浮遊



浮遊

結婚したばかりのもう40年以上も前、イスラエルのキブツで映画を見た。

その映画はアニメで、透明な球体の中に膝を抱えた状態でひとりずつ入り、
宙に浮かんだ状態で暮らしていると言うもので、
浮いた状態でプカプカと浮か日、傍を通る他の人と何らかの方法でコミュニケーションを取っている、
というようなもので、あらすじは全く覚えてはいないが、
あの光景は非常に印象深く、帰国してからも度々思い出した。

軽井沢に移住後、スポンサーが現れ思いがけず自分の店を持つようになった私は、
あまりにも多くのことが起こるため気持ちの整理のために、「む」 という小冊子を作り、
お世話になっている固定のお客様たちにお渡ししていた。
商売のことなど何もわからない私にお客様たちは色々教えてくださり、
小さな娘達にお土産を持ってきてくださる方たちも多く、
その方たちへの報告の意味もあり、10年間続ける決意を忠実に守った。

 そして、「む」を終えたあと、
色々わかってきたので今度は「ゆう」というコーナーを作りまた記録を始めた。
しばらく文章を書くことをさぼっていたが、最近になってまた書くことを勧められた私。

 年月を重ね、今はイスラエルのアニメのように、
私は透明な球体の中で膝はかかえず自由奔放な姿で球体360度の方向に小さなアンテナを立て、
様々な方から情報を得ながらマイペースで暮らしているような気がしている。

 昔から他人と比べることは何もしなかったので、常に自分の価値基準で、
まあるいお婆さんになっていくよう努力を重ねている。

もちろん、私には雑念も多く、実に生々しい人間の感情をむきだしに、
汚らしくも美しく、矛盾に満ちた生活が現実である。



     スマートフォン      


携帯電話が出た頃、すぐに飛びつくことはなかったが、友人のすすめで持つようになった。
何もわからなかったが、電話とメールだけは使えるようになったが、そのままなんの進歩もしなかった。
数年前、スマートフォンが出た頃、私は少し経済にも余裕があり、それこそスマホに飛びついた。

 ところが、まず長方形で8ミリほどの厚さのしろもの。
黒いダイヤル式の電話で育った私には、話すにも電話をかけるにも違和感があり、
電話に出たつもりが切ってしまったり、間違ってかけてしまったり散々だった。
それでも、諦めずに頑張り、ようやく慣れその後、大きなサイズのシックス・プラス、という機種に変えた。

 スマホを持つ若者たちは、スマホを完全にパソコン代わりに使いこなし羨ましい限りである。
私は画面サイズが大きいとは言え、老眼ではパソコン代わりに・・というわけには行かず、
それでもゲームやラインなども楽しめている。

 最近では話題のポケモンゴーにも手を出し、スマホの充電器も買い、気張ってはみたものの、
あのゲームは歩かないことには進歩が期待できない。
歩くことの嫌いな私には不向きで、レベルもなかなか上がらずにいる。

 今スマホ機能の2割位は使いこなせてるのかしら?
まだそこまでも行かないかな? それでも買ったことは嬉しく、
これからも新しい機能を使えるよう努力は惜しまないつもりでいる。

 フェイスブックでも友人が増え、面倒なことも多いが、
やらなければ入ってこなかった情報に楽しませてももらっている。

 姉の大賀ホールのコンサートを企画したときに、
友人からフェイスブックで宣伝することを勧められ始めたが、
宣伝効果は残念ながらまったくなかったが、そのままやめてしまうのもあまりにもずるいように思え
今もせっせと情報を得たり、流したり・・。自分でもよくやると、感心している。



そして今こんな感じ

軽井沢に来て40年。いつもいつもいろいろなことがあり、飽きる間もなく自分が混乱しないように文章にして頭の整理をしてきていたが
今年はその中でも大変なことが多かった。

 昨年鬱病になった同居の娘は、「夫に10年間優しくされた記憶がない。」 と言い私を悲しませた。
今まで私も彼には気を使いまくり、くたびれ果てていた頃、彼の異常な言葉に憤慨した私は大喧嘩。
そして彼は離婚に応じないまま家を出ていった。

 その後彼の残した雑務に追われ、元気をますます失った娘を気遣いながら毎日の平和を保とうと生活。これがまたくたびれる。

背伸びしてヘナヘナと崩れ落ち、しゃがみこんだような自分の精神状態。
それでも相変わらず明るく振る舞ってはいるがこんな時には元気すぎる人や攻撃的な人に会う気力がない。
幸いなことに子どもたちも独立し、嫌な場所に行かなければならない時期も終わった。
癒される場所を選んで出かけたい。
今までで初めての心境である。ただそのことで、そういう人の気持ちがよく分かるようになったことがせめてもの収穫。

 老人を自宅介護している人の集いが昨日あり、町で食事と温泉に連れて行ってくれた。
そこでお会いした方々は皆私と同じような心境で、皆が皆をわかり合いそれぞれに優しい。
「人に言ったってわかってもらえないよね~」どなたかが行ったその言葉に皆頷く。
同行した町の職員はてんてこ舞いでサービスをしてくれ申し訳ないほど。
初めてお話した方ばかりだったが5時間ほどの時間はあっという間に過ぎていった。
いつ会えるともわからない人たちと名残惜しい別れのあと、まさに癒やされた日に感謝した。 

                      (2017年3月17日)

    

 己の守り方

昭和63年、父が亡くなったとき、私は母の依頼で小さな子供たちを軽井沢に残し、がん末期の父の看病で病院にいた。
母は貧乏な私に一日5000円払ってくれたので我が家は助かっていたが、自分は日本語教師として働いていた。

看取ることを当然と思い病院に泊まる覚悟もあったのに、医者や看護婦に聞いても危篤と言う言葉は一度も聞かなかった。
それなのに真夜中の電話は「亡くなりました。」
信じがたい気持ちで病院に行くとベッドの下の奥の方に嘔吐物で汚れた寝間着が丸めて放り込まれていた。
何が原因でなくなったのかすぐ理解したが、病院は説明でその事に触れることもなくそれを尋ねても何の反応もなかった。

 悔しくて悔しくてたまらない思いで3ヶ月過ごしたある日、父が夢に笑顔で現れた。
「癌が9箇所もあったよ。」その笑顔が私を救い悔しい思いは消え去った。


そして今回は娘の夫であった人。家に来たその日から、挨拶もしない彼に家中で当惑していたが、
娘の選んだ人であり、同居も納得してくれた人でもあり、娘のおなかには新しい命も宿っていたこともあってそれはそれは大切に接してきた。

 結婚したときのあった借金は私が払い、その後勝手に自己破産したときの弁護士費用は、娘が保険の解約や少しずつ貯めた貯金で支払った。

常にお金がなく、何でも彼が一流のものを買うため、相談もないままレシートだけ置いてゆく彼にそのまま対応していた娘。
あるとき、家中で一番大きな包丁を横に置きへたりこんだまま、「もうすべて終わりにしたい。」と言って泣いた。

3時間もかけ医者を探し、結局知り合いのいる群馬の病院に連れて行くと
「お母さん、すぐ入院させた方がいい、子供共々消えたい、と言うことまで言っています。
」医者の指示に従い事なきを得たが後から聞くと驚くことばかり。

10年間一度も話し合ったこともなく、優しくされた記憶もない。ただ怖いだけで家族で出かけてもちっとも楽しくない。

もっと早く別れさせてれば・・と思ったのも後の祭り。
別居後、執拗なラインの連絡も彼女や子供たちへの愛情は全く感じられず、くどくどとした彼の要求ばかり。
面倒になった私はラインを見ることもなくなったがそれを見た長女が言った一言が忘れられない。「怖い!」

彼の書いた納得できない念書に判を押すことで離婚は成立したが、
その後もだらだらとラインが続き、警察や弁護士、家族の助言でラインは非表示にした。

「恐ろしいと思う人の言うことがなぜ聞けない?」ラインに残った彼の言葉は彼そのものを表している。

彼からの連絡さえなければ元気を取り戻す娘だったが、何かあると手が震え、動悸も伴っていた。
そんなとき届いたものが彼からの調停通知。

子供に会わせろ、と言うことではあったがそれならそれでもう私たち素人では相手ができない
弁護士さんに相談すると「調停委員に説教してもらわないと、この人だめですね。では、養育費請求してみましょうか?」

すべてを弁護士さんにお任せし、来週二つのことの調停がある。

今まで比較的近所に住む彼の車とすれ違いざまににらまれたりしたこともあって、
青い車を見るたびに気になって仕方がない私であった。
何をしていても彼への憎悪と悔しさが頭から離れず楽しいことを考える努力はしても気持ちは沈んでいた。


そんな時、彼が夢に現れた。お互い笑顔で話す中、遠くで下を向いて座っている子供が気になってはいたが
その夢から覚めた後、彼への憎悪とくやしさがほぼ消えていた。

父の時と同様夢で救われた私だが、どうしてそんな夢を見るのかわからない。

 もしかしたら辛いときに己を救う方法がこれなのかもしれない。

                            (2017年 7月14日)


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