坂本龍馬(1835〜1867) 「私と竜馬」はここをクリック

   
【高知坂本龍馬記念館蔵】



龍馬は天保6年11月15日、土佐高知城下本丁筋一丁目に、
 
郷士坂本長兵衛(後の八平)の次男として生まれた。
 名前の由来はいろいろある。乙女姉がつけたとかいう説もあるが はっきりしない。
 子供の頃の龍馬についても様々な説がある。ただはっきりしているのは、
 ちぢれっ毛で鼻水たれ、泣き虫でよばあったれ(お漏らし?)で学問は
 からきしダメ。武士の必携剣術にしても、城下の日根野弁治道場に通い
 叩かれては泣いて帰ってくるという有様。
 親もこの出来の悪い息子の将来について非常に頭を痛めていたという。

 どういう心境の変化なのだろうか。
 そんな龍馬も10代前半より剣術の腕がめきめき上がり、あっという
 間に日根野道場で彼に敵う者がいなくなった。
目録までもらったようである。
 高知で剣術修行しているだけではもったいないと
周りから勧められ 江戸に出ることを決意。
 江戸京橋桶町の北辰一刀流・千葉定吉道場に入門した。
 高知では一番の龍馬も所詮田舎剣術士。最初は千葉定吉の息子、
重太郎の足下にも及ばなかったという。まあ、何年後には逆に重太郎の
方が龍馬に敵わなくなってくるが・・・。

龍馬が江戸に出たこの年1853年は、
龍馬にとって、いや日本にとって変革の年となった。
龍馬が剣術修行にはげんでいた頃、江戸に近づく黒い船団があった。
ペリー提督率いる 米海軍の軍艦4隻である。
6月3日、浦賀に現れた船団は「黒船」と呼ばれた。江戸の町は戦が始まるかの如く
大騒ぎ。江戸に藩邸をおく諸大名には海岸警防の命令がくだった。
剣術修行中の龍馬も一応は土佐藩士。江戸湾品川の警防の任に着いた
もちろん龍馬も黒船を見たであろう。彼の生き方はここから始まったと言ってもいい。
ペリーはとりあえず去った。日米通商という宿題を残して。

翌年ペリーが再来日するまでの幕府のお粗末さは、諸藩の失笑を買った。
様々な意見・非難が幕府に出され、水戸斉昭や島津斉彬などの熱狂的な攘夷思想者も
現れた。幕府は彦根の伊井直弼を大老に置き、朝廷の勅許を受けず独断でアメリカと
通商条約を結び、日本各地の港を開港することを約束してしまった。また、前記の水戸斉昭
などを強制的に隠居させ、幕府の政策に反する意見や書物を発行した公家、各藩士などを
捕らえ罰した。いわゆる「安政の大獄」である。有名な長州の吉田松陰も斬首となった。

この幕府の横暴に対し、諸藩の攘夷思想家たちの恨みは井伊直弼1人に集中した。
1860年3月。水戸藩士と薩摩藩士により登城途中の井伊直弼が暗殺された。
「桜田門外の変」と呼ばれている。

この頃龍馬は江戸での剣術修行を終わらせ土佐に帰っていた。
井伊直弼暗殺を桂浜で他の郷士と聞いたという。
武市半平太を中心とする土佐勤王党がここに結成された。
入党者100人以上。龍馬は9番目に血判署名している。
でも龍馬は本心で入党したのか。武市をサポートするためではないたろうか。
この勤王党の中には、後に龍馬と活躍する室戸の中岡慎太郎がいる。

勤王党結成後しばらくして龍馬は脱藩した。
理由はこれもいろいろな説がある。
武市のやり方について行けなかったなどである。
ただ、龍馬は高知という故郷を捨て自分の未来に向かったのである。

龍馬の脱藩の直後、武市は高知で最初の暗殺を計画した。
参政吉田東洋暗殺である。
那須・大石・安岡3名の郷士が決行、首を刎ねた。
一説には人斬り以蔵こと岡田以蔵が加わったというが
そのような物証はなにも無いようである。
吉田東洋がいなくなり、土佐藩政治は武市の思うままになっていく。

 龍馬は江戸にいた。もちろん千葉道場である。
 この時龍馬は勝海舟を訪問。
 斬りに行ったのだが、勝の世界観に感激しその場で勝の弟子となった。
 一緒に斬りに行ったはずの千葉重太郎も何故か入門。
 幕府の海軍操練所にも出入り可能となる。(下写真・勝海舟)


 このころの京は江戸に代わって政治の表舞台だった。
 幕府と、長州を中心とする尊皇攘夷思想との間で、様々な駆け引きが
 続いていた。武市率いる土佐藩も長州寄りであった。
安政の大獄の仕返しであろうか、幕府寄りの意見を持つ者は
攘夷浪士に暗殺された。「天誅」というらしい。この暗殺の影には
いつも武市がいた。彼はもはや暗殺集団のボスでしかない。

こんな武市に龍馬は京に行っても近づかなかった。
彼にも倒幕の考えはあるのである。しかし武市とは違う。
龍馬は後で言う「富国強兵」による攘夷を考えていた。
もしこれを勤王党同志に話せば龍馬でも彼らに暗殺されるだろう。
だから龍馬は誰にも話さなかった。

1863年。会津藩と薩摩藩による宮中クーデターが起こった。
8.18の政変である。長州藩を始め、長州寄りだった三条実美ら7人が
都より落ちていった。7卿落ちともいう。
これと同時に土佐藩でも、隠居状態であった前藩主山内容堂が
土佐勤王党の弾圧を開始。武市を含め多数捕縛された。
土佐勤王党は壊滅。武市は後日切腹となった。

龍馬は勝について東奔西走中。
土佐勤王党と一線を引いていたので弾圧からは免れた。しかし
勝のおかげで許されていた脱藩も、今回の件で再び脱藩してしまった。

1864年、池田屋事件。
浪士が会合を開いていた池田屋に近藤勇率いる新撰組が討ち入り
多数捕縛した事件である。捕縛というより虐殺だろう。

(上写真 新撰組 土方歳三と近藤勇)
斬殺された中には、龍馬と同じ土佐出身で、龍馬が塾頭を勤める
「神戸海軍塾」の塾生、望月亀弥太や北添詰馬他6名がいた。
この事件に怒った長州藩は兵を挙げ、大挙京に押し掛けた。
7月18日未明。長州軍は一気に御所に向けて進軍を開始し、あちこちで
戦闘が始まった。しかし幕軍の戦力に押され壊走する。
長州軍のなかにも土佐藩士や神戸海軍塾の塾生がいた。
これが原因で神戸海軍塾は閉鎖され勝は蟄居・謹慎処分となる。
塾生は訪追。脱藩者の龍馬には行く場所がなかった。

勝が前もって話をしてくれていたため、龍馬らは薩摩藩邸に入ることが
できた。龍馬はここで西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀らに
私設海軍を作るための融資話を持ちかけ、これが成功する。
薩摩藩より船を一隻借り受け、まず海運業を始める。本拠地は長崎。
「海援隊」の始まりである。

この頃、ひょんなことから長州、薩摩に同盟を結ばせることを思いつく。
そして同じ土佐浪士、中岡慎太郎と土方楠左右衛門と行動を開始する。
一度は西郷の弱気から流れたが、慶応2年、京都薩摩藩邸において
「薩長同盟」が成立する。
気分良く伏見寺田屋に帰った龍馬だったが、油断していたのか
幕吏に囲まれ、悪戦苦闘しつつも長府藩士三吉慎蔵とともに脱出。薩摩伏見藩邸に
かくまわれた。親指に怪我をした龍馬を薩摩は、龍馬の後の妻となるおりょう共々
薩摩に招待した。龍馬はおりょうと結婚。霧島や塩浸温泉にて日本初の新婚旅行。

こうしている間も幕府は長州藩堺まで軍を進めていた。
しかし長州は薩摩や海援隊の支援を受け、当時としては最新の武器を装備していた。
このころの幕軍は士気も低く、その装備は刀槍に火縄銃という戦国時代そのもの。
欧米の最新式元込銃や新式砲を装備する長州とは戦う前から勝敗はわかっていた。
そしてキズの癒えた龍馬率いる海援隊が長州海軍と連携し海より援護するという万全な体制。
戦いは長州の圧倒的な勝利で終わった。
長州軍は奇兵隊という武士以外の階級からなる市民軍がほとんどだった。
一般民衆が武士に勝利したのである。封建社会が音を立てて崩れていくようだ。

戦後龍馬は海援隊をもっとしっかりした物にすべく走り回った。
そのひとつが宿敵といえる土佐藩家老・後藤象二郎との会見だった。
勤王派を全て粛正してしまった土佐藩にとって、長州の勝利は驚愕に値する。
土佐藩内には他藩と交渉できるような、そう武市のような勤王家はいないのである。
そのため、龍馬や中岡慎太郎に近づいてきたのである。調子がいい。
しかし龍馬は土佐藩を拒まなかった。むしろ積極的に藩を利用しようとした。

虎の子のワイルウエフ号を沈没させてしまった龍馬は
代わりに大洲藩から借りたいろは丸で大阪に向かっていた。
しかし紀州藩御用船明光丸と衝突。いろは丸は沈没した。
龍馬は大藩紀州を相手に海難裁判を開始、万国公法を手に戦った。暗殺されそうにも
なったが、土佐藩が仲介に立ち、ほぼ龍馬側の勝利となった。

薩摩・長州が武力で幕府を倒そうとしていることを察した龍馬は、戦に頼らない方法を
模索していた。そして後藤象二郎に「大政奉還」を提言する。
土佐藩と龍馬が京都を走り回り、幕府側、反幕府側の両方を説得した。
海援隊士のイギリス海兵殺傷疑惑などで回り道をしたが、1867年10月。
時の将軍・徳川慶喜は大政奉還を宣言した。
これによって武力倒幕を計画していた薩長は、龍馬を恨んだという。

ともかく、政権を返上された朝廷は困惑した。
何百年も行政などしていないからである。
龍馬もそんなことは百も承知である。早速新政権の準備を始めた。
その一つが船中八策である。後の5箇条のご誓文や
日本国憲法にも通ずるというものである。
また、新政権人事についても提案した。その中には慶喜の名前もあったという。

上記人事案や政策案を持って薩摩藩邸を訪ねた龍馬。
お供は陸奥陽之助。後の外務大臣である。
西郷、大久保、小松はその人事案を見て首を傾げた。土佐藩からは後藤1人しか
名がないのである。一番の功労者である龍馬の名前などどこにもないのである。
「坂本さぁ、お前さぁの名がないようでごわすが、これはどぎゃんこつでしょう?」と
西郷。「わしか?そうさなぁ・・・世界の海援隊でもやりましょうか」と龍馬。西郷らは
ボカンとしていたという。横にいた陸奥はこの時の状況を「坂本に比べ、西郷達が
ひとまわりもふたまわりも小さく見えた。」と回想している。

歴史を変えた龍馬だが、彼にもついに最後が来た。
大政奉還が成った1867年。
龍馬は京の近江屋にいた。刺客に狙われる恐れがあるということで
土佐や薩摩、長州から藩邸に移るよう言われたが龍馬の性分上それはせず
近江屋の土蔵の2階に居候していた。
折からの寒さで風邪をひいた龍馬は、暖かい近江屋の母屋2階に移った。
夜、同志中岡慎太郎と話し込んでいた龍馬は、階段付近でどすんという音を聞き
従者の藤吉が暴れていると思い「ほたえなっ!」と言った。実はこの時、刺客が
すでに近江屋に乱入しており、音は藤吉が斬り倒されたものだった。
龍馬の声で、刺客は自分のターゲットの居場所を確定し、一気になだれこんだ。
龍馬は刀を取る間もなく斬られ、やっと刀を取ったが鞘を払うことも出来ずに
相手の太刀を受け、そのまま前頭部を斬られた。これが致命傷だった。
中岡も短刀で抵抗したが、これもなますのように斬られまくった。
間もなく刺客は引き上げた。中岡が気が付くと、龍馬は自分の顔を刀に
映していたという。そして中岡の方を向き、今まで見たこともないような笑顔でこう言ったという。
「中岡、わしは脳をやられた。もうだめだ・・・。」
そう言うとその場で崩れ落ちたそうだ。
龍馬の最後はその後3日間生きた中岡によって語られた。
龍馬暗殺。11月15日。龍馬32歳の誕生日だった。

土佐郷士について

土佐藩には厳しい階級制度があった。
龍馬が属している郷士とは、関ヶ原以前に四国一円を制覇していた
長宗我部氏の一族(家臣含)の末裔である。
対して上士というものがある。これは関ヶ原のあと、
遠州掛川より土佐に移ってきた山内氏の一族・家臣の末裔である。
長宗我部氏は西軍につき、山内氏はご存じの通り家康側についた。
西軍が負けたため長宗我部はお取りつぶし、領地は没収となった。
そしてそこへ山内が入ってきたのである。
いわゆる占領軍である。当初は反乱が起きたそうだが、
山内氏による過酷な弾圧により次第におとなしくなったそうだ。
郷士は日傘、白足袋、高下駄は禁止。上士が通るときは何をしていても土下座する。
上士が気に入らなければ斬り捨ててもいいという。これにより何人もの郷士が
気に入らないからと上士に斬られたらしい。
郷士と上士の対立は他藩では理解できないほどのものだったという。
実話かどうかはわからないが、コミック「お〜い竜馬」では、そのあたりが
克明に描かれている。


私と龍馬
私と龍馬の出会いとは?
実はあるペンションで読んだ、コミック「お〜い、竜馬」だったのです。
そこには残念ながら3巻までしかなく、いつかは全部読みたいと思ってました。
それから何年か経って、本屋で再び目にしたとき、そこにおいてあった
全ての「お〜い、竜馬」を買ってしまったのです。この頃もまだ連載中で
新しい巻が出る度に買いそろえました。
幕末ものというのは、他の時代、戦国時代などに比べると
なかなか取っつきづらいといいます。私も実はその1人でした。

しかし龍馬に出会い、どんどん引き込まれていったのです。
龍馬の生地、高知県にも行きました。
温暖な気候で人々も明るく、こういう風土の中から龍馬の様な人物が
現れたというのも何かわかるような気がしました。
龍馬と言えば桂浜。今は周りに建造物がありますが
龍馬の生きた時代には静かで月の名所として素晴らしい所
だったのでしょう。
彼の生き方を真似しようとは思いません。まず無理です。
あの時代だから出来た彼の生き方です。
でも、100年以上経った今でも彼の生き方を素晴らしい
という方は沢山います。
自由奔放、何もわかっていないようで物の本筋は理解している。
自分が興味を持った事は、何が何でも拾得しようとする。
薩長同盟、大政奉還。
こんな事考えつくのは普通じゃないです。人と同じ視点では
絶対に考えつかないことです。
まだまだ彼については知りたいことばかりです。


 
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