「方言」の灯よ いつまでも
1 下伊那方言研究史、そして今
 『長野県下伊那郡方言調査書』(1903)という報告書がある。郡役所の指示を受けた信濃教育会下伊那部会が方言調査委員会を組織し刊行したもので、下伊那の方言が体系的にまとめられた最初のものである。この内容の一部を小林義暁が、雑誌「風俗畫報」に「信州南部の方言」(1905〜10)と題して7回にわたり連載し「飯田弁」を世の中へ紹介した。
 その後、下伊那の方言を全国に発信したのは、井上福實だった。井上は、雑誌「信濃教育」、「方言」、「旅と伝説」、「山村」へしばしば論考を投稿し、中でも「信濃教育」545号に投稿した「下伊那に於ける青大将の方言」(1932)は、時の民俗学の大御所である柳田國男の目にとまり、井上はその後柳田に師事することとなる。そのことは、『信州下伊那郡方言集(私家版)』(1936)の刊行につながっていくのであるが、「方言」誌7巻8号に投稿した「下伊那郡方言調査書語彙抄」(1937)を最後に井上の発信は途絶える。 戦後、下伊那の方言研究は、向山雅重、守屋新助らが「信濃教育」へ論考を投稿するなど細々と行われてきた。そのような状況下、下伊那教育会は、守屋らを調査委員にし、教育会組織をフル活用し、『下伊那郡方言集(中間報告)』 (1953)をまとめた。この方言集は、過去の『長野県下伊那郡方言調査書』、『信州下伊那郡方言集』に比し、登載語彙の数においては、群を抜いており、のちに在京飯田高校同窓会高12・22回実行委員会がまとめる『飯田・下伊那の方言』(1997)の底本となった。
 東條操の『全国方言辞典』(1951)、『標準語引分類方言辞典』(1954)、小学館『日本国語大辞典』(1972〜76)、『日本方言大辞典』(1989)には、下伊那の方言も数多く収められているが、その出典のほとんどが、前述の『長野県下伊那郡方言調査書』、『信州下伊那郡方言集』、『下伊那郡方言集(中間報告)』であり、今日でもこの三書が下伊那方言研究の中心となっている。
 戦後、相次いで刊行された町村誌(史)にも方言は、掲載された。しかし、多くは語彙の収録にとどまっていた。
 語彙を収録し、注釈等を加えたのは、馬瀬良雄と福沢武一であった。馬瀬は、民俗学と方言学の共同研究の必要性を「民俗方言地理学の提唱とその実践」(1975)で提起し、馬瀬が執筆を担当した『南信州上村遠山谷の民俗』(1977)、『南信州天龍村大河内の民俗』(1973)で、言語地理学的な観点での研究の方向を示した。一方の福沢は、言語学的な観点から下伊那方言を見つめた。福沢は、「信濃」、「伊那路」、「伊那」へ幾多の論考を寄せ、それらの論考や『上伊那方言ずくなし』(1980上巻、1983下巻)、『しなの方言考』(1982上巻、1983下巻)など自身の著書の中で、語源の解明を追求していった。
 現在、方言研究を志す者は皆無に等しい。筆者をはじめとする方言語彙の収集を行う者は、多少存在するものの、馬瀬や福沢が示した言語地理学や言語学の観点に立った研究を行っている者がいないというのが実際である。
 そんな中、稲垣成夫が中心となって『飯伊方言−中国語対訳集』(2001)をまとめた。下伊那における5例目の方言集である。従来、方言集というと、そのほとんどがその地方の語彙を集め、共通語の解釈を加えるという形態であったが、そこへさらに外国語による解釈を加えるという全国的にも例をみない方言集で徐々に注目を集めつつある。稲垣は、『対訳集』刊行以後も定期的に集まって、方言研究をすすめていくという。筆者は、こうした草の根的な方言研究の広がりを願わずにはいられない。草の根的な広がりの中でこそ、馬瀬のいう言語地理学的な分布、福沢がいう語源の解明につながっていくと思うからである。
 
2 「方言」・「共通語」・「標準語」
 「方言」に対して、「標準語」という語が存在する。飯田・下伊那の「方言書」、町村誌(史)の記述、各種研究論考にもしばしば登場する語である。筆者は、かねがねこの語の用い方について、疑問を覚えてきた。「標準語」ではなく、「共通語」ではないのかと。
 見坊豪紀『国語学辞典』(1955)によると、「共通語」とは、「一国のどこででも、共通に意思を交換することのできる言語」とされ、国語学界として定着した定義だと考えられている。一方、標準語について、同辞典は、「共通語を洗練し、一定の基準で統制した、理想的な言語」と定義する。
 『標準語と方言』(1977文化庁)に収録された柴田武の論考によると、1949年以前には、共通語と標準語をこのように区別して使う習慣はなかったという。1949年以前には、標準語という用語しかなく、その定義は、神保格『標準語研究』(1941)による「東京の山の手の教養ある人々の言語」とされていたという。これに対して、石黒魯平は、著書『標準語』(1950)で標準語とは、「東京語を土台にして、能率的に、合理的に、情味的に、知性的に、倫理的に、それを高いものにして使おうと日本民族各員が追求する理想的言語体系」とし、神保と意見が対峙していたという。
 これら対峙する定義は別として、標準語ということばの裏には、ことばによって国家の統一をはかるという時の政府の意思が存在していた。すなわち1902年に政府によって作られた国語調査委員会の調査方針のひとつに掲げられた「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」であり、冒頭に紹介した『長野県下伊那郡方言調査書』もこの視点から調査が行われたに違いない。
 そこで、「方言」とは何かを改めて問うてみたい。共通語が「一国のどこででも、共通に意思を交換することのできる言語」とするならば、方言は、地域に制約された言語であり、ある地域にしか通じない言語ということになる。一方で、1902年の国語調査委員会の調査方針、「ある地域にしか通じない言語(方言)を調査して標準語を選定する」ということは、国家がことばを作るということであり、標準語は、人工的なことばととらえることができる。先に引用した神保と石黒の「標準語」の解釈からすれば、神保のいう標準語は「方言」であり、石黒の定義は人工的なことば、つまりまさに「標準語」をさしている。
 しかしながら、筆者が抱く疑問は、国語学界の「標準語」、「共通語」という解釈に関係なく、「標準」、「共通」という語感が与えるイメージからくるものである。そもそも、ことばはすべて人工的なものであり、標準語と呼ばれるものも共通語と呼ばれるものも、そして方言と呼ばれるものも人工的なものである。(もっとも先に引用した石黒の定義は、時の為政者が言語を統制するための国家的な人工化であり、方言や共通語が同じ人工的なものであってもその成立過程に違いがあること、根本的には統制のための言語である標準語とそうでない共通語と方言の違いを認めた上での「人工化」という使い分けであることを承知ねがいたい。)
 そんな意識の中で思うことは、方言こそ、その言語が使われる地域の中ではもっともポピュラーな言語、すなわち「標準語」(いくぶん、矛盾を感ずる方もあるかと思うが、ここでいう「標準」には統制的な意味合いは存在しない。)なのではないのか、そうだとするなら、方言集などでしばしば用いる解釈部分は、共通語というべきではないのかという語感からくるこだわりである。
 具体的には、筆者は、方言調査で話者と向かい合ったとき、話者には決して方言調査であることを伝えていない。つまり、話者が語ろうとする多くの言語は、まぎれもない方言であって、その中から方言語彙を収集することは十分に可能だということである。もし、そこで、方言調査と大見得でも切ってしまったら、話者は構えてしまい、無理をしてでも「共通語」で語ろうとする。そのため、筆者は、調査に出向いたときは、あえて方言調査とはいわずに昔話をふだんの話し方で語ってもらうことにしている。話者にとって、ふだんのことばこそ、彼らにとっての「標準語」なのである。国語的な定義にこだわる必要はないのである。
 
3 「方言」は文化
 福沢は、「伊那」へ投稿した「方言はふるさと」(1991〜94)の中で、「方言は理知と情念の産物である。方言は父祖たちの心の所在である。換言すれば方言は私たちのふるさとなのだ。」と、14回にわたる連載を締めくくっている。筆者は、だからこそ、方言は、その地方が生み出した文化であると考えたい。もし、そうでなかったら、方言がこうも人を郷愁にそそらせることはないと思うからである。
 松山義雄『山国のわらべうた』(1972)に下伊那の子どもたちが遊んだ後、あるいは夕方など友だちと別れるときの記述がある。「あばや、しばや、がんのんや」と呼び合い、うたいあいして、ふりかえりふりかえり、家へ帰っていく姿には、そこはかとないペーソスが流れると松山は記述する。「しばや」はやがて「ちばや」となり、新野では、「ちばや」は「ちょこよ」となり、「がんのんや」は「また来なよ」に変わっていったという。「がんのんや」は、松山によれば、「願文」(がんもん)の訛ったものというが、神仏に願をかけてでもまたあした遊ぼうという当時の子どもたちの願いが十分すぎるほどにじみ出ている別れの挨拶が「あばや、しばや、がんのんや」であった。それがいつの間にか飯田では、「あばや、ちばや、またあした」と変わってきたということは、「しばや」、「がんのんや」の意味がわからなくなってきたために身近なわかりやすいことばに置き換えられていったということであり、ことばが生き物であることを感じずにはいられない。方言は、その地域の文化であり、そして生き物なのである。
 
4 「方言集」の役割
 「方言集」は、ある地域特有の言語語彙を収集し、それに共通語による注釈を加えた形が一般的である。先に紹介した稲垣らが試みた『飯伊方言−中国語対訳集』は、そんな「方言集」の概念を覆す取り組みであった。
 方言は、その風土が生み出した言語であり、その地方で生きる人々が生活の中から生み出した知恵の結晶である。それゆえにその地域特有の感覚から生まれたものが多く、共通語では言い表すことができない難しさがある。飯田弁では、「ミヤマシー」などはその代表格である。私たちは、「ミヤマシー」という感覚は持ち得ているが、それを共通語でどう言うのかと問われれば、おそらく多くの人たちはこの答を出すことはできまい。その困難をあえて承知の上で、方言を外国語に訳すというのが稲垣らの取り組みであった。筆者が知り得る範囲において、地方の言語−方言を外国語に訳した例は、おそらく稲垣らの取り組みが最初であろう。
 「方言集」の果たす役割は、単に日本国内へ地方の言語を発信することのみにとどまらなくなってきたということである。ちなみに本書は、限定出版で、出版数に達したのち再版する計画はないため、関心のある方は、早めに稲垣あて(携帯電話090-4460-6612、自宅電話&FAX0265-26-6412)問い合わせを願いたい。
 
5 消えゆく運命の「方言」
 方言は消えゆく運命にあると言っても過言ではない。筆者が試みた『信州下伊那郡方言集』に所収された方言語彙に関する調査(1996)では、1960年代以降に生まれた人たちが知り得た方言語彙は、所収方言の約3分の1以下であった。1960年といえば、ローマオリンピックの年であり、多くの家庭へテレビが持ち込まれた頃である。テレビというメディアを通して、ことばの共通化がはじまったと考えられる。
 そして、今、日本語が正しく使われていないという指摘がなされ、日本語が喪失の危機にあるとも言われる時代となった。無理もあるまい。日本語の原点というべき方言が消えようとしているのである。この方言の「灯」は、いつまで、煌めいているのだろうか。筆者は、永遠にと願い続けていたい。しかしながら、その適当な処方は、見つけられずにいる。(文中敬称略)
    
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