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コラム 2003年8月15日
★個人としてこの状況にどう向き合うのか 前回のコラムでは、反動的な法律・法制に対して市民個人としての立場から、どのように反対・反抗 していくかということを、次回は考えてみたいと書きました。 そこで今回は、反動化へと向かいつつある政治・社会状況に対して、どのように対峙していったらい いかという、その心構えみたいなものを書いてみようと思います。 [といいつつ、このコラムの書き出しは6月16日に開始したものでした。その後、仕事の忙しさにかま け、また、幾つかの学習会参加や審議会への傍聴をはじめ、イラク特措法反対、さらに住基ネットの 学習会用に急遽『住基ネット私論』なるコラムを執筆・配布したり等々と、本日8月15日に再び書き始 めるまで、ちょうど2ヶ月の永きにわたって当コラムの執筆をさぼってしまいました。 まことに申し訳ありませんでした。 新しい内容(更新)を期待して、当ホームページにたびたびアクセスしてくれた方々には、ここに深く おわび申し上げます。 また、その『住基ネット私論』なるものは、本ホームページの[D]の章に、独立した形で掲載すること にしました。あわせてご覧ください。] 以前のコラムにも書きましたように、本質的に国旗国歌法や住基ネット、盗聴法、さらに個人情報保 護(反故)法案や有事法制、イラク特別措置法といった法律を、完全に廃止または廃棄するために は、国会での法律改正もしくは法律廃止の採決を待たなければなりません。今年中にも総選挙が実 施されると噂されていますが、それでも、こと有事法制に関しては、民主党、自由党ともに賛成という 現状においては、唯一反対を表明している社民党と日本共産党で過半数の議席を取らなくては、改 正・廃止はできません。しかしながら、社民党と日本共産党で過半数の議席を獲得するというのも、 現状では100%不可能であるといってもいいでしょう。つまり、国会での法律改正を待っていたら、お そらく永遠に駄目だということになります。 (残念ながらイラク特措法は成立し、自衛隊が海外派遣させられる道が法律によって拓かれてしま いました) そうした国政ならびに世界中で広がる右傾化・反動化の流れをおしとどめ、中立的なポジションに戻 すために必要な一番大きな要素は、あたりまえのことですが、日本のそして世界の市民一人ひとり (世論)が、現状および未来に対する危機感を敏感に感じ取り、その危機感をバネに、個人個人がそ れぞれの場所で現状に対して異議を唱え続けることにあると考えています。しかしながら実際の状況 はというと、2001年の9.11テロをきっかけに、世界が大きく右傾化していったことでもわかるよう に、また、北朝鮮による日本人拉致問題によって日本がナショナリズム化への傾斜を強めていったよ うに、内外をとおしてさらなる右傾化・反動化に進みつつあるのが実情です。 その、世界的な右傾化・反動化への引き金となった9・11同時多発テロに対しても、一部インターネ ットや書物などでは、当初から、9.11テロが実はアメリカの自作自演だった(そこでは物的証拠・状 況証拠とも完全にアメリカの自作自演を立証するものが集められていますが…)との陰謀説が根強く あります。 もともとが外交政策や戦争遂行に対して、あるいは国内政治に対して、ことあるごとに謀略国家とし ての性格(素顔)が色濃くにじみ出るとされる傾向を広く指摘されるアメリカにあっては、今回の9・11 テロを引き合いに出すまでもなく、過去における紛争や戦争においても、数多くの謀略・策略がなさ れてきたと述べている書物も数多く見うけられます。 もちろん、こうした説は、一般的な見地からすればキワモノ的見解であり、小説や作り話の域を出な いといえなくもありません。しかし、もしも9.11テロがアメリカの自作自演によるものだったとしたら、 テロ後の、そして今後の世界情勢(世界世論)が180度ひっくり返るだけに、あくまでも自作自演話が 荒唐無稽な作り話ということを前提にしながら、こうした見解があることを、頭の片隅に幾分かでも置 いておくことが必要だとも思います。 9・11の同時多発テロにしても、北朝鮮による日本人拉致問題にしても、その情報のほとんどを、新 聞やテレビといったマスメディアに、多くの国民は頼っています。その、マスメディアですが、一方的な 報道のみを、信じているだけでは、大きく道を踏み外す可能性も否定できません。特定の世論を形 成・誘導するための、いわば大本営発表的な性格の記述が、このところ各種マスメディアに強まって きていると感じているのは、私だけでしょうか。 (ワイドショーと呼ばれる報道テレビ番組などは、娯楽的な要素を取り入れながら「大衆」向けに興 味本位の番組づくりがおこなわれている度合いが強いため、ある種の国民レベルでの洗脳ともいえ る情報操作が、意識的・無意識的におこなわれていると思わせるものがあります) 私が、今回なんでこのような問題を書いたかといいますと、これほどまでに、マスメディアをはじめと した外部の情報(恣意的なプロパガンダを含む)が氾濫しつくしている状況にあっては、自らの思考を 中心に、冷静に自らの採るべき方向性を見つけ出していくのが、極めて困難であるということを自覚 せざるをえないからです。また、今日では、既成のマスメディアに加えて、インターネット等の個人的 なメディアも発言力を持つにいたってきています。マスメディアの誤謬をインターネットで正すというこ とも、日常的におこなわれてきています。 正直、こうしたマスメディアやインターネットなどをとおしてもたらせられる、見る情報・聞く情報・読む 情報、その一つ一つによって、自分自身の考えや思いを、日々反省し、またそれに伴って、従来の考 えを訂正し修正することも珍しくはありません。時には、たった一つの言葉(情報や報道)によって、本 質的な転回をしなければならないと思うときも、ままあります。 さらに、生身の身体を持つ人間として、努めて冷静に論理的に物事を考えようと試みているにもか かわらず、時として感情や慣習、あるいはトリッキーな言説や行動に流される危険性を感じることも、 私自身少なくありません。しかしなら、そうした『俗情との結託』ともいうべき安逸な物語に堕ちること を極力避けるべく、果てしなき困難さを自覚しつつも、可能な限り深いところに焦点を定めて、誠実に 思考していくことがどれほど大切であるかということを実感しているところです。 個人としてこの状況にどう向き合うのか。 あらかじめ用意された『大きな物語』に飲み込まれないために、私たち一人ひとりが、一人ひとりの レベルで、細部(ディティ−ル)を際立たせながら、決してひとつの方向には収束しない意志をもって、 無定形のサンスを強く散乱させることが大切だと、改めて考えています。 いつものことながら、いや、いつにも増して話が抽象的になってしまいました。せっかく2ヶ月ぶりの コラムなのに、頭の中も文章も韜晦さにのたうっています。 ひとつの転回というほどのことではありませんが、これからは、自分なりに論理的に考えるという方 向性を堅持しながらも、それに加えて、再び、(一度は放擲した)文学的・アート的なものを採り入れ ていこうと思っている次第です。 それは、必ずしも形而上学を丸ごと容認するというものではなく、思考の果てにそれでも存在するで あろう「沈黙せざるをえないもの」を、言葉という表象を超えて浮かび上がらせるための、ひとつの戦 略でもあるのです。
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