座に開演し、一行お得意の『カミソリ』劇『カチューシャ』劇『京人形』」(9月29日 信濃毎日新聞)
 「丸子劇場 来る四日午後五時より、松井須磨子一行四十余名にて開場。演芸は須磨子独特の『剃刀』『カチューシャ』所作事『京人形』を上演する由」(10月2日 信濃毎日新聞)
 もしも、これが、信州最後の巡演とわかっていたなら、報道の仕方も自ずから違い、最後を強調する力こぶの入ったものになったに違いないが、人間に死というものがあることを、まだ、だれ一人、考えてもいなかった。
 芸術座はひたすら元気に巡演していた。
 大正六年は、三月九日から十六日まで東京の新富座で、新作『ポーラ』と『お艶と新助』の上演を終えると、四月から九月まで、長く広範な巡業を敢行していた。信州巡業もその流れの中の一コマで、甲府、名古屋、伊勢、奈良、さらに再び満州や朝鮮の各地をまわる長い長い地方巡業をこなし、東京にもどると新作の『生ける屍』の稽古に入り、十月三十日から十一月五日まで、明治座で公演をしという多忙なスケジュールになっていた。
 九月に信州に入る前は、関西地方の巡演で、いったん帰京して、それから高崎での公演をすませ、信州入りしている。
「芸術座松井須磨子一行は関西地方巡演を終わりて帰京し」(9月27日 信濃毎日新聞)「芸術座一行は二十五日東京出発、二十五六の両夜、高崎市において開演、」(9月24日 信濃毎日新聞)
 報道量は少ないが、これだけの巡業を可能にするお客の入りはあったということなのだ。お客は、周知の須磨子だから一度見てみようと思うものだし、周知のことじゃなぁ、新しいニュースがなければなぁ、と思うのが報道であるし。

臼田の佐久楽座

 臼田の佐久楽座は日程も演目も新聞にのらなかった。あるいは、興行がなかったのではと、疑り深い私のこと、少々不安であったが、まったく別のニュースから、臼田の公演がわかった。
 「臼田町旅館松平楼において、一日夜急症を発せる島村抱月氏は、須磨子に別れ独り臼田に止まりしが、激しき胃痛を感じ下痢を発せるものにて、幸いに回復に赴き、二日午後臼田町を出発、松代町に向かえり」(10月3日 信濃毎日新聞)
 佐久楽座の公演がなければ、臼田町に泊まることもないわけだから、これは確かである。それにしても四度目、報道は手薄になって、臼田公演のお知らせは飛んでしまった。

『人形の家』のノラをやる?

 そしてまた、手薄な報道ゆえなのであろうか。芸術座の連絡不備なのであろうか。芸術座の演目が、報道日によって違っている。
 「小諸町高砂座」「初日カチューシャ八幕、ノラの『人形の家』五幕、他喜劇等なり」(9月27日 信濃毎日新聞)
「二十九、三十の両日小諸高砂座において」「カチューシャ、ノラの『人形』等を開演すべし」(9月28日 長野新聞)
 信濃毎日新聞は、九月二十四日、郷里の松代・海津座での公演決定という第一報をのせ、この二十七日の第二報で、出し物のお知らせをのせた。長野新聞は二十六日に、松代公演を、二十七日に大屋での公演を知らせ、二十八日、はじめて演目をのせた。どちらの新聞にとっても、演目紹介の第一報が『ノラ』と『カチューシャ』だったので、これが今回の出し物と思いがちだが、その後の報道はすべて、「カチューシャ」と「剃刀」になっている。実際に演じられたのはこちらだったのだろう。
 日程も、「二十七八の両日小諸」(9月24日 信濃毎日新聞)とあったのに、「小諸町高砂座の開演は二十九、三十日の両日に決定」(9月27日 信濃毎日新聞)と変更されている。
 どうも今回、芸術座のほうからの連絡が不十分だったような気がする。あるいは、途中で出し物を変更してしまうことだってあったのかもしれない。

大洪水の松代海津座公演

 今回の巡業の最大のニュースは松代・海津座での公演である。松代は須磨子の生まれ故郷そのものである。
 おおまかに故郷公演と言えば、信州各地の公演はすべて故郷公演になるが、絞れば、松代のすぐ隣の長野市での公演、さらに絞れば、生まれた町そのものの公演。松代海津座の公演はこの一番絞った意味での故郷公演だった。
 須磨子も是非一度、華やかに開演したいと希望し、後援会幹部も招きたいと思い、そのために須磨子は内々で松代にもどっていた。後援会の幹部と会い、詰めの協議をした上で、いよいよ実現。十月二日と三日、松代の海津座での公演が決定した。
 「芸術座の松井須磨子はかねてより、郷里松代町において華々しく開演するの希望あり。郷里の間においてもまた須磨子一行を是非一度迎えたしとの意向あり。かたがた過日須磨子はひそかに郷里に帰り、須磨子後援会幹部諸氏と会見、協議を遂げたる結果、いよいよ来る十月二日三日の両夜、松代海津座において興行するに決したるが、後援会にては幟その他を寄贈すべく、何がさて須磨子の初目見えの事とて前景気すこぶる盛んなり」(9月26日 長野新聞)
 須磨子の意気込みも、そしてまた後援会幹部の力の入れようも、おおよそ推測できる。後援会はその意気込みを、幟旗二本のプレゼントという形で表し、町はずれまで出迎えることとした。記事には書かれていないが、故郷松代に、出迎えを受けて凱旋公演できる須磨子の喜びの大きさ、想像にあまりある。
「町はずれまで出迎えをなし、同夜料芸組合の総見を行う等、前景気頗る盛んにして、なお後援会より縮緬の幟一対を寄贈するに決せり」(10月1日 信濃毎日新聞)
 報道量の少ない今回ではあるが、松代公演は特別だから、公演後の詳報は必ずあると思いこんでいた。場合によっては、須磨子のインタビューものるかも知れないと思っていたが、信濃毎日新聞にも長野新聞にも、ついにその記事を見いだせなかった。
 じつは公演の当日、「川という川皆出水」という大見出しの非常事態が起こっていた。
 「連日の降雨は三十日夜に入りて益々激しく、十一時頃よりは盆を覆すかと思われる大降りにて、夜の明くる頃まで小止みもなかりしに」「一時に濁流を押して県内各河川を溢れしめたり」「千曲川の堤塘を乗り越え、又は打ち破りて濁流の氾濫したるは、報告漏れも多けれど」「埴科郡にては屋代町以下雨宮県、清野、松代、寺尾諸町村に及び」(10月2日 信濃毎日新聞)
 どちらの新聞も、総力をあげて、洪水被害の状況を伝えている。
 しかも、洪水は、須磨子の生家のある清野も、松代の町も襲っていた。海津座のある松代そのものが洪水の被災地であるという非常事態のさなか、須磨子の公演は可能だったのだろうか。
 海津座そのものが洪水に見舞われていたかもしれないし、海津座が無事だったとしても、見に来る観客は、これだけ広範な激しい洪水であれば、被害の対応におおわらわで、いくら地元出身の須磨子であっても、芝居見物どころではなかったのではないか。
 もしや松代公演、報道がないだけではなく、公演そのものが取りやめになっていたのではないか。ほとんどこう確信するようになっていたが、それから一年半近くたった、須磨子の死を報ずる記事の中に、海津座公演の話がのっていた。
 「彼女が最後に帰ったのは大正六年秋であった。その時は島村氏も中村氏も一所に来て、松代海津座で『復活』を上場したが、『面白くない芝居』、故郷の人の批評はただこれだけであった」(大正8年1月6日 信濃毎日新聞)
 彼女はもちろん須磨子、島村氏は抱月、中村氏は中村吉蔵。故郷松代の公演は、洪水被災という最悪の状況ではあったけれど、決行されていた。しかし、華やかな評価は得られていない。やはり水害被災のダメージ、大きかったのではないだろうか。

  大正八年一月
  第六章  最後の報道

島村抱月の急死

 大正七年十一月五日(四日とも)、島村抱月が急死する。
 四日は、翌五日から幕が開く「緑の朝」(ダヌンチオ作、小山内薫訳)の舞台稽古の最中で、須磨子を始め、芸術座の人々は明治座に詰めて、最後の稽古が猛烈に行われていた。芸術座と歌舞伎座の合同出演の企画だった。
 抱月はインフルエンザをこじらせてずっと休んでいたが、まさか肺炎を併発しているとは気付かず、その日、急激に悪化。しかし、そばにいるのは事の重大さを理解できない宮阪という男だけだったという。宮阪は、何度か、抱月に命じられて明治座に電話をかけたが、主役の須磨子は最後の舞台稽古の最中ゆえ、中座することも出来ず、また、詳しいことは知らされていなかったという。稽古は明け方近くになって、ようやく終わり、急ぎ帰宅すると、すでに抱月の息は絶えていたという悲劇的結末だった。
 「島村先生は亡くなりはしません。どうしても生きています。わたし何だか頭が痛い、割れそうに痛い……彼女は足早に狭い部屋の中を駈け廻ったり、座ってみたり、転げてみたりして」(「東京日日新聞」大正7年11月7日 川村花菱「随筆 松井須磨子」より)
 この明治座の「緑の朝」も、二ヶ月前の歌舞伎座の「沈鐘」と「神主の娘」の公演も、芸術座の独自公演ではなく、歌舞伎や新派の俳優との合同公演という新しい形の公演だった。須磨子にとって、いわば他流試合の公演は、松竹と芸術座の一年契約の提携が成立した結果だった。
 松竹との提携は、それまでの芸術座の数々の公演活動と須磨子人気が評価されたから可能になったのだろうが、松竹は芸術座の公演を毎月半月以上買い切り、二千円余を芸術座に支払う。
 抱月は、それまでの経営の苦心惨憺から解放されることになった。安定した収入が保証され、大きな商業劇場で、松竹が仕切る公演を行い、その一方で、芸術倶楽部の小劇場で、真の意味の芸術劇を展開していく。願ったりかなったりの、ようやく訪れた経済的安定と、存分な芸術的冒険の可能性。どんな喜んでいたことか。そんな中での、まさかの抱月の急死だった。須磨子は泣きに泣く。
 告別式は芸術倶楽部で行われた。須磨子ははげしく泣いた。
 「抱月夫人や令弟、令嬢をはじめ、遺族の環視のなかで、籍をもたない須磨子は、隅のほうに小さくなって赤く泣きはらした顔をうつむけていた。やがて、読経がおわり、棺の窓がひらかれた。須磨子は脱兎のように遺族をかきわけて棺の前へすすみ、遺体のうえにおおいかぶさり、熱い頬を、抱月の蝋のような頬に押し当てて、正体もなく泣きくずれた。
 この日の夕方青山斎場で泣きしずむ須磨子を抱きかかえるようにして喪服を着かえさせ、明治座の「緑の朝」の舞台へ送りだした」(田辺若男「俳優」)
 「抱月没後の須磨子は舞台の花々しい内に、何んとなく漂う淋しさがあった。豊艶なる両の頬にも隠し切れぬ悲痛の影がさして、人々をしてそぞろ哀愁を催さしめた。舞台の上では自分の台詞につまされ、声を漏らして密かに泣いていた」(大正8年1月6日 長野新聞)
 「芸術倶楽部の一員の話」「抱月先生没後は堪えず泣いて居ったのみ見受けました。舞台では行く先を思い淋しくって耐えられない様な事を言っておりました。開演中の有楽座でも、三日夜『肉屋』のお吉の役を済ませて楽屋に帰って来て、抱月先生が死なれてからは私も芸術座を継いで行く気はない、先生の後を追って死にたいと冗談半分に云ったので、座員がそんなはかない事を言うもんじゃないと言うと、私は決心しておりますと言っていたが、今から考えるとそれは冗談ではなかったのです。舞台の台詞につまされて泣き崩れるのは常の事で、横浜にて『生くる屍』のマーシャに扮した時などは『これより先きの私の身の上はどんなでしょう』のところでは、ほとんど声も聞けないばかりに泣き崩れた事もありました」(1月6日 長野新聞)
 じつは、抱月死去の報道は、抱月の死んだ七年十一月には、信濃毎日新聞にも長野新聞にもなかった。
 従って、須磨子の悲しみもその時点では報道されなかった。
 大正八年一月六日にいたって、報道されることとなったのは、須磨子が抱月の後を追って死んでいったからだった。
 須磨子は抱月が死んでからの二ヶ月、独り生きていられない悲しみを抱えて芝居をしていたのだ。その悲しみは、周囲の人にはわかっていたけれども、長野の読者の知るところとなったのは、一月六日。須磨子自殺の報道とともにだった。抱月死去からちょうど二ヶ月目だった。

須磨子自殺の報

 「抱月氏の後を慕い 松井須磨子自殺」
 大正八年一月六日、信濃毎日新聞に、大見出しが踊った。
 「芸術座の梁にかけたる哀れを語る緋縮緬のしごき」「坪内博士、伊原青々園等に宛て三通の手紙を遺す」
 脇にはこのような小見出しが添えられて、須磨子の自殺が衝撃的に伝えられた。
 須磨子は一月一日からの正月興行で、毎日、有楽座に出演中で、メリメ原作『カルメン』のカルメン、中村吉蔵創作『肉店』のお吉を演じていた。一月四日、須磨子は、午後四時、芸術倶楽部を出て、有楽座の楽屋に入り、公演を終えて、芸術倶楽部に帰宅。その後、一睡もせずに遺書を三通書き、二通を、甥を起こして届けさせ、兄あての遺書は胸に挟んで自死していった。芸術倶楽部の道具部屋だった。
 「四日午後四時ごろ、抱月氏の霊前に供えたる灯火の消えざるよう注意して、目下出演中なる有楽座の楽屋入りをなし、同夜十二時頃、立ち返りしが、五日朝に至りて女中が事務所に行きしも、同人の草履の見えざるより怪しみ、楽屋裏の道具部屋に入りしに、梁に緋縮緬のしごきを吊して縊死を遂げいたり。時間は六時頃より七時頃までの間において行われたるもののごとく、美々しく化粧を施し、大島の着物を着しおりて、少しも苦悶せし模様もなくこときれいたり。しかしてこの死の覚悟は抱月氏死後より有しおりしもののごとく、常に『死ぬ死ぬ死ぬ』と口にしいたる由なり」
 「前夜有楽座から帰ったまま、昨年十一月五日、抱月氏が最後の息を引き取った六畳の室の隣室に入り、一睡もせず、すでに死を決して遺書をしたためいたらしく、ちょうど抱月氏の死去した二月目の当日、同時刻に当たる五日朝四時頃、同居している甥の小林武を起こして、同人の出渋っているのを無理にせき立てて、坪内博士と伊原青々園氏に送る遺書を持たせてやった後で、道具部屋に入り、テーブルの上に椅子を重ねて立ちあがり、高さ一丈三尺の梁へしごきを掛け、自分の足で椅子とテーブルとを蹴飛ばし、見事の縊死を遂げたのである。当時の身なりは前日有楽座へ行った時と同じく大島絣の着物と羽織と揃ったのを重ね、髪は女優髷に結んで、兄に当たる赤坂一木町小林益三に宛てた遺書を懐にして安らかに死んでいた」(1月6日 信濃毎日新聞)
 きちんと覚悟の上で、女優としての髷を結い、美しく化粧し、大島の揃いをぴしりと着、甥を外出させた上での死だった。
 甥の小林武は武七ともあり、武昭ともある。小林益三は米山益三ともあり、住所も麹町九丁目十四番地ともある。

なぜ、死を

 須磨子はなぜ死んだのか。
 もし抱月が死んだら、須磨子も死ぬ。そういう二人の約束を果たして死んでいったという報道がある。
 「近親者の話を総合するに、島村抱月氏が死ぬときには須磨子も一緒に死ぬという約束があったらしく、」「須磨子は死なねばならないと決心し、また死ぬ方が幸福だと思っていたらしい、しかし死に損なうことを恐れて、自殺の方法に困り、二月の間延びたのであろうとのこと」「横浜座で興行中、早稲田文学の抱月氏追悼号の表紙に抱月氏の顔が出てあったのを見たときは、止めどなく涙をこぼし『すまない』と叫んだそうで、側にいた者には『今に私も行きます』といったような言葉が見えたそうである。又二三日前にも同座の畑中氏に『抱月先生の死なれた当時死ななくても、今死ねばまだ花が咲きますわね』と言ったのを見ても、死にたいという心は始終あったことがわかる」(1月7日 信濃毎日新聞)

 別の角度からの報道もある。
 抱月亡き後、頼る者を失い、孤立し、重荷を背負いきれなくなって死を選んだのではという報道である。
 「島村抱月氏を失い、その後、親身に頼る人もなし、楠山正雄氏等と妙な噂を立てられるし、最早、昔日の栄誉を担うこともできぬと悲観した結果だろうと言われている」須磨子の死の原因は知るに由なきも、遺書によれば『島村先生の後をおう』とあり、別項須坂の本社員に宛てたる手紙にほのめかし有るごとく、女一人に背負い切れぬ心の心配に、浮き世を捨てて恋しき人の後を追いたるなり」
 「本社須坂支局の田中氏に宛てたる自筆歳末の挨拶によれば、島村氏没後種々の噂が伝わり、女一人に背負い切れぬ心の重荷を感ず云々の文句あるより見て、原因もほぼ推察するに難からず」
(1月6日 長野新聞)
 「島村氏の未亡人曰く『松井は島村の生きている間には、芝居から帰ってきても、仲間の者には尊敬されたり、島村からは慰められたりしていて、花やかな生活を送っておった。しかし、島村が死んでしまってからは、座中に暗闘があり、家へ帰っても慰めてくれる者もなく、常に鬱々としておった。須磨子の兄さんに綽名の乃木将軍という人があって、満州あたりを放浪したあげく、度々須磨子に無心に来るそうだから、あるいは今度の死因もそれらを苦にしてではなかろうかと思われる……芸術座から贈ってくれることになっていた六千五百円のお金はまだ一文も来ていない』」(1月6日 信濃毎日新聞)
 抱月夫人の言う「座中に暗闘があり」ということ、何を指すのかはっきりしないが、あるいは芸術座の幹事会解散のことだろうか。川村花菱によると、抱月の死とともに、芸術座は須磨子ひとりで背負うことになった。女が率いる座を、男の幹事が取りまくのはみっともないという感覚が、そこにはあったようなのだ。悪くとれば、わがままな須磨子の面倒なんか、見てやるものかという愛想尽かしの面も、あったようなのだ。
 「先生の死後、ただちに幹事会が開かれ」「幹事会全部とは言わないが、大体の考え方は、先生なきあとの芸術座は、しぜん須磨子が中心になるので、女を主体にして、われわれ幹事会がそれを取りまくことは、なんとなく余計なおせっかいのようでもあり、この機会に幹事会を解散したほうが、物ぎれいだというふうだった。しかし、女ひとりになった須磨子ひとりを残して、われわれ全部が退いてしまうということも、いかにも薄情のようでもある。そこで、須磨子の考えをきいて、その上で善処すべしということになり」「そこで、芸術座は須磨子ひとりで責任を持って、その経営は支配人と相談してやって行く、われわれは芸術上のことだけ意見も述べ、相談にも乗るということに決定した。須磨子もその意見に賛成して、あらためてわれわれの前に今後のことを頼むことになった」(川村花菱「随筆 松井須磨子」)
 芸術座の脚本部も、昨年すでに解散していた。
 「脚本部は旧冬既に解散と確定し、ただその発表は有楽座の初春興行にも響くこと故、それの終わるまで控えることになっていたのだから、これは既定の事実としてモウ空に帰したわけである」(1月8日 信濃毎日新聞)
 抱月が失われた時、芸術座の幹部会は解散、脚本部も解散。須磨子はたったひとりで芸術座を背負うことになった。幹部会はただ解散ではあまりに薄情だから、相談にはのる、ただし、お金は一切貰わない、無報酬のボランティアでならやると言ってくれたけれど、なんという心細さだろう。
 抱月がいてくれたときは、須磨子は自由にわがままを言っていられたのに、なんという違いだろう。
 実際、責任を、ひとりで引き受けてやることは難しい。須磨子は、今後のことは、坪内先生にすがるしかない、という意見に動かされ、(逍遙は抱月の死を聞いて直ぐに駆けつけてくれていた)、坪内邸に挨拶に出向いた、と川村花菱は言う。坪内逍遙は、かって苦渋を飲まされた関係にあったにもかかわらず、優しいいたわりの言葉を掛けてくれたようで、須磨子は、その仲介役に立ってくれた脚本部の楠山正雄を頼りに思い、いろいろ相談事を持ちかけるようになったという。田辺若男は、楠山のところへ相談に行ったのは、芸術座を守り抜くか、松竹へ身売りするかの選択に迷ってだったと言っている。
 この流れの中で、「楠山正雄氏等と妙な噂を立てられるし」ということが起こっている。幹事会は須磨子と楠山の関係を問題にし、楠山を呼んで査問会を開くという騒ぎまで起こってしまった。ちなみに、「等」の中には有島武郎の名前などもあがったと河竹繁俊は書いている。
 須磨子は孤立し、スキャンダルの噂も湧き、これでは「女一人に背負い切れぬ心の重荷」と感じたとしても不思議ではない。
 抱月の死は、大変な打撃だったのだ。
 花菱は「須磨子の横暴にたえられず飛び出したもの、我慢して残ったもの、そのいずれもの心の奥には、先生を失った、これからの須磨子が見ものだという、からかいづらの心持ちがあった」(前掲同書)と書いている。
 抱月を失うということはこういう事だった。
 ちなみに「六千五百円のお金」というのは、抱月の遺産として、芸術座側から島村家に渡される金額で、それが、まだ精算されていないということ。
 ちなみに、河竹繁俊は、抱月の遺産として、建物と電話六千五百円、香典七百十四円、そこから葬儀費用を引いた六千八十八円が、島村家に養育料として支払われたと書いている。

須磨子の親族のインタビュー

 新聞は、両紙ともに、松代と須坂の親族のインタビューを採っている。
 松代の須磨子の姪・小林ひさ子氏の話。
 「須磨子の娘分ひさ子(一五)が目を泣き張らして出てきて、記者の弔問に対し、『祖母(須磨子の母)はただ今東京に立って行きました。それは『須磨子死す直ぐ来い』という電報が芸術倶楽部の甥小林から来たからで、祖母は何にも云わず、泣きながら留守を気を付けろと言って出て行きました。祖母は何の病気で死んだか知らず、私も知りませんが、ただ一人でどうなる事かと泣いていたところです』と語った」「抱月氏死せる時は母も上京したが、その時も切に東京に来いとすすめた。その様子がどうやらおかしいから、母はアレが可愛そうだと常に云っていたが、その頃から死を決していたのかも知れない。抱月氏と一昨年戻った事があるが、今は夢のようだと泣き泣き語った」(1月6日 長野新聞)
 「最後の手紙は十二月初旬で、既にその当時死を決していたものか、母親に会いたいから是非と上京を促す文字のみが並べてあったと言う。『お祖母さんはお正月になれば行くと言っていたんですのに』」「ヒサ子さんに叔母(須磨子)さんは好きでしたかと問えば、『ほんとうに好い叔母さんでした。いつも帰るといろいろな芝居のお話などしてくれましたのに』ヒサ子さんはこう言ったと思うとたまらなくなったように顔に手を当て、障子の中に身を隠してすすり泣いてしまった」(1月6日 信濃毎日新聞)
 松代の母、そして姪の久子。須磨子と、深い肉親の情につながっていた人々の悲しみは純粋で深い。松代の母は、もっと早く上京していればという悔いを、残したのではないだろうか。

 須坂馬場町で暮らす須磨子の実の姉・井口マス子氏の話。
 マス子と須磨子の間は、マス子の長女を女優にする、しないで、一悶着あったようで、思いは複雑である。
 「須磨子自殺と聞いて非常に驚きたる風情にて、しばらくは何事も口を聞かざりしが、ようやく」「一昨年中、長女の一子が須磨子の許に行きおりし際、島村抱月氏は自己の名の月の字を与え、松井月子と芸名をつけ、東京の舞台に上せたれど、姉ますは妹須磨子のように堕落しては不可なりとて、須磨子の地方巡業留守中、『母大病直ぐ来い』との偽電報を発し引き戻し」「須磨子は前後二回までも須坂に来たり勧誘したれども目的を達せざりき。さればそれ以来姉妹の仲に不和を生じ、その以後は更に文通はせず。しかし死したりとせば何とか報知もありそうなものと深き思いに沈みいたり」(1月6日 信濃毎日新聞)
 「私は昨年八月上京して同人を訪ね、数日滞在していましたが、その後便りもなく、何んの為に死んだのか判りませんが、島村さんが死んだ時に役者を止めたらこんな事にはならなかったでしょう。教育も素養もないただの女が名を挙げたことに魔がさしたのでしょう」(大正8年1月6日 長野新聞)

 長野市大門町の風月堂主人七澤清助氏も、須磨子の近親者として、信濃毎日新聞に、話を求められた。あいにく不在だったため、息子が代わって応対し、何も事情はわからないとだけ答えている。

抱月未亡人のインタビュー

 「未亡人は、本当でしょうかと、驚きながら語る。一昨日有楽座からわざわざ芝居を見に来るようとのお招きで、長女ハル子次女キヨ子は見物させて頂きました。思えばそれが、須磨子さんとしての、影ながらの別れのためであったのでしょうと、心から気の毒がっていた」(大正8年1月6日 長野新聞)
 抱月須磨子の大恋愛も、抱月の家族からすれば、家庭を壊す不倫でしかない。大変に険悪な状況が続き、島村家の書生であった中山晋平は、夫人の命令で、抱月の後を付けさせられたり、抱月の恋文をそっくり写し取るよう命じられたりと、夫人と抱月の間にはさまって苦しんだ。
 これも有名な伝説であるが、牛込に芸術倶楽部が完成し、抱月がそちらに住むようになって、家を捨ててからは、夫人も子供たちも抱月や須磨子を憎み、ただ、次女だけが、時々、父に会いに芸術倶楽部に来ていた。これがもっぱらの伝説であった。
 生活費を請求に、母の代理で、長女の春子が訪ね、侮辱を受けたという話もある。
 「母の使命をもたらして父を芸術座に訊ねた長女の春子が、須磨子から聞くに堪えない悪罵と痰の洗礼を受けて、恥と涙を押さえながら帰ったと言うことがツイ先頃も伝えられた」(大正5年7月8日「国民新聞」 佐渡谷重信「抱月島村瀧太郎論」より)
 修復しがたい憎悪を生みそうな話だが、実際は、伝説ほど険悪きわまるものではなかったようだ。須磨子は有楽座の正月興行に招待しているし、島村家の令嬢も、次女だけでなく、長女も一緒に見に来ていた。島村夫人が、インタビューで、嘘を言わねばならない理由はないから、どうも、伝説のほうが、誇張されすぎたものだったのかもしれない。
 あるいは須磨子、女性よりも男性に憎まれていたのかも知れない。「女のくせに生意気な、けしからん」と。家庭を壊す破壊力よりも、男尊女卑、男性優位の社会を壊す破壊力のほうが、憎まれる時代だったように思える。
 記者も、伝説を伝える関係者も、ほとんどが男性陣であるのだから、思い出話、割り引く必要が、どうもありそうだ。
 新宿中村屋の相馬黒光は、際立つ個性をもって生きぬいた女性だったが、須磨子を嫌いではなかったようで、一緒に芝居見物のはしごをしていたらしい。夫の愛蔵も芝居好きで、早稲田の最年少助教授桂井当之助も一緒に、「時々松井須磨子も仲間に入れて、一晩のうちに三ヶ所の芝居の立見などして不良ぶりを発揮したこともあり」(『黙移』)という。

中山晋平のインタビュー

 中山晋平は、長野県中野市の出身で、島村家に書生においてもらって、東京音楽学校へ進学の夢がかなった。抱月にも、抱月夫人にも、たいへんな恩義があり、「カチューシャの唄」以来、芸術座の劇中歌の作曲を手がけ、一世を風靡する名曲を生み出していた。
 「カチューシャ、漂泊の歌に節つけをした中山氏は語る」「昨夜芝居では何等変わった様子はなかった、ハネてからも七日に練習する振り割等について相談して帰ったくらいであった。私とは今度『カルメン』が唄っている『漂泊の歌』をこの間から少し変えようと思っていたので、『五日午後芸術倶楽部』で稽古の約束をしておいたくらいで、全く意外でした。しかし島村さんとは特別な関係があって、その死ぬ前においても打ち沈んでいた様にも思われた。死ぬ事についてはかってから心配していた。松井君の今までなら、芝居から帰っても島村さんから色々慰藉されていたものを、今はそれがなく寂しく感じていた。それに島村さんが死んだ最初の新年になって一層その感を深めた結果だろう。」「五日、月こそ違え、あたかも島村さんの命日に当たっていたので、松井君は特にその時を選んだのだろう」(1月6日 信濃毎日新聞)
 須磨子は、五日午後、中山晋平と「さすらいの唄」の稽古を、約束していたのだ。
 須磨子は死のうとも思い、しかし、また、生きようとも思っていたのか。
 そうだろうなと思う。須磨子はまだ三十二歳。まだまだ、生きたいと思って当然の若さなのに、彼女は、ついに、生きえなかったのか。

中村吉蔵のインタビュー

 中村吉蔵のインタビューはおのずから女優須磨子の総括になっている。彼は芸術座の数々の創作劇を書いてきた脚本演出の幹部で、抱月とは常に手を携えてやってきた。抱月とともに芸術座の演出を支える二本柱であり、須磨子も、抱月の次に尊敬していたという。
 「芸術座付き本部員中村吉蔵氏は語る」「松井君は普通の日本婦人と違って、飛び離れた自由な、習慣規則に拘泥しない性格の女であったから、この点において、西洋の近代劇中の女性そのままであるので、近代劇の女としては第一人者たる事は誰も認めるところであった。カチューシャ、マグダ等はその最も成功のものであった。私の作の『剃刀のおしか』『めしやのおいち』などにおいて成功し、殊に『おいち』は松井君をおいて他にこれを求める事が出来ぬ。一般に下町風の娘は不向きであった。普通の型を離れた以上のものにおいて成功していた。すなわち『お艶殺しのお艶』等の気分においては決して不成功ではなかった。深川の女としては着物の着こなしやその他においてまだレフオインされていない恨みがあった。松井君の稽古に熱心な事は有名な話で、監督者が疲れても男優がヘトヘトになっても時間を忘れてやるというふうで、イナージーに驚嘆せぬものはなかった」(1月6日 信濃毎日新聞)
 吉蔵は女優須磨子のことしか語らない。女優として生きた人に対し、女優としての仕事ぶりしか語らないという吉蔵の態度を、私はすばらしいと思う。人の評価は、その人がこれで生きると一生懸命であった部分でするべきだと、私は思っている。女優なら女優の仕事で、アスリートならアスリートの仕事で。
 吉蔵は、須磨子の不得意は普通の女や下町育ちの娘の役という。「お艶殺しのお艶」は、谷崎潤一郎創作「お艶と新吉」のことなのだろうが、お艶の須磨子は大変に不評だった。和服の着こなしもまずい、下町風情も、新派の女形に遠く及ばないと。でも、吉蔵は、型において確かにまだまだであるが、気分においては成功していたのだという。
 そして、須磨子は、普通の女ではなく、個性の強い、西洋近代の女の役になると、第一人者の魅力を発揮した女優だったという。それは、須磨子自身が、普通の日本女性とちがって、飛び抜けて自由な、日本の習慣や規則にまったくお構いなしの性格で、役と性格がぴったり合った結果だったのだと。
 吉蔵の話を読んでいると、須磨子は、新しく日本に定着させたい西洋近代劇に、ぴったりな性格だったのだと思う。と同時に、その当時の日本社会からすれば、どんなに異端児だったことかと思う。付き合う人も付き合いにくかったろうし、須磨子もまた、すいぶんと生きにくかったことだろうと。
 「牡丹刷毛」の嘆きや不満が、あらためて、思い出されてくる。抱月が、須磨子は女優として優れて行けば行くほど、今の日本社会では生きにくくなっていくと書いた「序」が思い出されてくる。
 吉蔵は、また別の日、インタビューに答えて、芸術座は、抱月と須磨子を失い、もう消滅するしかないと言う。行き場にこまる座付きの男優の身の振り方も、松竹の大谷社長と会ってなんとかしなければと言う。でも、吉蔵は新劇の未来を暗いとは思っていなかった。暗く悲観しないでいいだけの開拓者の仕事を、抱月と須磨子がして行ってくれたのだからと。
 「芸術座は島村先生という第一の座主を失い、更に又須磨子という第二の座主を失ったので、自然消滅するより外はない。」「脚本部は旧冬既に解散と確定し、」「これは既定の事実としてモウ空に帰したわけである。最近両者の死は新興劇団の前途に大きな光明をなくしたに違いないが、しかしその熱心な宣伝によって新劇が一般世間的にもなり、興行師側も大分理解を持ってきたことであるから、そう悲観すべき事ではないと思う。島村氏も須磨子も今日として見れば功成り名遂げたものといってよい。女優の後継者問題は実に須磨子存命中からも当事者の苦心をしていたことで、須磨子のごときは天品天才であるから、それを作ることは到底むずかしい」(1月8日 信濃毎日新聞)
 しかし、須磨子は「天品天性」、劇団の仕事は引き継げるが、女優須磨子の存在は代わる者がない。吉蔵はこう言う。
 須磨子自身は、後継者の女優を育てようと、二人の養女を持ち、須坂の姉の長女・一子も女優にしたいと、姉と衝突までしているが、吉蔵は、須磨子は天品天性のカリスマ、作って作れるものではないと評価していたのだ。

逍遙のインタビュー

 坪内逍遙は熱海に避寒中だった。
 「須磨子とは余り交際もせぬので何にも立たぬが、死んだのが事実とすれば、私としては何にも言うこともない。強いて言えば須磨子としては行くべき所へ行ったのだと言うに止まるだろう」(1月6日 信濃毎日新聞)
 抱月を失い、ひとりぼっちになった須磨子が頼りたく思い、挨拶に行ったとき、逍遙は優しくいたわってくれたと言うが、やはり、それは挨拶というものであったのか。あるいは、これもまた逍遙の温情なのだろうか。抱月あっての須磨子であれば、これが一番よかったのだと理解してのことだったのか。

デスマスクと十四歳の死

 信濃毎日新聞は「須磨子の死を聞き縊死」(1月8日)と、大阪の十四歳の少年が衝撃を受けて死んでしまった記事をのせている。
 そして、須磨子のデスマスクのことも。
 「須磨子のデスマスクは、朝倉文夫氏監督の下に、門人相川善一郎、宮島一両氏の手にて作成された」「私たちは婦人のデスマスクをとったのは今度が初めてでした」「須磨子さんの普段の素顔よりは、デスマスクの方がよほど愛嬌が浮き出てよろしいように思われます」(1月8日 信濃毎日新聞)
 朝倉文夫は抱月のデスマスクも作っている。夏目漱石も、森鴎外も、芥川龍之介もと、デスマスクという習慣のあった時代ではあるが、社会的に活躍した人でなければ、作りはしない。須磨子の活躍ぶりを実感させる記事であるが、それにしても男社会であった。なにしろ、須磨子が初めての女性だというのだから。もちろん、朝倉グループにとってだが。
 そして、もうひとつ男社会を感じさせるのが、死者に対して、デスマスクの方が素顔よりいいなどという不謹慎な発言。これも、やはり、須磨子が女だからのことと思うのは、私の偏見であろうか。

須磨子の葬儀に六百名

 「須磨子の葬儀は」「島村抱月氏とその日とその時とを同じうした七日午後三時半、その所もその導師をも同じうした青山斎場において早川豊山派管長によって営まれた」「各方面より贈られた四十余の造花花輪をもって埋められ」「貞祥院実応須磨大姉と記した霊位」「川村花菱氏の司会にて弔辞の朗読に入り、小村侯の弔辞を長田秀雄氏代読し、芸術座代表者中村吉蔵氏は」「口語体の弔辞に悲しみを述ぶ」「早稲田文学士代表本間久雄氏、舞台協会代表加藤氏、大谷松竹社長(松居松葉氏)、東京俳優組合長中村歌右衛門(木村氏)、帝劇女優代表森律子、新派俳優代表中尾米次郎、信州会代表清水有国、大井巡査部長等の弔辞あり」「会葬者六百名は彼女の最後の日を涙に送った」(1月8日 信濃毎日新聞)
 須磨子の葬儀は会葬者六百名で、盛大に営まれた。小村侯というのは小村欣一侯爵で、芸術座の後援者。松竹社長大谷竹次郎の弔辞は松居松葉の代読。中村歌右衛門の弔辞も代読だった。

初七日の追悼会

 「追悼会は、十一日午後六時半より、牛込横寺町の芸術倶楽部において執行。会する者、母及び二人の養女を始め、伊原青々園、中村吉蔵、島村氏令嬢、その他文壇知名の士、合わせて八十余名なりき」(1月12日 信濃毎日新聞)
 二人の養女というのは小林かつと木村若子。子役として舞台にのぼり、須磨子が女優として育てようとしていた。
 島村抱月の令嬢は次女の君子ではなかろうか。君子は、須磨子の死を聞いて芸術倶楽部に駆けつけた人々の中に名が見える。「島村氏の遺子二女君子嬢」(1月7日 信濃毎日新聞)と。君子は、家を出て芸術倶楽部で暮らす、父をときどき訪ね、須磨子にも何度か会っていた。川村花菱は、訪ねて来たこのお嬢さんに、須磨子が愛想良く応対するのに驚き、そうした須磨子に美しいものを感じたと書いている。
 「多門院住職の読経に次ぎて、それぞれ焼香を済まし、ついで親類総代米山益三氏の挨拶ありて晩餐に移り、その間『カチューシャの唄』『漂泊の歌』等の蓄音機を奏して、故人の声音を偲び、しめやかなるうちに九時頃散会したり」(1月12日 信濃毎日新聞)
 私は、故人の歌うレコードに故人を偲びながら行われたこの追悼会を美しいと思う。劇作りは並のぶつかり合いでは良い物ができはしない。いま、須磨子に死なれ、まるで、恩讐の彼方にという言葉のように、愛も恨みも昇華されて、心からなる思いで、見送った八十余名の人々を美しいと思う。

須磨子の遺書 なにとぞ一緒の墓に

 「麹町九丁目十四番地なる須磨子実兄米山益三に宛たる遺書は」「兄さん、私はやはり先生のうちへ行きます。後々のところは坪内先生、伊原先生に願っておきましたからいいようになすって下さい。只私のハカだけを是非とも一所のところへ埋めて下さるよう願って下さいまし。二人の養女たちは相当にして親元へ帰して下さいまし。余は取り急ぎますから                  須磨子
 兄様」
(1月6日 信濃毎日新聞)
 須磨子は遺書を三通書いた。兄益三と、坪内逍遙、伊原青々園に。
 坪内逍遙に書ける義理ではないだろう。そんな思いもある。逍遙の丹精込めた文芸協会を崩壊させたのは、須磨子と抱月の恋愛事件だったのだから。
 しかし、抱月が亡くなった後、坪内逍遙はすぐに弔問に来てくれたし、芸術座を須磨子一人で持っていくことは到底できず、芸術座脚本部員の楠山正雄の仲介で、坪内博士宅に挨拶に出向き、芸術座の今後の指導を頼んだといういきさつも新たに生じていた。
 これは川村花菱「随筆 松井須磨子」に書かれているが、そういうことがなければ、逍遙に遺書を書くことなど、考えられないことなのだ。その遺書にも、青々園あての遺書にも、書かれているのはただ一つ、抱月と同じ墓に葬って欲しいというただ一つの願いだった。
 芸術座の行く末については一言もない。幹部会も脚本部もすでに解散ずみだったのだから、それはそうなのだろう。養女の身の振り方は、相当のお金を付けてということなのだろう、親元へ帰してもらう形で決着を付けている。

坪内逍遙あて遺書
 坪内先生、長い間先生の御恩に背いていた私たちの事故、こんな事をお願いできる事ではございませんけれど、先日早速いらして頂いたお情に甘えて申上げます。
 舞台のいろはから仕込んでいただいた大恩あるお二方にそむいてまですがった人、其人に先立たれて、どう思いなおしても生きては行かれません。伊原先生にもくれぐれも願って置きましたが、あとあとの事何卒よろしく願い上げます。
 大変申上げにくいのですが、何卒私の死がいをあのおはかへ埋めて頂けるようお骨折を願いとうございます。
 取りいそぎますので乱筆にて
                             すま子
  坪内先生
   御奥様
    御許に   (河竹繁俊「逍遙・抱月・須磨子の悲劇」より)

伊原青々園あて遺書
 伊原先生 此間中はほんとにほんとにお世話様になりまして、まだ其お礼にも伺はない内またまた御面倒をお願ひ申さなければなりません 私はやはりあとを追いますあの世へ。 あとの事よろしくお願い申上げます それから只一つ はかだけを同じ処に願いとうございます。くれぐれもお願い申し上げます。二人の養女たちは相当にして親元へお返し下さいませ。
 では急ぎますから、何卒々々はかだけを一緒にして頂けますよう、幾重にもお願い申上げます。同じ処にうめて頂く事をくれぐれもお願い申上げます。
 取り急ぎ乱筆にて
                           すま子
  伊原先生            (原文の写真より)

 しかし、それはとうてい不可能である。抱月は離婚していないから、島村家の雑司ヶ谷の墓に入っている。その抱月の墓に入りたいと言ったところで、島村家の人間でもない須磨子が、どうして島村家の墓に入れよう。
 不可能である。それでも、それだけを願って須磨子は死んでいった。
 妻と離婚し、須磨子と結婚するという内容の、抱月と須磨子の署名した証文が三通残っている。が、それは果たされることのない証文だった。抱月はついに離婚せず、ついに結婚できなかった須磨子は、抱月の後を追って死のうと決心しながら、一緒の墓で眠れない不安に苦しんでいた。その不安が三通もの、同じ趣旨の遺書を書かせたのである。すがってはいけない坪内逍遙にまですがって。
 本当にわがままだったのは須磨子なのだろうか。

 須磨子の葬儀の日、弔辞が次々に読まれたが、川柳(坂井)久良岐は、弔辞のかわりに、川柳、二句を読み上げた。
 恋人と緑の朝の土となり
 雑司ヶ谷ここにも比翼塚が出来
 「緑の朝」は、抱月が亡くなった日、須磨子が舞台稽古をしていた劇である。川柳久良岐は、須磨子は抱月と同じ墓に眠れると信じていたのだろう。
 島村抱月の墓は、豊島区、雑司ヶ谷墓地にある。
 須磨子は、故郷松代町清野の小林家の墓所に眠っている。
 牛込弁天町の多門院不動にも分骨され、やや離れて、小形の自然石の「芸術比翼塚」がある。裏に「抱月須磨子二霊位のために大正八年二月十二日川柳社中の有志がこれを建てた」とある。
 一緒に葬られることのなかった二人のための心尽くしの比翼塚だった。

                         終わり
                            2004.6.14

信濃教育会、島村抱月を招く

 抱月の信濃は大正元年。須磨子の初めての故郷公演より二年早い。信濃教育会が、八月の夏季講習会の講師に招いてくれたのだ。
 信濃教育会は、毎年、六月に二日間の総集会を、八月には一週間余にわたる夏季講習会を開催してきていた。機関誌「信濃教育」も、明治十九年の設立と同時に毎月発行していたし、会員どうしの研修会も、常集会という名称で毎月開いてきていた。そして、年に一度、総集会と夏季講習会を、東京や京都などから、その道の専門家を招いて蘊蓄を傾けてもらい、最先端の知識や技能に堪能する機会を設け、旺盛な知識欲を満たしてきていた。
 教育県信州というイメージは、ひとつは、こうした毎月、毎年の蓄積を支える熱心から生まれ出た言葉だったのではないだろうか。
 夏期講習会、どれほどの日程が普通なのか、私には見当がつきかねるが、信濃教育会が夏期講習会をはじめたころは、二十日を越える講習日が設定されていた。単に知見を広めるといった程度をはるかに超えている。
 これだけの日程でおこなわれるものといえば、大学の集中講義が一番近いのではなかろうか。何単位も修得可能なほどの日数を費やしてでも知見を深めたいという熱意でなくてなんであろう。
 その暑い夏の日、講習に集まってきた受講生の名簿の中に、安曇野の井口喜源治の名を見つけた。明治二十六年の夏期講習である。荻原碌山や清沢冽を育てた喜源治。相馬黒光の夫・愛蔵の盟友で、研成義塾の塾長、臼井吉見の『安曇野』の大事な登場人物の喜源治が、明治二十六年、夏期講習に参加していたのかと思うことは、遠い歴史が一挙に近くなるようなうれしさだった。
 島崎藤村の『破戒』のモデルの一人だといわれる大江磯吉の名も見える。夏期講習会ではないが下水内部会で、演説者の一人として名前が出ている。もちろん、これらの記録は「信濃教育」のページをくるうちに発見できる喜びなのだが。
 夏目漱石も、明治四十四年、総集会のほうに招かれていた。島村抱月はその翌年。明治が大正と変わったばかりの夏期講習会で、この年は文芸と経済の二学科が設定され、経済学の天野為之が一緒だった。
 開催日は、「信濃教育」309号(明治四十五年の七月)の広告によれば、八月一日から七日までの七日間。が、実際は五日からに延期されている。「信濃教育会主催の経済・文芸・教育講習会は五日午前八時より長野師範学校付属小学校内に開催する事に決定したるをもって講習員は同時刻までに同所に参集すべし」(大正元年8月4日 長野新聞)
 明治天皇崩御による突然の延期だったのだろう。
 講演内容は天野の方は分からない。抱月の方は「信濃教育」(312、313,314号)に講演要旨がのった。そのお陰で、演題が「欧州文芸思潮史」だったこともわかれば、ヘレニズムとヘブライズムから始まり、ナチュラリズムを突き抜けて象徴主義にいたる、ヨーロッパの文芸思潮の歴史的変遷を論じる内容だったことも、たどることができる。イギリスのオックスフォード大学や、ドイツのベルリン大学で心理学、美学、美術、英文学などを学んだ帰朝者抱月にふさわしい演題であった。

長野新聞のインタビューは「劇壇の天才松井須磨子」について

 抱月はこの時、長野新聞のインタビューも受けていた。八月十日、十一日に掲載されたが、内容は、信濃教育会主催の夏季講習会のことではなかった。松代出身の女優須磨子について、指導者として意見を求められたのだ。
 先ず質問されたのは、松井須磨子の「素養」ということだった。
 「こちらではずいぶん問題になったそうですが、私どもが知って以来は別段に非難すべき点がないと思います」と前置きした上で、文芸協会の演劇研究所の入試や授業の模様を詳述し、須磨子の「素養」が女優として立派なものであることを力説している。
 「入学試験の学力試験は婦人の方は女学校卒業程度で、理科とか数学とかについてはいたしませんが、読書力、文章、また入学してからは外国の戯曲を研究せねばなりませんゆえ、外国語の素養が必要でありますから、外国語について試験を致し、その他は口頭で将来女優として適任か否かを試みるので、須磨子さんもそれを通過したのであります上に、卒業後約二カ年の修行を経ているのでありますから、入学以前の学歴のことはいかがで御座いますか存じませんが、只今では女優として普通立派な素養のある婦人であると思います。研究所では二カ年授業を致すので、イブセンとかその他外国の戯曲を研究、セリフ、こなし、踊りの練習、また日本の演劇文芸の歴史、西洋の演劇文芸の歴史等を研究して、実際上の舞台に立つのでありますゆえ、女優としては一通りの知識を受けた訳であります」
 つぎの質問は「性格」。抱月は女優としての資質を高く買っていた。
 「須磨子さんは女優として誠に適当な性格を持っている人で、頭脳は鋭敏で、戯曲についてちょっと説明しましても、直ちに飲み込み得るだけの力をもって居ります。また表情に巧妙で、少しの感じでも巧みに外面に発表し得るのであります。その上、この人には十分の声量があって、男性的の声色を使用し得るのであります。」
 舞台の演じた役の成否を質問されて、抱月は、今までの「ハムレット」のオフェリア、「人形の家」のノラ、「故郷」のマグダのうちでは、マグダがもっとも成功している。が、未来のために、女性を主人公とした現代劇の数種類の違った役に挑戦させてみたいと言い、具体的にイブセンの「ヘッダ・ガブラー」、「海の夫人」、マーテルリンクの「モンナ・ワンナ」を挙げている。ただ、今度公演するバーナード・ショー原作「二十世紀」は女性が主人公ではないために、須磨子の技量を見るのには向かないとも言う。監督も松居松葉が担当し、抱月は監督から外れることが、夏期講習会に来た八月には、もう既定の事実だったのだ。須磨子中心の劇でないことが、抱月にはいささか不満だったのであろうか。
 もう一つの質問は女優の生活。他の劇団の女優は華美な生活をしているが、文芸協会の女優は「ごく地味で、学生風で、普通の婦人と見さかいが付かないくらい」と、抱月は地味を強調。女優といえば華美に流れるという通念を否定している。
 最後の質問は須磨子の離婚。「芸術に身をゆだねるには家庭の人では、家庭の事柄で、充分骨を折って研究することができないのみならず、自然に束縛が湧いてきますから、須磨子さんは夫と熟談の上離婚して、まったく芸術に身を捧げることになったのであります」と。
 信濃教育会は、早稲田大学教授「欧州文芸思潮史」を講演す、という記事でなかったことを、残念に思ったであろうが、抱月自身は、須磨子を語れて本望だったのではないだろうか。

抱月の家庭事情

 信濃教育会の招きで上野を出発した八月四日、その同じ日に、四男夏夫が病没。抱月は前年の真弓に続いてまたも男子を失っていた。
 出発の二日前には、須磨子と会っている現場を妻に押さえられ、大騒動を引き起こし、長野出発直前に書いたきわめて長文のラブレターは、留守中、妻に発見され、激怒した妻は、書生の中山晋平に命じて、書き写させていた。
 もちろん、講演は、学者としての抱月が、理路整然とヨーロッパの文芸思潮を語り続けていたのだろう。抱月の浮気も、妻の怒りも、家庭内の紛糾も、いっさいが語られることなく過ぎていっただろう。が、信濃路は須磨子の故郷である。抱月は、旅心に恋心を重ねて、「心の影」二十八首を歌っていた。
 名も知らぬ信越線の停車場に小娘ひとり立つ雨の暮。
 河原あれて月見草咲く夕ぐれを汽車の窓より見る漂泊の人。
 上野去る数駅にして眼に涙あり何とも知らぬ今日の心よ。
 頬を打つ大粒の雨ひややかに我が魂を貫くと見し。
 旅人の秋に感じてうなだれし襟元さむし信濃路の風。
 桔梗咲き女郎花咲き百合咲いて空浅黄なる信濃高原。
 途中、何首か抜いてあるが、この信濃路旅情はそのまま、つぎのような恋歌に続いている。
 或時は二十の心或時は四十の心われ狂ほしく。
 いたづらに此世を過ごすまでもなし我が身亡びよ天地崩れよ。
 ともすればかたくななりし我心四十二にして微塵となりしか。
 以下、同様の恋歌は省略するが、信濃教育会の講師に招かれた抱月は、じつは、心に、このような嵐を抱えて、「欧州文芸思潮史」を連日語り続けていたのだった。そして、長野新聞のインタビューにも、微塵も、こうした「心の影」は語られずにいたのだ。