浮遊

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幸せな人

習慣をやめる(2024.3.18)
3度で終わらせたい(2023.10.20)

陽気な交通事故(2023.10.18)

ハハコグサ
(2021.10.5)

Mさんは今どこ?(2021.8.9)

 ダイビング(2019.10.15)

己の守り方(2017.7.14) 

そして今こんな感じ

浮遊

     


   このページを更新することも少なくなり私も娘もやり方を忘れてしまったので今後下に追加します


幸せな人

夫を見ているとつくずく幸せな人だと思う。理由はたくさんあるが先ず人生の経験値の豊富さ。
外交官だった父親と長年行動を共にし、共に・・とは言ってもホームステイ先や寮に住み寂しさはあったかもしれないが無駄な干渉とは縁が無かった
10歳の頃はアフリカの子供達と遊んでいたというし中学生で一時日本に戻った際には学校には行かずテレビや映画を見て過ごし

次の父親の勤務地が決まるのを待っていたという。
フランスの中学校、タイの高等学校そして大学はイスラエルで地理学を学んだという。

大学の半ばで父親が癌で余命が少ないとわかり帰国。その後はヘブライ語を生かしイスラエル大使館に勤務

闘病生活の父親も喜んでいたに違いない。

その勤務中に父親が亡くなり偶然目にとまった革屋さんで半端の革を買い大きなバックを作り
そのバッグを自転車に付けて放浪の自転車旅行に旅立った。
放浪のはずがすっかり気に入った礼文島で3ヶ月を過ごし、そこでのキャンプ仲間達とは50年近く経った今でも交流がある。

そのあとは自宅で試行錯誤の革細工を作りため当時はやった地下道での露天商を始めた。
それぞれ自分で作った針金細工や陶芸品などを並べるなかで革細工を並べひたすら客を待つ。

そんな時に私と出会いトントンと進んだ話で私の姉の生活するジュネーブで結婚式を挙げた。
結婚当時二人は無職。私に多少の貯金はあったが夫はほぼ何もなかったような記憶がある。

私にとってこの結婚は大きな賭。「この人は年を取っても変わらない人。」 そんな印象が私を前に進ませた。


そして今48年経ち私が思ったように初対面の時の印象と今の様子はほぼ変わらない。
ただ当時のヒッピーのような風貌と違い今はこぎれいにしている。

何故この文章を書こうかと思ったのかというと、先日朝食時に頭をひねる夫。
何事かと思えば友人からいつも送っていただくベルトの端切れ、そのベルトを編んでバッグを作ったが
市松模様は良いが斜めに編むと端は合わないと言って工房から実物を持ってきて見せてくれた。。

確かに市松模様は美しいが斜めはずれていっている。当然のことだとは思うがそれをどうにか解決しようとする夫。
見ていてとても羨ましくなり幸せな人だと実感した。

私はと言えばそういう頭のひねり方は30年前くらいからもう経験していない。

店を任せてからは売れるかどうかもわからない小物ばかりを作り続ける日々。
昔はアイデアを夢で見てもメモを残し制作の実行をした。
高価なものも何でも売れた時代で制作が間に合わなかった日々を懐かしく思う。

1年くらい前までは旧道で店を続けようとする夢で目を覚ましたが今はそれも無くなった。
娘は時代に合わせるように商品の値段を下げて販売するようになった。
初めの頃は反対もしたが今は娘のやり方に口は出さない。

78歳になっても現役でドキドキワクワクしながら仕事をする夫を幸せな人だと思いながら
幸せな人のそばにいる私も幸せなのだと思う。

パチンコはやめたがダイビングでお金を使う私。
使うだけで稼がない自己嫌悪を夫に話すと 「あなたは昔やり尽くした俺は今もしているだけ。」
夫らしい反応に救われた。

人生経験値が豊富な夫は悩みを全く人に見せずどんなことにも悪あがきをしない。
「あなたさ、ホントにお金が全く無くなったらどうする?」 と尋ねると 「食い物探しに行く。」
何もなかったら小さい場所に引っ越して節約しながら暮らす。

単純明快な答えが返ってきた。

 
(2024.3.19記)




習慣をやめる
      私には45年以上続く習慣がふたつあった。ひとつは喫煙。
本数は少ないしダイビング中は全く吸わないので依存はしていないと自負していたが
これが何度禁煙を試みても上手くいかなかった。
電子たばこにしたり禁煙サイトに登録したりもしてみたが結果は同じ。禁煙をいったんあきらめたがPCの周りに落ちる吸い殻に自己嫌悪
そんな年を多く重ねていたが今回はきっぱりとやめた。

それには大きな理由があった。この直ぐ下の事故の話と関係がある。大笑いの事故だったはずが修理時車の中を開けてみたら 
見えない場所も壊れていて30数万円かかったという。直さぬ訳にもいかず10万以上の臨時出費となった。
それにあわせその原因になったパチンコ屋さんの駐車場の光景が脳裏を横切った。

ここでやめた習慣の二つ目がパチンコ。遊び大好きな私は本当にパチンコが好きだった。
パチンコの仲間も全国にいて今まで数十回も皆で会い楽しんできたしその方達とは今でも多少の交流がある。

そこまで好きなことを何故やめたのかというと、
接触事故で10万円以上も支払いその上20キロ離れたパチンコ屋さんに行く往復のガソリン代が高い!
そしてそこへ行くとあの理不尽な事故を思い出し悲しくなるであろうし・・・。理由はいくつでもあげられる。
それでも一番大きな思いはパチンコに関してはやりきった感が体中にあるからなのだと思う。

小学生の頃神社のお祭りで一人で遊んだパチンコ台。
高校生の時友人と東京中野のブロードウエイ近辺で何度かやってコーヒー代だけ稼いでやめたこと。
そのあとブランクはあったが長女が生まれ、あまりにも手のかからない子ゆえつまらなくなって抱きかかえていった沼袋のパチンコ屋さん。
隣の席のおばあちゃんに飴を貰いご機嫌だった娘に私はホッとしていた。

その後パチンコ店の前にある大きな花輪と葬式の花輪が同じに見えたらしく、葬式の花輪にも喜ぶ娘を見て
子連れでは2度と行くことはなかった。。

軽井沢に移り娘にバレエを習わせ待ち時間にしていたパチンコ。
ここでは日用品や松茸に至るまで様々な土産を抱えて帰宅していた。

そして子供達が大きくなると週に2日のパチンコタイム。これが何より楽しく充実のパチンコとの関わり時代。
旅に出ても買い物に行ってもパチンコ屋さんを見るだけでワクワクドキドキ。心から懐かしく思う。

その後工房を自力で建てているときは大工仕事の合間にパートと称して近所のパチンコ屋へ・・。
2~3千円プラスになると帰宅していた。

そのうちパチンコもただの習慣になってしまいドキドキワクワクもなくなり顔なじみと挨拶を交わしながらの時を過ごす手段と化した。
パチンコのおかげで我が家のお菓子はいつも豊富で、私も人気者だったがパチンコには現金がけっこう必要。
パチンコに行かなくなると私の財布にはいつまでも現金がある。もちろん必需品はカードで買うのだからお金を使うことに変わりが無いが・・。
財布から現金が減らないことがなんだか新鮮で嬉しくてこれがパチンコをきっぱりやめるきっかけになったかな?

どちらにしてもたばこも値上がりが続きガソリン代も高くガソリン代をこれまた高い灯油代にまわすというなんとも理にかなった考え。
考えた上で納得すると比較的実行をするのが早い私。

そんなわけで半世紀近く続いた習慣と決別できた自分が今ここにいる。

      (2024年3月17日記)         

                  


                    
                             
3度で終わらせたい                                                                                                                                                                                                                                                
45年の運転生活で故3回。15年に一度ということになるが恐がりな私はすれ違いが難しいと思えば止まってしまうし、
車庫入れが危ういときは何度でも降りて確かめるの。5年ほど前からドライブレコーダーで前後をから自分も変な運転は出来ない。
車を買い換えるたびに近所のテニスコートの駐車場で車庫入れの練習を何度も繰り返した。 

初めての事故は30年ほど前、仕事が軌道に乗り大忙しのさなか仕事以外では、テニスとパチンコと麻雀をしていた頃のこと。
麻雀はテニス仲間の10歳年上の彼女達とその夫達も仲間でたまにはゲストいた。
2卓ですることも多く盛大な大会も楽しみのひとつだった。普段は車で20分ほどの友人宅で4~5人で遊ぶ。

その日、麻雀が終わったあとパチンコに行こうとした私は初めての事故に遭った。
雪も降り道は凍っていた。直進の私は坂道を下ってくる車が視野に入ったときには遅かった。 

停止を怠った私はそのまま若い男性の運転する車にぶつかった。私はスピードは出ていなかったが彼の車の側面は傷ついた。 
一方的に悪いと思う私は平謝り。携帯電話もなかった頃なので近くの家に飛び込み電話をお借りしてパトカーを呼んだ。
彼はノーマルタイヤでの走行というハンディがあったためかいくら待っても私に保険の請求が送られてこなかった。
不思議に思っていたが忘れた頃に何か来たのかも忘れてしまった。
保険万全の私。懐が痛まなかったので覚えていないのだろう。 

そして2度目は今から数年前、カイロプラクティックに行く前に農協の売店で先生のお昼ご飯を差し上げようと寄り道したのが悪かった。
美味しそうな餃子とチャーハンを買い意気揚々と混み入った駐車場で車をバックさせた時
「グチャッ。」っと信じられない鈍い音がした。

バックした私の車に軽トラックの正面がぶつかっていた。
バックしたときに良く確認しなかった私は100%私が悪いと思い運転していたおばあさんに謝った。
「ごめんね、いきなりバックしたから驚いたでしょ?」 彼女はうなずいてはいたがなんとも煮え切らない態度。

警察を呼ぶと言う私に夫に相談したいという彼女。
いくら話してもらちがあかないので私の名刺を差し上げいつでも連絡するように伝えた。

どきどきするなか数日待ち数週間待ち数ヶ月が経った。そして数年が経った。
今思えば傷だらけのその車夫に 「またか!?」 と言われたのではないかと思っている。

そして3度目がこの下に記された事故。「陽気な交通事故」 ではあったが今までと違い娘の目が光る。
どんな時でも損をすることは多い私達だが私も夫も気にしない。
ところが娘は違う。「保険料がすごく上がったよ。」 私のせいだと思うので保険会社に電話した。

事故を起こすと等級が下がりそれに乗じた支払額になるとのこと。「事故を起こさなかったということでの処理も出来るがどうします?」
相手が右側通行で下を向いてスマホを見ていることはドライブレコーダーの映像でわかるが
相手が何割負担かは未だ決まらないという。

私の損傷は8万くらいだと言うが2万近く上がった保険料と私が修理に負担する額を天秤にかける。
こういうことは我が家全員苦手。保険が満期になる11月初めまで様子を見ることにはなったが
このことを知って 「陽気な事故」 などないことがわかった。

一昨日の事故では 「悪いのは相手、私は悪くない。このままぶつかるの?私も右を走れと?」 
様々な思いが寸前まで巡っていたがクラクションも鳴らさず車をよけなかった私にも責任はあるという。
確かにそう言われればそうだろう。どんな時でもできる限りの回避が必要なのであろう。

「なによあれ!」 ドライブレコーダーに残された私の声と車から降りて強気な態度でおじさんと話す私の姿が
今見ればむなしいだけである。 できることは4度目がないよう気をつけることだけだ。

(2023年10月20日記)


 陽気な交通事故

昨日ちょうどお昼の時報が鳴った頃、私は久々のパチンコ屋に来ていた。
いつものように車内のラジオを聞きながら慣れた店の慣れた駐車場に枠に入れようとゆっくりと車を動かしていた。

真っ直ぐ通路に目を疑う光景。私が走る左側を軽トラックがゆっくり右側を走ってくる。「え!」
思わず自分を疑った。「私変なところ動いてる?」 ゆっくりと私の正面に向かう運転手は下を向いて全くこちらを見ていない。?!

私もわずかに右に向けて車を動かしたが時すでに遅し。私の左バンパーと相手の左バンパーが中くらいの音と共にこすりあった。
100%落ち度は無いと思う私はすぐさま車を降りて相手に詰め寄った。
すると相手のみすぼらしい爺様は 「どっかで見た人だな。」 私もよく見ると 「アラおじさんお元気そうで。」
40年以上前によくパチンコ屋で見かけた顔だった。

それでも私はおじさんの肩をたたきながら攻撃に出た。
「ねえ、右側通行してたよね?下向いていて前見てなかったよね?」 おじさんは私の一言一言に大きくうなずき
「スマホ見てた。右を走っていた。」 と素直に答えた。

「警察呼ぶから。」 とスマホを取り出す私に 「ちょっと待ってくれこっちも保険屋を呼ぶ。」
警察の響きに 「ちょっと待ってくれ。」 を繰り返すおじさんは免許証不携帯。
私の押しに負け警察を呼ぶことにも同意した彼だが 「近所の家から免許証を取ってくる。」 と言う主張は曲げなかった。

保険屋と警察が来る間昨今のパチンコ事情で大盛り上がり。

警察に電話すると、相手と免許証を確認しあい連絡先を交換するよう指導された。
「おじさん名刺持ってる?」 常に名刺持参の私は自信満々で手渡した。「あるある、あ!でもきったねーな~。」 「汚くても良いよ。」
渡された名刺を見るとおじさんは工務店の主、金回りも相当よさそう。
保険屋さんと警察を待つ間にも何度か仕事の電話が来ていた。

「未だ現役なのね~。素晴らしい!」 と言う私に対して 「もうオレ80だよ。競売物件買いあさっては女房に怒られている。」
顔にこぼれ落ちそうにぶら下がったイボを持つおじさんはそう言って笑った。

パトカーも保険屋もオールメンバーが揃い発見されたのが私のドライブレコーダー。 前後に付けているが映像を見たことはない。
警察と保険屋がICチップを取って提出するように言うが、長女の夫に付けて貰ったので触り方もわからない。
その旨を話すといじくり回した警察官は 「わからない。」 と言って接続線を抜いていった。

みんなが解散するときおじさんが私に言った。 「飯でも一緒に食わんか?」 「ごちそうしてくれる?」 「うん。」
そこで我に返った私は 「私パチンコするときは昼ご飯食べないの。これからパチンコしてくるわ。」
「そうだな、せっかく来たんだからやっていくといい。」 「おじさん元気でね、また逢おう。」 と手を振った

4時間ほどパチンコをしたあと長女に電話。事故のことを話し長女の夫にチップを外して欲しい旨伝えた。
長女の家に着くと作っていた料理を振る舞ってくれ美味しくいただき上機嫌な私。

まもなく帰宅した夫が早速チップを外して内容を確認した。

双方の保険屋には私は右側通行の下を向いてゆっくり走る軽トラックが接近するとき私は止まっていたと説明したが
映像では右にゆっくり動いているように見える。後方の映像ではぶつかった直前には止まっている。と長女の夫は言ったが
それは専門家の判断にゆだねるしかないと思う。

いつもいつも助けてくれる長女の夫。私にも映像の見方を教えてくれて保険会社への送り方も教えてくれた。

暗い夜道を走りながら、ぶつかる寸前にクラクションすら鳴らせず体の損傷を心配する双方の保険屋さんに
「体はふたりともいたって元気です。」 と応えていたが
以前身内が追突事故を起こしたときに相手の元気そうなトラック運転手二人が警察官が来たとたん大げさに 「痛い痛い。」と繰り返し
長期入院をしてたくさんのお金を貰ったことを懐かしく思い出した。

それにしても税金で給料を貰っている警察官の高飛車の態度がなんとも心に痛く刺さった。

(2023年10月13日記)

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