河中志摩夫の『新釈 眞田十勇士』ライナーノート7

「沼田を信幸に、上田を信繁に………」
 
 豊臣政権下で安堵された眞田領………即ち眞田昌幸の支配地域は、信州の「上田領」と上州の「沼田領」にまたがっています。鳥居峠を挟んで隣り合い、現代で言えば国道144号線と145号線で結ばれた、昔から地縁・血縁が深い地域です。
  一般的な理解で言えば、眞田家の嫡男は信幸だということになっています。その意味では上記の上田領も沼田領も信幸がまとめて相続するのが当然と考えられます。その観点からすると表題の台詞は信繁の存在をクローズアップする為の著者の牽強付会と思われるかもしれませんが、この「説」には結構確信を持っています。それは沼田領の政治的位置と信繁・信幸が置かれた立場を考えてみてのことです。

 第1のポイントは上州の沼田領が「眞田領」でありながら「関東」である、ということです。

 そもそも沼田は常に係争地でした。上杉、武田、北条が奪い合い、眞田は武田の尖兵としてこの地を切り取った訳です。武田が滅亡して自立を余儀なくされた眞田家は、一旦は織田信長が遣わした滝川一益に従いますが、本能寺の変の後に滝川が退散すると、再び北条、上杉、そして武田に替わった徳川の三者に狙われるところとなりました。昌幸は一旦北条に帰順しますが、すぐに徳川に寝返りました。
  しかし羽柴秀吉との対決(小牧長久手の戦い)を控えた徳川家康は北条と和議を結び、その際の条件として上州は北条領とするということにしてしまったのです。つまり家康は勝手に沼田領を北条に譲ってしまった訳です。(ここから家康と昌幸の確執が始まります)(⇒小説版)

  結局昌幸は徳川と手切れして上杉と結び、徳川勢を上田に迎え撃つことになり(第1次上田合戦)更にこれに勝利した昌幸は上杉の頭越しに秀吉に人質として信繁を差し出して臣従します。
  その後、秀吉と家康が講和し、秀吉のとりなしで眞田は徳川の「寄騎」とされ、信幸が徳川に出仕することになりました。
 さらにその後、覇権を確立しつつあった秀吉に北条が臣従の条件としたのが沼田領の帰属問題でした。そこで秀吉の裁定ということで沼田は北条に引渡すが、沼田から眼と鼻の先の名胡桃城から西の吾妻郡は眞田のものと言うことになったのです。
  北条はこの裁定に不満で、結局名胡桃城の奪取という暴挙(名胡桃城事件)に出て、それをきっかけに秀吉に攻める口実を与えてしまい、遂には滅亡するのです。(さらに東北の大名たちも帰順し、秀吉の天下統一がなったので、名胡桃城は天下統一完成へのきっかけを作った城とも言われます)
 この事件の背景に、秀吉と昌幸の間でどこまでの共謀関係があったか不明ですが、結果として沼田領は眞田に返されることになりました。更に戦後処理として秀吉は家康を関東に移封し、同時に家康の息の掛かった信州の大名たちも関東に移し、旧徳川領である東海道筋には秀吉子飼いの武将たちを配しました。(信州の大名で本領を安堵されたのは眞田だけで、それだけでも厚遇と言えます)言い換えれば、秀吉は徳川の勢力を「関東」に封じ込めようとしたと言えます。

 さて、そこで冒頭で述べた沼田領の政治的位置です。
 
 結論から言えば、秀吉は眞田に沼田を返すと言う命題と、関東は徳川のものという命題を両立させたのだと言えます。
 北条氏の滅亡後、返還された沼田に昌幸は信幸を城主として入れ、その時点を以って信幸は分家し、城持ち大名として独立したと考えられます。
 隣接地とは言え、信濃と上野にまたがる形の眞田領をひとつの行政単位として考えるのはもともと不自然であると言えなくもありません。上州側を分離し、分家として独自に領国経営を担わせるというのは自然なことともいえます。実際、江戸時代に入ってから信之が上田から松代に移封された際、沼田領は沼田藩として独立し、信之の長男・信吉が藩主となっており、以後は正式に分家の扱いとなっています。また秀吉が亡くなった時点での「豊家諸侯」として眞田安房守昌幸三万八千石、眞田伊豆守信幸二万七千石、と別にカウントされているところを見ても、この時点で沼田領が分家されたことは間違いないと考えられます。
信幸は先に述べたような事情から家康の下へ出仕し、家康の養女(本多忠勝の娘)を娶っていて、家康から見れば「身内」となっています。(※)「関東」の一角である沼田領を信幸のものとすることで、間接的に「関東は徳川」という命題は果たせます。もちろん「眞田領」であることには変わりはなく、昌幸も納得するところでしょう。つまりは政治的「落としどころ」として、沼田領を「分家」させて徳川の傘下とし、上田領は「本家」として豊臣の直参に、そういうことではなかったかと考えるのです。
 分家ではなく、これは通常は信幸が暫定的に沼田領を継いで経験を積ませ、後に上田を含めた「眞田領」全体を継承するためステップと考えるのが一般的かもしれません。だが、そうではないと著者は考えます。重ねて言いますが、眞田信幸は徳川の身内であり、豊臣秀吉から見ると陪臣に近い感覚ではないかと思います。豊臣対徳川の視点で考えれば、将来的に上田領を信幸が継いだ場合、「徳川方」の勢力が信濃へ食い込んできてしまうことになります。秀吉がそれを許すとは思えません。むしろ秀吉の傍近くに仕えた「直臣」である信繁に上田領を継がせ、関東への防波堤と為すことを考えるでしょう。
 実際、豊臣政権下では信繁の方が重用されています。信幸は文禄二年、信繁は翌三年に任官し、共に従五位下に任じられていますから、それだけ見れば同格と見えます。嫡男と次男で同格というのはそれだけでも次男としては優遇ですが、それぞれの官職は伊豆守と左衛門佐―――実はこれに格差があります。律令制には官位相当官職というものがあって、本来は官職と官位は対応していなければなりません。左衛門佐は従五位相当官ですが、伊豆守は本来正七位相当官です。(因みに安房守は正六位相当官)本来は官位が給与に直結しているので厳密なものでしたが、戦国時代には名誉職のようになっていて必ずしも官位と官職が対応していなくなっています。しかし言わば官職の「格」に差があるのです。
 この格差は、やはり信繁が豊臣政権下での直臣であり、信幸が「陪臣」に近い立場であるということによると思われます。更に信繁は豊臣姓を下賜されており、その意味でも眞田家の本家=上田領を継いで豊臣家の藩屏となることが期待されていたのではないかと想像されるのです。豊臣家と縁の薄い信幸では、ここまでの関係は築けないでしょう。

 主君の意向で、長男を差し置いて弟が家督を継ぐことは珍しいことではありません。有名なところでは前田利家は四男でしたが、信長の側近であったことと、長兄・利久が信長に反抗した林秀貞の寄騎であったことなどから、兄とその養子(前田慶次郎)を差し置いて前田家の家督を継いでいることなどが挙げられます。
 そうは言っても、この仮説が正しいとしたら嫡男・信幸を差し置いて信繁が「本家」を継ぐ理由は何でしょうか? もちろん人質となった先がたまたま信繁が豊臣で信幸は徳川だったからというのも説明にはなります。ただ、そこで想像を逞しくすると、俗に言われている「兄が源三郎で弟が源次郎であることの謎」に行き当たるのです。信繁の方が実は兄だったのだが、妾腹だったので正室が産んだ弟・源三郎を「嫡男」とした、とする説です。通称の付け方は必ずしも順番どおりではないので、通称だけを根拠にするのは薄弱ですが、家督の問題が上記のような仮説に沿ったものであったならば、可能性としてなくはない。………と、いうことで本作でも実は………という設定にしている訳です。

※信幸の正室・小松姫に関しては家康の養女ではなく秀忠の養女だったとする説もある。。眞田家が後に箔をつけるために「家康の養女」と改竄したというのだ。「あり得る話だ」と納得しか掛かったが、よく考えると秀忠は小松姫より六歳も年下である。養子縁組は年齢差がない場合もあるが、年齢が逆転してまで親子関係を結ぶのはあまり考えられない。ここは素直に家康の養女と考えるべきだろう。歴史研究者が唱える説にも妙な勘違いや思い込みも見られるので、うっかり信用しないほうがよいという例。

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