河中志摩夫の『新釈 眞田十勇士』ライナーノート6

「幸村の妻子」

 幸村の妻子の設定について触れておきます。

  日本史の授業で習ったと思いますが、この時代、女性の名前は殆ど伝えられていません。大名や公家のクラスの子女でも、せいぜい誰々の女(むすめ)とか、法名や戒名、通称などが伝わっていれば良い方です。その素性なども後世になって家系に箔を付ける為に誰々の娘だったとでっち上げたり、婚姻の際の政略上の都合から身分の高い人の養女として嫁いで来たりと、実際がどういう出自であったかなどは不明なことが多いのです。
  例えば今年のNHK大河の主役である山内一豊の妻にしても、確実なのは一豊の死後に落飾して「見性院」と号したことぐらいで、名前もドラマでは「千代」説ですが、「まつ」説もあります。しかし前に「利家とまつ」で前田利家の妻「まつ」を取り上げている関係などから、今度は「まつ」説の出る幕はないのでしょう。また、同作では秀吉の妻は「ねね」としています。これは原作が書かれた頃は「ねね」が定説だったからですが、最近では「ね」またはそれを丁寧に言って「おね」が定説になっていて、近年の大河では「おね」とすることが一般的でした。日本の最高権力者になった人の妻でさえこの程度ですから、一般庶民はおろか、大名クラスでも妻子の名前などが伝わっていることは殆どないと言っていいくらいです。

  前置きが長くなりましたが、そうした中で、「真田幸村」の妻子に関しては例外的に研究が進んでいます。これも「幸村」の人気の故でしょう。兄の信之は10万石の大名として存続したにも拘らず、その娘の名は不明(長女が高力忠房室、次女が佐久間盛次室=見樹院、三女/四女は名前も事跡も不明)なのと対照的です。 しかし、研究が進んでいるといっても、そういう時代のことですから推定や仮説に頼る部分が多く、結局定説はないのです。いくつかの説から、推定や比定を積み重ね、最終的に『新釈眞田十勇士』ではこういう設定にした、ということでご理解下さい。
        
  まず、幸村の正室ですが、史料的には「大谷氏」で、法名が「竹林院」であったというのは定説ですが、それ以上は史料的に裏付けるものはありません。出自は大谷刑部少輔吉継(吉隆)の娘ということになっていますが、実子ではなく養子で、吉継の妹の子であるという説もあります。名前を「安岐(あぎ)」としたのは「日本史諸家系図人名事典」(講談社)に拠りました。他に「利世」という説もあります。
  年齢はわかりませんが、没年は1649年とわかっていますので、仮にその時69歳とすると1600年当時は20歳となります。吉継の享年は41歳なので、21歳の時の子となります。当時は10代で子を為すのも普通ですから二人の兄(大谷大学吉胤、木下山城守頼継)がいるとしても、三人が年子で19歳の時から順に生まれたとしても年齢的には矛盾しません。逆に言うと安岐姫はこれ以上年齢が上とは考えにくいのです。武門の子弟では15歳ぐらいで妻を娶ることもありますが、吉継は13歳で秀吉に小姓として出仕したといいますし、24歳の時に賤ヶ岳の合戦で武功を上げ、26歳で任官しています。その婚姻がそれほど早いとは考えにくいので、この辺がギリギリの線ではないかと思うのです。安岐姫が養子で妹の子であったとしても、その妹は当然吉継より年少ですし、当時は14〜5歳で子供を産む事もあるとしても、やはりこれより上とは考えにくいのです。幸村=信繁との婚姻が1594年(左衛門佐任官の年)頃とする説が有力なので、当時信繁が27歳とすると14歳となり、当時の適齢期といえます。
  一方二人の年齢差は20歳近いのではないかとする説もあります。それだと婚姻の時は7〜8歳の童女ということになり、九度山蟄居の時でようやく14〜5歳―――確かにこれだと安岐姫の産んだ子が九度山時代からに限られることの説明にはなりますし、死亡時の年齢も63歳ぐらいになります。この説を採らなかった理由は簡単で、これだと(現代の我々の感覚からすると、ですが)幸村がロリコン男に見えてしまうからに他なりません。
 そんな訳で、『新釈 眞田十勇士』では幸村の正室は「安岐」で大谷刑部の実子、年齢は1600年時点で20歳―――と、設定しました。九度山時代まで子供が生まれなかったのは、彼女が人質として大坂に住み、信繁は大坂より上田にいることが多かったから、ということです。

 次に幸村=信繁の側室とその子女です。
 信繁の長女の名は以前は「阿菊」として知られていました。上田の真田祭りの武者行列では未だにそう表記されています。しかし昨今の研究で「すへ」(読みは「すえ」)が正しいのではないかという説が有力です。この長女は生まれてすぐに養女として引き取られたといいます。引き取ったのは堀田作兵衛興重という眞田家臣で、すへの生母の兄に当たるといいます。ちょっとややこしいのは堀田家では代々「作兵衛」を名乗っていたということで、興重の父も「堀田作兵衛」です。つまりすへの生母は「堀田作兵衛女」としか伝わっていないのですが、家臣の娘でもあり、これは信繁が若い頃に「手を付けた」ということだろうと推測できます。それで生まれた娘は伯父が引き取った、ということでしょう。時期は信繁が大坂に出仕する前と考えられますので、二人の関係は「遠距離」による自然消滅か、「身分違い」ということで遠ざけられたかかと推測します。この堀田作兵衛女にはもう一人夭逝した女子があったという説もありますが、はっきりしませんので本作では長女「すへ」のみとしました。

  幸村の次女・於市、三女・阿梅の生母とされるのが側室・高梨内記女です。本作では「采女」とする説を採りました。(これも諸説あって「采女」はその母の名だとか、高梨采女は幸村に仕えた家臣の名だという説もあるのですが)
  もちろん正式な記録は何もないですが、大坂と上田を行き来する信繁の「上田妻」であり、若い正室より年上の側室と考えました。於市が九度山で早世したのは定説ですが、采女のことは不明です。ただ、その後の子供たちの母として名前が出てきません。また、阿梅に関しては正室・竹林院の子とする説もあります。そこで於市と采女が流行り病で同時に亡くなり、残された阿梅は竹林院が「わが子」として育てた為に二説が流布した―――という設定にしました。
  実はこれには本ネタがあります。以前、うちの仏壇の位牌を調べていた時のことですが、私の曽祖父の位牌には当人の戒名の左右に「〜〜信女」の名が並んでいました。調べると曽祖父の長女と孫(その長女)の戒名で、没年を見ると大正七年十一月五日と同月十一日と非常に接近した日にちが記されていました。気になって更に調べると、それは「スペイン風邪」の大流行の時期と一致します。昨今の「鳥インフルエンザ」の件で取り上げられることも多いのでご存知の方も多いでしょうが、新型インフルエンザの登場によって世界で3000万人が亡くなったと言う大流行の時です。親子や兄弟が罹って一家が全滅することさえあったようです。治療法のない昔なら、一度に家族から複数の死者が出ることも珍しくはなかったのを実感させられたものです。それが頭にあったので、於市の夭逝の際に采女も亡くなったのではないか―――そういう設定になりました。
  当時は当然インフルエンザがウィルスによるものだとか理解されていませんが、「インフルエンザ」という言葉自体は16世紀のイタリアで作られたらしいですから、流行病として当時から存在が認識されていたとしてもおかしくはないです。
  
  話を戻しますが、幸村の長男・大助と四女・あぐりは竹林院=安岐姫が生母とするのが一般的ですが、これも異説はあります。また二人が生まれた時期や順番はハッキリしません。本作では大助が九度山蟄居後の1601年に生まれ、あぐりはその後としました。

  問題は五女・なおです。生年は1604年ですが、生母が「豊臣秀次女」とされていることです。実はこれまであまり「問題」にされていないような気がするのですが、幸村の側室に「秀次女」がいるのはどう考えても不思議です。身分、年齢、それぞれが置かれた立場、いずれをとっても結びつく要素が見えません。虚説だと断じてしまうのも一策ですが、何とかこれを整合性のある設定にできないか―――そう考えて創り上げたのが本作の設定です。清姫(正式には「清子」)という名は、その法号が「隆清院」ですので、そこから一字取りました。(というか、実名から字を取って戒名や法号を付ける例があるので、法号に実名の手掛かりがあるのではないかと)

  昌幸の正室の「山手殿」の出自には諸説ありますが、菊亭晴季の養女とする説を採り、信繁がその子であるとするならば、一応晴季は信繁の「祖父」になります。清姫が秀次の正室・一の台(晴季の実子)の女なら、信繁と清姫は「従兄妹」ということになります。まぁ、それならばまんざら縁がないわけでもないか、ということです。
  しかし秀次は信繁より一歳年下ですから、その娘というのは文字通り親子ほどの年齢差があるはずで、結局「幸村」がロリコンではないかと疑われることは免れない設定になってしまった、ということです。

  おぉ、実は流行の「萌え」な作品だったのですね、『新釈 眞田十勇士』は。

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