開基
釈浄貞 行年九十三歳 文応元年(1260年)没
俗名 水口形部少補 浄貞
父 木曾義仲 母 巴
粟津の戦(この時17歳、義仲31歳)に敗れ、後 各地を流浪。
承元四年(1210年) 越後にいた親鸞聖人の弟子となる。
後、稲田へ同行、その後信濃へ帰り、金山の麓 波羅蜜寺に入り、寺号を義仲院水口山称名寺と変え、そこに住す。
聖人との別れの当たり、祖師聖人39歳の御木造一躰、聖徳太子御守り阿弥陀如来金仏(一寸参分)一躰、十字名号御真筆並びに源空聖人六字名号を親鸞上人より拝領
真宗初期
二代 釋秀行 行年五十七歳 弘安五年(1282年)没
三代 釋行西 行年六十五歳 元徳二年(1330年)没
俗名 源 治
妻 塩崎の康楽寺(浄賀法眼のいた寺)の娘
覚如上人の弟子
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三代目が、稱名寺のいわれについて書いたものが残っており、東洋美術史の金原省吾先生が、家に来られた折これを鑑定し、「文章の中身については何とも言えないが、紙は南北朝の物である」と言われた。
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覚如上人より行西の法名、聖徳太子木造一躰ならびに、弟子の宝善坊(永仁3年(1295年)宝善寺を建立し、当寺寺内として現在に至る)をいただき帰郷する。
四代 釋浄順 行年七十三歳 康安元年(1361年)没
五代 釋浄祐
娘が塩崎の康楽寺へ嫁ぐ
六代 釋善西
真宗興隆期
七代 釋真了 行年九十歳 永西二年(1505年)没
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文明8年(1478年) 蓮如上人より六字名号ならびに親鸞聖人真筆の添え書きをいただく。
八代 釋浄圓 行年六十九歳 弘治元年(1555年)没
これより戦国時代
九代 釋浄菴 行年八十歳 天正十五年(1587年)没
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永禄五年(1562年)川中島の合戦にて、上杉謙信のために、金山の地が残らず焼き払われ、この時、花瓶、輪塔、打ち鐘等、いろいろの物を井戸に埋め石蓋をして逃げる
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葦原の地(長野市大豆島?)へ移り、六間半の本堂並びに庫裏、二間半の宝善寺を建てる。
(天正五年 二男 釋浄覚 戸狩村(飯山市戸狩)に水口稱名寺を建立)
十代 釋浄専 行年七十七歳 元和九年(1623年)没
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天正八年(1580年)石山寺の合戦に兵糧十八俵を持って、北信地方の真宗寺院と共に参戦する
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天正十二年(1584年)その功績により、祖師聖人左上の御影を拝領する。
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慶長九年(1604年)大久保岩見守様順廻の際、当寺を宿とし公儀より三石 二反三畝三歩の土地をいただく。
江戸時代(平和な時代)
十一代 釋浄印 行年八十九歳 寛文二年(1662年)没
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元和六年(1620年)現在の地に七間半八間の本堂再建
世話人中島村(須坂市中島)綿田氏八兵衛、大工同村万五郎
総御門徒より集まったお金六十九両三分
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寛永八年(1631年)宣如上人様より阿弥陀如来の木造御本尊様拝領
十二代 釋秀順 行年七十三歳 寛文十三年
十三代 釋浄心 行年九十九歳 元禄五年
十四代 釋浄鋪 行年六十二歳 寛保三年
十五代 釋良道 行年五十九歳 明和四年
十六代 釋秀道 行年八十五歳 天保十二年
十七代 釋秀圭 行年五十歳 天保十四年
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本堂再建(現在の本堂)九間半、天保三年(1832年)11月棟上げ。
(この改築は当寺の檀家70余軒の総力が注がれ、「この事で皆さん財産を使い果たし、しばらく立ち上がれなかった」と。言い伝えられています。)
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天保9年(1838年)庫裏焼失
十八代 釋秀貞 行年四十一歳 文久三年
近代
十九代 釋秀専 行年八十四歳 昭和六年
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長男浄専 明治三十八年二十七歳没 金沢四高より京大医学部へ進学 暁烏敏との親交有り、暁烏のこの時期の日記に「木曾くんへ・・・」は全て浄専宛である。
二十代 釋文英
二一代 釋秀豊 行年八十歳 平成十八年
二二代 釋秀英 現在