有明美術館創立30年記念企画
セピアに込めた執着と開放 「島崎蓊助

<期間・日時>

2010910日(金)〜20101011日(月) 9001700
期間中無休

<場所>

有明美術館
399-8301 長野県安曇野市穂高有明7402-5 0263-83-3701
HP:http://w2.avis.ne.jp/~kenji/

<入館料>

大人700円 小・中学生400円
20名以上の団体割引600円 障害者手帳掲示の方と同伴者は共に500円

<展示内容>

 展示作品の中心は、島崎蓊助のハンブルグのドイツ風景と中国スケッチ。共通するのは、静謐透明な未曾有の画趣であり、画家であることの本命を絶えず心に秘し、約30年余りの彷徨をして初めて生まれたものである。 本展は、“幻の画家”と呼ばれる島崎蓊助の画才と、それを生み落とした人間の生き様を世に問うものである。


ハンブルグのドイツ風景、油彩(10数点)と、中国スケッチ、水彩(30点)を中心に、その他油彩、ドローイングなど。芸術研究の足跡となる『ノオト』などの資料の一部。






中国スケッチ 南学にて 1945年 インク、水彩、紙 馬籠・藤村記念館 蔵


< 開催にあたって>


 有明美術館はこのたび創立30年を記念し、特別企画展、セピアに込めた執着と開放「島崎蓊助展」を開催いたします。

 島崎蓊助
は1992年に83歳で没するまでほとんどその作品が公になることはなく、生前の個展は1971年に一回行われたのみの「幻の画家」です。しかし激動の時代を駆け抜けたその人生の軌跡、164冊を数えた思想・芸術研究書『ノオト』、そしてその結晶としてのセピアの油彩画をはじめとする作品は、現代を生きる私たちに非常な雄弁さをもって何かを語りかけてきます。2002年には群馬県桐生・大川美術館で、2010年2月には東京銀座・ヒロ画廊にて個展が開催され、その業績の歴史的価値が徐徐に見直されています。


 島崎蓊助は1908年に文豪・島崎藤村の三男として東京浅草新片町(現在の柳橋)生まれました。しかし母の死後、2歳で藤村のもとを離れ、長野県・木曽福島の親戚の手で育てられます。13歳で藤村のもとに戻り、兄の鶏二と共に川端画学校に通いますが、二人は対照的な道を歩むことになります。兄鶏二はフランスへ留学、その後画壇にて早くより人気作家となり華々しい活躍をしますが、弟の蓊助は戦前には前衛芸術革命のプロレタリア美術運動に傾倒、1929年にドイツに渡り、千田是也らとバウハウス周辺の芸術運動に没頭します。戦時中は中国の戦場を描き、戦後は藤村全集の編纂に没頭、その画業が公に評価されるのは全集の編纂に区切りが付く1970年を待つことになります。
 藤村全集の編纂を終えた蓊助は1970年にドイツを再訪し、セピア色の作品を約30点描き上げました。自らの画業の集大成と言えるこのセピアでの表現は、1951年から書きはじめ、生涯で実に164冊を数えた『ノオト』におけるあくなき芸術研究の到達点といえます。

 蓊助はこのセピアを「孤独の色」と呼びました。家族、社会、芸術と逃げることの出来ない大きなものに対して常に真剣に挑み続けた作家が、自らの表現を託すためにたどり着いた色です。セピア色の「光と闇」のみで描かれた画面には蓊助の芸術論、自画像と呼ぶべき精神と軌跡が集約され、厳しさの中にある優しさ、闇の中にある希望をみることが出来ます。


 本展は、1970年にドイツにて制作された油彩画『セピアのシリーズ』、戦時中に従軍画家として赴いた中国での『取材スケッチ』、そして画家としての活動が出来ない期間も継続して執筆された芸術研究書『ノオト』を合わせて展示し、ひとりの人間としての「島崎蓊助」に様々な角度から迫る特別企画展になります。激動の生を全うした蓊助のその生き様は、混迷を極める現代に生きる私たちに様々な示唆を与えてくれることでしょう。



島崎蓊助 (1979年 撮影:古川富三)

島崎助略歴


1908年  島崎藤村の三男として東京に生まれる。

1910年  長野・木曽福島の親戚に預けられる。

1921年  父・藤村の元へ戻る。翌年、兄鶏二とともに川端画学校に通い始める。

1925年  村山知義と知り合い、プロレタリア美術運動へ参加。

1929年  ドイツへ渡り、千田是也らとバウハウス周辺の芸術運動に没頭。

1944年  中国に渡り、主に戦場のスケッチを行う。

1945年  兄鶏二が戦死。湖南省にて岡本太郎と出会う。

1948年  新潮社『島崎藤村全集』(全19巻)の編集に携わる。以後、全集の編集にめどが立つ 1970年まで父・藤村の残した膨大な資料や未発表の原稿の整理に追われることとなる。この年から思想・美術研究のための「ノオト」を書き始める。

1963年  詩の同人グループ「暦程」において、「暦程賞」の創設に尽力。

1970年  ドイツに約半年滞在し、ドイツ風景の作品制作を行う。約30点の作品を完成させる。

1971年 前年のドイツの作品に手を加え、生前唯一の個展となる「島崎助個展」が東京・日本橋の柳屋画廊にて開催される。

1979年  「会田綱雄作品展」に作品を出品する。

1992年  心不全のため83歳で逝去。