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近藤勇、土方歳三、沖田総司の後に“新撰組”の顔となる3人は
武州多摩の田舎道場の剣術士でしかなかった。
とは言っても、彼らの流派である天然理心流は、江戸3大道場の
北辰一刀流らとは違い、あくまでも真剣による実戦を前提とした
激しいものであったという。
 
近藤勇。1834年生まれ。宮川久次郎の3男として生まれ
後に天然理心流3代目、近藤周助の養子となる。
現存している肖像画では、えらの張った壮漢な顔つきをしている。
(上写真左)
土方歳三。1835年生まれ。丁稚奉公に出たりしたが
長続きせず(女性問題が多かったようだ)家業の薬の行商を
手伝っていた。24歳のときに天然理心流に入門したらしい。
現存している写真は函館で撮影した物だという。(上写真右)
沖田総司。1842年生まれ。彼は他の2人と違い、奥羽白川脱藩と
なっている。彼だけが肖像が残っておらず、世間では紅顔の美少年と
言っているが本当のところはわからない。ただ、やたら明るくて
近藤、土方を信頼しきっていたという。しかし出稽古先での
評判は悪かった。教え方が非常に厳しかったらしい。
多摩時代の彼らには様々な逸話がある。土方、沖田の他流派との
決闘などである。いずれも勝ったらしい。土方の戦上手はこの頃に
培われたという。
近藤の道場は小石川にあった。試衛館といった。
けっして楽な経営状態ではなかったらしい。
このため、土方を筆頭に道場の有段者が多摩方面に出稽古に
行った。上記の決闘はこれに絡む縄張り争いに近いものだったのだろう。
経営が苦しいところに江戸ではコレラ・はしかが爆発的に発生した。
当時コレラは「ころり」と呼ばれ、決して助からない病気のひとつだった。
病死者が次々と出、日本橋では、日に百以上の棺桶が渡ったという。
試衛館はそのコレラ発生のど真ん中。剣術修行に来る者など皆無だった。
毎日無の時間を過ごしていた彼らだった。
ある日、道場仲間の山南敬助が幕府による浪士隊結成の情報をつかんでくる。
江戸の名だたる道場には声が掛かったようであるが、ここ試衛館には
何もなかった。北辰一刀流の山南がいなかったらこの情報は彼らに
伝わることはなかったろうし、後に京都中を震撼させた必殺剣術集団
“新撰組”も誕生することはなかったであろう。彼らの歴史舞台の
スタートであった。
この幕府浪士隊の責任者は山岡鉄舟。しかし裏には過激攘夷家の
清川八郎がいた。彼にはある考えがあったのだが、この時点では
だれもそれには気が付いていない。
試衛館をただんでこの浪士隊に参加した近藤らは一路京都へ向かった。
途中、後に共に新撰組を起こす水戸の芹沢鴨による嫌がらせを
受けたりしたが無事京都に到着した。
京に到着した彼らを待っていたのは、清川八郎の驚くべき言葉だった。
「我々がこれからなす事は将軍警護ではない。尊皇攘夷を掲げ
朝廷の兵として働くのだ。」
このまま江戸に引き返し横浜の外国人を焼き討ちするというのだ。
将軍家茂を護衛し、ゆくゆくは本物の武士になりたいと考えていた
近藤たちには寝耳に水な話である。
威圧的な清川の言いぐさに、近藤の試衛館派と水戸の芹沢一派ら
13名が席を立ち、幕府の為に働くため京都に残った。
ちなみに清川はこの後様々な攘夷事件に関わっていくが、最後は
後に坂本龍馬を暗殺したと言われる幕臣、佐々木只三郎により
麻布で殺害された。

さて、京都に残った近藤らは会津「守護職お預かり」となり
京都市中警護の任に就いた。
この頃は京都の壬生(みぶ)と言うところに屯所を置いていたため
「壬生浪(みぶろ)」と呼ばれていた。まだ隊服が決まっておらず
着の身着のままであったため気味悪がられていたようだ。
ただ、沖田だけは根っからの明るい性格のせいか
近所の子供にとても人気があったらしい。
隊士は新たに募集した者を含めて100人に達した。
そして隊服も今では有名になった袖が山切り模様の例の羽織となった。
しかし問題が起きた。
水戸派の頭目で浪士組局長の芹沢鴨らの乱行が日に日に
ひどくなっていったのだ。
商人大和屋庄兵衛宅に大砲を撃ち込んだ事件は、監督藩である
会津にも不信感を抱かせ、もう1人の局長である近藤に
内々で処分するようとの命が下った。
まず芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、その後酒に酔って妾と
寝込んでいた芹沢、平山五郎、平間重助が近藤、土方、沖田ら
暗殺グループに襲われ、芹沢、平山は斬殺、平間は逃亡した。
この粛正により、浪士組は完全に近藤一派の思うがままになり
文久3年の政変の際の取り締まりの功績と相まって
会津より完全市中取り締まりを命ぜられた。
また、この頃より正式に新撰組を名乗るようになった。
新撰組局長は大御番頭取扱い、副長は大御番組頭扱い、
平隊士は大御番組並。立派な幕臣である。
このころ俗に言う勤王浪士と言われる脱藩浪士や長州藩士らが
ある計画を建てていた。
京都に火を放ち、その混乱に乗じて天皇を担ぎ出し、会津藩主などを
暗殺するという計画だ。
新撰組はその情報を探知していたのだろうか?
ただ、以前より商人升屋喜右衛門が何か臭いとにらんでいたようで
まず彼を捕縛、家宅捜査を行った。
結果武器弾薬が発見され、升屋に対する追求は一段と厳しくなった。
調べていくうちに彼の本名は近江出身の勤王家「古高俊太郎」と判明した。
しかしそれ以上のことはなかなか白状しない。
業を煮やした土方は最も残酷な方法で古高を責めた。
土蔵の天井から逆さ吊りにし、足の甲から今で言う五寸釘を打ち抜き
その先に火のついた百目蝋燭を立てたのである。
さすがの古高も、溶けた熱い蝋が傷口にしみこむ苦痛には耐えきれず
ついに計画を吐いた。
計画は判明した。
しかし古高は、その計画は知っていたが、近々行われる参加浪士の
集会の場所までは知らなかった。
新撰組の密偵である山崎蒸の働きにより、池田屋か四国屋ではないか
というところまで掴んだ。
祇園祭りの日。
番屋に集合した近藤ら新撰組は、どちらが本会場なのか判断しかねていた。
また、今夜の捕縛に参加すると言っていた会津、桑名藩兵が時間になっても
到着しないのだ。近藤は悩んだ。
土方の「局長、やりましょう!新撰組の名を天下に知らしめる絶好の
機会じゃないですか!」と言う言葉で新撰組単独襲撃を決意。
池田屋は近藤、沖田、藤堂平助、長倉新八、近藤周平が担当。
四国屋は土方が率いた残りの隊士が担当することになった。
もし、お互いの行った先が違った場合はすぐにもう一報へ急行する。

池田屋では確かに浪士達が集まっていた。
名だたる攘夷家ばかりである。
長州の吉田稔麿。肥後の宮部鼎蔵。土佐の北添佶磨、望月亀弥太ら。
多数の浪士の集会に少人数で斬り込む。並の心臓ではない。
池田屋の主人を殴り倒した後、階段を一気に駆け上がった近藤は
部屋より出てきた北添を袈裟斬りにして倒す。
後は近藤、長倉、藤堂が室内で斬りまくった。斬らなければ斬られる。
そういう状況だったろう。
沖田総司は持病の結核が発病。室内での闘争には参加せず
裏口の固めに回った。
近藤は鬼と化した。宮部鼎蔵は腕を斬り落とされ頭を割られ即死。
吉田稔麿はこの地獄を何とか飛び出し、長州藩邸まで駆けた。そして
援軍を要請した後再び池田屋に戻り、戻ったところを沖田に斬られた。
四国屋に行った土方らはすぐに池田屋に急行。到着したときは
近藤らの気合いの入った声が外まで聞こえたという。
何人かの隊士を中に加勢に行かせ、土方自身は入り口で仁王立ち。
会津、桑名藩兵が到着し、うまい汁を吸おうとしているのだ。
土方はそれらを一歩も中に入れなかった。
新撰組の独断場としたのだ。
池田屋騒動は終わった。
浪士側は死亡16名、捕縛20数名。
対する新撰組は、即死3名、重傷者2名という圧倒的な戦果だった。
(この数字は様々な説がある)
これにより新撰組の名は京都だけではなく日本中に響いた。
そしてこの名は勤王浪士の恨みの対象ともなった。
長州藩は池田屋事件に憤慨し、兵を挙げて京都に攻め込んできた。
蛤御門の変である。
新撰組にも出動がかかったが大した戦闘はなかったようである。
この前後、土方は隊則を決めている。鉄の掟と言われるものである。
・士道に背くまじきこと
・局を脱するを許さず
・勝手に金策致すべからず
・勝手に訴訟取り扱うべからず
・私の闘争を許さず
・右に相背く候者は切腹申付べく候也
この局中法度により切腹となった隊士は多い。
試衛館以来の同志(土方はけっしてそうは思っていなかったようだが)
山南敬助も脱走の罪で切腹になっている。
彼を逮捕し、切腹の際の介錯をしたのは、山南と仲が良かった
沖田だった。
伊藤甲子太郎と言う人物が新撰組に入隊している。
芹沢と同じ水戸学派で北辰一刀流である。
この頃の近藤は政治と言う物に目覚めたようである。
伊藤を「先生」と呼び、用事を見つけては部屋を訪ねていたようである。
土方の武闘派とは明らかに違う。土方はいらだった。
このままでは彼の理想とする“新撰組”からかけ離れていく。
いつしか隊内は分裂し、伊藤らは新撰組を脱退。
天皇を護る「御陵衛士」として高台寺に屯所を置いた。高台寺党とも
言われるのはそのためである。
伊藤ら水戸派の他には北辰一刀流で新撰組の方針に疑問を感じていた
藤堂平助も加わっていた。そして斉藤一も同行した。しかし彼は近藤の
スパイであったことが後に判明している。
徳川慶喜、大政奉還。
坂本龍馬暗殺。
斉藤一の探索らより倒幕派藩とつながっていると疑われた伊藤はついに殺された。
近藤から接待を受けた帰り、油小路で待ち伏せ似合い、首を槍で突き刺され死亡した。
近藤はここで残酷な罠を仕掛ける。
伊藤の死体をそのまま小路に置き捨て、高台寺党が遺体を取りに来たところを
襲うというものである。
高台寺党はまんまと罠に引っ掛かった。少人数の彼らは待ち伏せの新撰組多数と戦ったが藤堂平助ら2人が死亡した。
再び新撰組は近藤らのものになった。
しかし時代は急速に動き出していた。
坂本龍馬の斡旋により同盟を結んだ薩摩、長州がちゃくちゃくと倒幕戦争の準備を進めていた。
この頃、不穏な動きをしている薩摩に対する牽制として新撰組は伏見奉行所に
入っていた。
薩摩藩の伏見担当部隊は、伏見奉行所を見下ろす御香宮神社境内に陣を張った。
砲撃戦になった場合、伏見奉行所は完全に相手の照準内に入るという不利な
態勢だった。
伏見奉行所での指揮は土方が執っていた。
近藤はここに移ってからしばらくして、外出先から帰ってくるところを
高台寺党の残党の待ち伏せに会い、肩を狙撃され動けない体になっていた。
また、沖田も結核がひどくなり、これも大阪で療養中であった。
薩摩、長州の挑発に乗ってしまった幕府軍は、大阪城を発して京都に向かった。
鳥羽で薩摩一隊と遭遇、薩摩側が放った砲弾が鳥羽伏見の戦いの始まりだった。
伏見奉行所にいた土方にもこの轟音が聞こえ、すぐさま戦闘に入った。同じく
伏見奉行所に入っていた会津軍と共同で御香宮神社に向け攻め込む。
しかし敵は高台から次々と砲弾の雨を降らせ、奉行所はあっという間に
火に包まれた。
また、土方ら突撃隊も、薩摩の最新鋭の小銃には全く歯が立たず、次々と倒されていった。
突撃と退却を繰り返し、新撰組隊士はここでも鬼のように戦ったが
所詮刀と銃では勝負にならない。隊士も次々と死んでいく。
そのうち幕府軍が総崩れとなり、新撰組も大阪に引き上げ、幕府御用船富士山丸で海路江戸に戻った。艦上では、池田屋事件で活躍した山崎蒸の葬儀が行われたという。
土方は言った。
「もう、剣や槍で戦争をする時代は終わったのかもしれない・・・」
江戸についた新撰組を待っていたのは、甲府城を攻め落とし確保する任務だった。
なぜか軍資金や武器が大量に与えられた。
一説には勝海舟が新政府軍が江戸に入ってきた時のために、新撰組を江戸から追い出すという企みがあったという。
近藤は大久保大和という変名を使い、新撰組ら部隊を率いて甲州街道を進軍した。
しかし時間が掛かりすぎた。勝沼に到着したときにはもう既に甲府城は、土佐の
板垣退助率いる官軍部隊に押さえられてしまっていた。
戦闘になったが、にわか作りの部隊のため戦闘前に兵が脱走してしまい、近藤らは戦争をする間もなく壊走した。
その後千葉流山に再度陣を張った近藤たちだが、近藤はここで官軍に投降することを決意する。土方は止めたが近藤は聞かなかった。
官軍に投降した近藤は、新撰組局長という正体がばれ、ろくに裁判もされず
板橋にて斬首となった。普通武士であれば切腹なのだが、近藤にはそれすら
許されなかった。新政府側の新撰組に対する恨みは深い。
同じ時期、江戸で療養していた沖田総司も、幻覚の黒猫を斬ろうとして
息絶えた。近藤が斬首されたことも知らずに・・・。
ひとり残った土方は、幕軍部隊と合流し宇都宮城を攻める。
この時、逃げる幕軍兵士を斬り殺し、彼はそのことを後々まで後悔していたという。
鬼の副長土方も、何かが変わり始めていた。
宇都宮攻城戦で足を負傷した土方は、会津城下に移り療養していた。
しかし時は彼を休ませてはくれなかった。
宇都宮城が再び官軍の手に落ち、会津と山ひとつ隔てた白河城も官軍に
攻められている。落城も時間の問題だった。
また、北陸側では、家老の河合継之助が率いる長岡藩が官軍を相手に善戦していたが
(北越戦争という)河合の負傷で一気に崩れ敗退した。
会津は四方八方から官軍に攻められることになった。

怪我を押して土方は新撰組隊士と幕府兵を率いて母成峠に布陣した。
始めは何度も官軍を撃退したが、物量に勝る官軍の攻撃についに退却を決意。
官軍は会津城下になだれ込み、会津藩は鶴賀城に籠城し抵抗したが支えきれず
降伏した。白虎隊の悲劇もこの会津戦争のときである。
会津を離れた土方は幕府部隊とともに仙台へ。
しかし仙台藩は新政府に恭順が決まり、幕府軍の立ち退きを要請してきた。
土方らは、品川沖より脱走してきた、榎本武揚率いる幕府艦隊とともに
函館へ向かった。榎本は蝦夷に幕臣らによる共和国を作るつもりだった。
蝦夷に上陸した幕府軍は、新政府に恭順していた松前藩の諸部隊を
次々と撃破し、函館五稜郭を占領。蝦夷に共和国新政府を樹立した。
榎本政権での土方の役職は陸軍奉行並だった。陸軍奉行は幕臣大鳥圭介だ。
彼とは宇都宮から共に戦ってきたが、あまり仲が良くなかったようである。
土方は函館より、松前藩の本拠地、松前城と江差方面への進軍を始める。
松前城を苦労の末落城させ江差に進軍したが、ここで共和国のシンボルである
軍艦“開陽丸”が夜間の嵐のため座礁。その後沈没した。
海軍育ちで、開陽丸をオランダで建造のときから見守ってきた榎本の落胆は尋常ではなかった。
春になり、新政府軍も着々と函館攻撃の準備を進めていた。
陸軍部隊は青森に集結し、海軍軍艦も太平洋側を北上していた。
旗艦開陽丸を失った共和国側は、新政府軍がアメリカより買い入れた、
艦全体を鉄板で覆った「甲鉄」(アメリカ名、ストーンウォールジャクソン号)
を奪う計画をたてた。
石炭消費量等を計算すると品川沖を出た新政府艦隊は、宮古湾で停泊するはずという結果が出た。
共和国は甲賀源吾を艦隊司令として艦3隻を与え、土方を指揮官とする新撰組と幕府陸軍兵の部隊を乗せた。
宮古湾に到着する前に2隻が行方不明になり、土方らが乗っている“回天”一隻で急襲をかけることになった。
計算通り新政府海軍は宮古湾にいた。どの船も機関の火を消している状態である。
米国国旗を掲げて(カモフラージュ?)入ってきた回天をみても、誰も動こうとしなかった。
(一説には、後に日露戦争でバルチック艦隊を敗った連合艦隊司令長官・東郷平八郎がこの新政府艦隊におり、異様な雰囲気で入ってきた回天に気が付いていたという。)
甲鉄に近づき、旗を日の丸に変えたのを見て初めて敵襲と知った。
回天は甲鉄に船体を付けた。が甲鉄の甲板より回天の甲板の方が遙かに高いのである。飛び降りるのに躊躇している間に甲鉄乗員は戦闘態勢を整え反撃してきた。
土方も甲鉄に降りて戦っていたが、聞き慣れぬ銃声に振り返った。ガトリング砲という今で言う機関銃が彼らに向かって火を噴いたのである。
急襲側は次々と射殺され、回天甲板にいた甲賀も額を打ち抜かれて即死した。
土方は撤退を決意。回天は宮古湾を離れた。
世界戦史でも珍しいアボルタージュ作戦は失敗に終わったのである。
函館に次々と新政府軍が上陸を開始した。土方は江差方面より進軍してくる
新政府軍をくい止めるため、中山峠で戦っていた。
函館戦争で勝ち続けていたのは、中山峠を守っていた土方部隊だけである。
土方部隊は昼夜銃を撃ち続け、真っ赤に焼けた銃身を水に漬け、再び撃ち続けたそうである。
五稜郭が危ないという連絡を受けた土方は、勝っている戦場を捨て函館に向かった。
函館の周りの海は既に新政府海軍の軍艦がひしめいており、そこから市中に向けて艦砲射撃が行われていた。
五稜郭にも砲弾が届くようになり、榎本は降伏を決意しつつあった。
しかし、土方は部下をつれて、敵兵のひしめく函館一本木に向かった。
新政府軍兵士に止められ名を聞かれた土方は
「新撰組副長、土方歳三。参る」
と言い、馬を進めたと言う。が土方の体は馬から地面に崩れ落ちた。
敵兵の一斉射撃を受けたのである。
新撰組3人の最後の1人は、ここ函館で死んだ。
1869年5月であった。
この後、函館政府は降伏し、新政府と旧幕府との戦争である戊辰戦争は
幕を閉じたのである。
私と新撰組
私が新撰組を知ったのは、小学生のころだったと思います。
新春隠芸大会という正月番組でのことです。
全体的にバラエティ調の番組だったんだすが
その年は確か「池田屋の変」を題材にしたシリアスなものでした。
当時をわかせていた若手芸能人が新撰組や勤王の志士に扮して
池田屋事件を再現してたのですが、これがまたかなりの迫力があり
眼が放せないほど夢中になっていました。
この時はただただ新撰組の恐ろしさだけが印象に残りました。
その後何年か経ち、ちょっと調べてみようかなと思ったのは、
お恥ずかしながらこれもコミック「お〜い竜馬」なのです。
新撰組って昔から嫌われ者約でした。鞍馬天狗でも
敵役だったし、幕末ものというと勤王が正義で佐幕が悪でした。
でも「お〜い竜馬」ではそうじゃなかったんですね。
必殺剣術集団ではあるのだけど、どこか憎めないキャラクターでした。
坂本龍馬とは京の町で会ったのでしょうか。司馬先生の「龍馬がゆく」では
ちらりと出会った事になっています。
新撰組への取っかかりには、司馬先生の「燃えよ剣」もありました。
北海道ツーリングのフェリーの中での時間つぶしに買って行った文庫本でしたが、
面白くて室蘭港に到着する間での17時間で全部読んでしまいました。
そのせいなのかどうか、函館の町にも何回か行きました。
五稜郭、土方が死んだと言われる一本木付近。中山峠、江差の開陽丸。
結局3人の中で土方が好きなんだろうと思います。。
その後幕末史、特に戊辰戦争に興味がわき、調べてみるとほとんどの戦場に
土方がいるんです。
彼の一生は戦いの日々だったんですね。
武州多摩。私は育ちが埼玉県飯能市でしたので、何か親しみがあります。
今一番知りたいのは、唯一肖像画や写真のない沖田総司の素顔です。
彼の予想肖像はあります。彼の姉の顔写真をもとに作った物だそうですが
これが「え?」というひどいもの。本当にあんな顔だったのか・・・。
ツーリングを兼ねて今度は「宮古湾」に行きたいと思ってます。現地の
役場に聞いたら、石碑しかないとのこと。それでも行ってみたいですね。
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