己の守り方

昭和63年、父が亡くなったとき、私は母の依頼で小さな子供たちを軽井沢に残し、がん末期の父の看病で病院にいた。
母は貧乏な私に一日5000円払ってくれたので我が家は助かっていたが、自分は日本語教師として働いていた。

看取ることを当然と思い病院に泊まる覚悟もあったのに、医者や看護婦に聞いても危篤と言う言葉は一度も聞かなかった。
それなのに真夜中の電話は「亡くなりました。」
信じがたい気持ちで病院に行くとベッドの下の奥の方に嘔吐物で汚れた寝間着が丸めて放り込まれていた。
何が原因でなくなったのかすぐ理解したが、病院は説明でその事に触れることもなくそれを尋ねても何の反応もなかった。

 悔しくて悔しくてたまらない思いで3ヶ月過ごしたある日、父が夢に笑顔で現れた。
「癌が9箇所もあったよ。」その笑顔が私を救い悔しい思いは消え去った。


そして今回は娘の夫であった人。家に来たその日から、挨拶もしない彼に家中で当惑していたが、
娘の選んだ人であり、同居も納得してくれた人でもあり、娘のおなかには新しい命も宿っていたこともあってそれはそれは大切に接してきた。

 結婚したときのあった借金は私が払い、その後勝手に自己破産したときの弁護士費用は、娘が保険の解約や少しずつ貯めた貯金で支払った。

常にお金がなく、何でも彼が一流のものを買うため、相談もないままレシートだけ置いてゆく彼にそのまま対応していた娘。
あるとき、家中で一番大きな包丁を横に置きへたりこんだまま、「もうすべて終わりにしたい。」と言って泣いた。

3時間もかけ医者を探し、結局知り合いのいる群馬の病院に連れて行くと
「お母さん、すぐ入院させた方がいい、子供共々消えたい、と言うことまで言っています。
」医者の指示に従い事なきを得たが後から聞くと驚くことばかり。

10年間一度も話し合ったこともなく、優しくされた記憶もない。ただ怖いだけで家族で出かけてもちっとも楽しくない。

もっと早く別れさせてれば・・と思ったのも後の祭り。
別居後、執拗なラインの連絡も彼女や子供たちへの愛情は全く感じられず、くどくどとした彼の要求ばかり。
面倒になった私はラインを見ることもなくなったがそれを見た長女が言った一言が忘れられない。「怖い!」

彼の書いた納得できない念書に判を押すことで離婚は成立したが、
その後もだらだらとラインが続き、警察や弁護士、家族の助言でラインは非表示にした。

「恐ろしいと思う人の言うことがなぜ聞けない?」ラインに残った彼の言葉は彼そのものを表している。

彼からの連絡さえなければ元気を取り戻す娘だったが、何かあると手が震え、動悸も伴っていた。
そんなとき届いたものが彼からの調停通知。

子供に会わせろ、と言うことではあったがそれならそれでもう私たち素人では相手ができない
弁護士さんに相談すると「調停委員に説教してもらわないと、この人だめですね。では、養育費請求してみましょうか?」

すべてを弁護士さんにお任せし、来週二つのことの調停がある。

今まで比較的近所に住む彼の車とすれ違いざまににらまれたりしたこともあって、
青い車を見るたびに気になって仕方がない私であった。
何をしていても彼への憎悪と悔しさが頭から離れず楽しいことを考える努力はしても気持ちは沈んでいた。


そんな時、彼が夢に現れた。お互い笑顔で話す中、遠くで下を向いて座っている子供が気になってはいたが
その夢から覚めた後、彼への憎悪とくやしさがほぼ消えていた。

父の時と同様夢で救われた私だが、どうしてそんな夢を見るのかわからない。

 もしかしたら辛いときに己を救う方法がこれなのかもしれない。

                            (2017年 7月14日)
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