河中志摩夫の『新釈 眞田十勇士』ライナーノート1

「最初に…」

 最初にお断りしておきたいのは『新釈 眞田十勇士』はフィクションである、ということです。何を今更と言われるかもしれませんが、こういう作品には「あれは違う」とかいう意見を寄せられることもあります。中にはこちらが見落としていたり勘違いしていたりすることを指摘されるような場合もありますが、「それは本作ではそういう設定だから」としか答えられないようなものが多いのが事実です。そこで、あくまでフィクションはフィクションであって、歴史上の学説を発表しているわけではない、ということを改めて最初に明言しておきたいのです。

 そうは言っても『新釈 眞田十勇士』が『新釈』と銘打ったのは、「眞田十勇士」という架空でしかないキャラクターを描くに当たって、時代背景や歴史的事実は極力史実に沿って、その中で彼らを活躍させることで「時代を描く」と言うのを主眼にしたいと考えたのも事実です。言い換えれば、もともとの立川文庫では時代考証的に荒唐無稽で、歴史ものに多少なりとも知識がある人が見たら「噴飯もの」と感じるような「設定」になっているのを、リアルな歴史背景を踏まえたうえでの「設定」に置き換えて、現代に通用する「眞田十勇士」を再構成してみたい、それが『新釈』の『新釈』たる所以、ということです。そこで資料調べはかなり力を入れたつもりです。

 ただ、そこで勘違いして頂きたくないのはあくまで「踏まえたうえ」での「設定」であって、それが事実だと言っているわけではない、ということです。もともと「眞田十勇士」の存在自体がフィクションなのだから言わずもがなのことだとは思うのですが、どうもそれを勘違いをして「史実と違う」というような指摘が来るように思われるのです。
 そこで今回「ライナーノート」という形にして、どうしてそういう「設定」にしたのか、を説明しておけば、いちいちそれに応えなくても良いのではないか、そう考えた次第でもあります。

 また、他でも書いたのですが実は「史実」というのが結構くせ者で、調べれば調べるほど戦国時代の「史実」など、何もわかっていないと言ってもいいのではないか、とさえ思えてきます。中国などでは王朝交代がされると前王朝の「決算書」のような形でそこまでの歴史が公式の「史書」として書き留められています。これでさえ王朝の交代を正当化するために事実は歪められている場合が多いと考えるべきでしょう。日本は王朝交代がなかったこともあってか、正式な「史書」が残っていません。

 では、戦国時代に何があったかを知る手がかりはと言えば、個人の日記や書簡、知行の宛がい状などの古文書、或いは江戸時代になってから個人の記憶や聞き伝えたことをまとめたものなどでしかないという場合が殆どです。織田信長に関する太田牛一の『信長公記』、徳川家康に関する板坂卜齋の『板坂卜齋覚書』など、同時代の観察者が残した記録が一級史料として残っている方が珍しい訳です。しかもそういうものでさえ観察者の立場や主観が入り、100%信用できるとは言い切れません。新しい史料の発見で、それまでの定説がひっくり返る事もままあります、

 そういうことを踏まえて史料や資料を調べだすと、結構矛盾したものが出て来るわけです。例えば本作の主人公の一人である眞田幸村ですが、幸村と言う名前自体史料には出てきません。確認できる正式な諱は「信繁」で(………他に「信仍」とか「信賀」とか記した書状があるとか言いますが、それは「崩し字」の誤読だという説もあり)、「幸村」という名は江戸時代に流布した名前でその出所は確認できません。また、その生年も1567年説と1570年説があります。そうした時に研究者なら根拠を重視して「何が正しいのか」を突き詰めていくのでしょうが、フィクションを作る立場としては、この作品を作る上で「どれを選ぶか」、或いは他の理由で「勝手に決めるか」になってくる訳です。それを「違う」とか論ずるのはナンセンスな話でしょう。

 学術論文ではないですから、通説も尊重します。そもそも『眞田十勇士』が通説の極みの様な存在ですから当たり前の話です。だから「幸村」とも名乗らせる訳ですが、一応そこに本来は「信繁」なのだが、「幸村」と名乗るに至った経緯と言うものを「設定」するわけです。学説を尊重する部分と、通説を優先させる部分は恣意的ですが、それこそがフィクションならではというところで、テーマや描きたいことを実現させる為に取捨選択していく自由だと思っています。

 いずれにせよ、「設定」を作っていく経緯を辿るという意味でのライナーノートです。作品の中では説明されない部分を補足・解説する意味合いで参考にしていただければと思います。

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