このページを更新することも少なくなり私も娘もリンクの方法をを忘れてしまったので今後下に追加します
浮遊
土と遊ぶその2(2024.11.5)
土と遊ぶ(2024.9.3)
不破さんち(2024.8.24)
我が家の畑(2024.7.1)
3粒のイチゴ(2024.6.13)
浮遊の丘(2024・6・3)
お金に働いて貰う(2024.5.7)
幸せな人(2024.4.24)
習慣をやめる(2024.3.18)
3度で終わらせたい(2023.10.20)
陽気な交通事故(2023.10.18)
ハハコグサ(2021.10.5)
Mさんは今どこ?(2021.8.9)
ダイビング(2019.10.15)
己の守り方(2017.7.14)
そして今こんな感じ
浮遊
土と遊ぶ その2 白い糸を仕入れ草や木でそれを染め手織り機で織り服に仕立てて売ると言う根気仕事を生業にしてきた私。 革細工を生業とする夫と共に3軒の手作りの家を作ったり壊したりしながら軽井沢で子育てをしてきた47年。 私の工房は同居の次女に継がせ、今は夫や娘の手が足りない時の助っ人としてだけ店に顔を出す。 普段は自室で店に並べる小物作りをしながら過ごしている。 そんな私は今大いに土と遊んでいる。土遊びと言って思い出すのは泥だんご。 東京の中野区で育った私は小さい頃よく泥だんごを作って遊んだ。水をかけた泥を小さな手で硬く丸め 乾いた土をまぶしては丁寧に磨く。磨いてはまた土をまぶすことを何度も繰り返すことでピカピカの泥だんごが完成する。 誰に見せるわけでもなく一人悦に入っていた。 小さい頃から遊ぶことが大好きで72歳を目前にした今でもその遊び好きは少しも変わってはいない。 自宅で4年前に94歳だった母を看取ったあと心を込めて作った「浮遊の丘」。 雑木林だった100坪ほどの斜面を整地して山野草やブルーベリーなどを植えてみた。 ところが放っておくとクマザサヤタンポポばかりが増えるのでタンポポを抜き抜けないクマザサはひたすら植木ばさみで切る。 その土地を好んでくれる邪魔にならない植物と共に丘の可愛い花達を守っているが、そこを好むのは植物だけではない。 様々な小鳥たちや虫たち。そして決まったキジも毎日のようにやってくる。 今年から今まで見向きもしなかった仲間と共に夫が作る工房の隣の畑にも入ることにした。 私の大切な友人から苗を頂いたことがきっかけだったが、その大切な苗を守るためにひたすら草を取る。 「草との戦い」という言葉を良く聞くが、趣味の菜園での草取りは私にとっては土遊び。 ゆっくりそっと草を引くと、主根から脇根に伝わる感触が指先にじんわりと伝わりなんとも心地が良い。 誰に強制されるわけでもないので嫌になったらやめれば良い。 あまりにも可愛い花を見つけると雑草であってもしばらく残しておきたい気持ちになってしまう。 夫と私の下手な菜園は収穫量も少なく貧相なものだが夫が工夫して貯めた雨水を皆に分けているので そのお礼もあってか仲間からの素晴らしい収穫物をたくさん頂く。 それを無駄にしないよう今年は新しい料理がたくさん食卓に並んだ。 土遊びが今の私の遊びのひとつだが昔大好きだった母が言っていたっけ。「ままごとの語源は飯事(まんまごと)」だと・・・。 土遊びは私の究極の遊びと言えるままごとへと繋がって、終わりのない遊びはまだまだ続いていく。 (2024年11月5日 記) トップページに戻る |
土と遊ぶ 以前、志村けんが演じるはずだったがコロナで亡くなり沢田研二が演じることになった映画「土を食らう」 映画館でポスターを見たが映画館で見ようとまでは思わなかった。 U-NEXTで配信されていたのでじっくり鑑賞した。 禅寺での修行のあと自給自足を選び暮らしている主人公は畑を作ったり山菜を摘んだりして食している。 山菜や野菜も根まできれいに洗って食べる。栄養もあるしそれに賛同して私も真似してみた。 ハコベで試したのだが根を洗うのも大変な作業。これでもかこれでもかと水を替え細かい作業に取り組んだが 途中で水がもったいないなと言うもう一人の自分の声を聞いた。 そして茹で上げ味を付けた。夫と娘との3人の食卓に出したが味は良いがそのすじっぽさに皆閉口した。 私だけは3回くらい食べたが皆は二度と箸を付けることは無かった。 そして根まで食べるのはセリだけにしようと決めた。セリの根は本当に美味しい。 もともと自給自足は出来ないし食に対しては自然食品に興味があるわけでもなく体に悪いものも平気で食べる。 小さい頃から駄菓子が大好きで、人が見ていなければ落としたものでも拾って食べる。 「昭和の女は強いねー」 娘も昭和なのに私の食のたくましさにびっくりされることが多い。 そして本題の土と遊ぶ・・。4年前から山野草を中心に 100坪ほどの広さの「浮遊の丘」 を作り始めたが 植物の知識も土の知識も無く人に聞いてみたりネットで調べたりして進めていった。 一番困ったのがたくさんのクマザサとネザザ。ネザサは根気よく切ることでほぼ無くなったがクマザサの生命力はすさまじい。 知人が 「笹があるからその根で地形が保たれている」 と教えてくださり納得。 別の友人は 「草取りしすぎると土が乾燥するよ」 と教えてくださりそれにも納得。 それでもクマザサは一部の場所以外は見つけたら根本付近で切る。 それなりにきれいになった地面の空き部分にはその年その年でグランドカバーが勝手に生えてきたが その中でも強かったのがイチゴの葉に似たミツバツチグリとジシバリ そのふたつから私は名前は可哀想なほどきついがふんわり優しい葉で黄色の可愛い花を咲かすジシバリをこの丘のグランドカバーに選んだ。 各種あじさいやねむの木、シャクナゲやブルーベリー、そして様々な山野草の下に埋め尽くされるように増えたジシバリ。 その中からミツバツチグリやヒメジヨンタンポポは心の中で謝りながら抜きまくる。 そして私の好きな小さな花たちを侵略するジシバリも丁寧に抜いていく。 「生える場所を選んでね」 などと語りかけてはみるがそれも好みの問題で生えたがる植物に通じるわけもない。 そして3日も足を踏み入れないとどんどん藪に近づいてゆく。 本当に自分勝手な丘作りだと思うし私がいなくなったらここを管理できる人はいないかもしれない。 草を慎重に抜くときにじわじわと土の中の細い根から細い根に伝わる感覚を手がとらえる感じがたまらない快感。 そしてそのそばで動く小さな虫たちの命を感じることも土遊びの醍醐味だ。 カタバミが歩くたびに音をたててはじける時期は丘全体を生き物のように感じるし その種を食べにやってくる雄の大きなキジのニジマルの家族も私の心を和ませる。 草取りをする私に気づかず餌をついばむニジマルに呼びかけても雌キジの鳴き声をまねてみても何の反応もないのだが・・・。 今年からは家庭菜園にも力を入れ草取りをしているが周りの皆様から立派な作物を頂くことが多く、仲間の畑の草取りも好んでしている。 良い作物を作ろうとも今はまだ思えないしただ大切な作物の侵略者だけをひたすら退治する。 畑の虫たちは丘の虫たちとは種類も違うのでそれも興味深いところだ。 雑草との戦いだと言う畑や庭の手入れをする方からの悲痛な声を聞くことも多いが 植物育てを生業とはしない私にとっては草取りも楽しい山遊びなのだ。 (2024年 9月4日 記) トップページに戻る |
不破さんち 40年以上も前のことだと思うがこのあたりでは他人の目を意識しながらそれに縛られて生活をする人が多かった。 私達一家は何のしがらみも負い目もなくここに来たので人目を気にすることもなく生活をすることだけに必死で 何を気にする余裕もなかったのが正直なところ。 そんな時毎日のように会ってお喋りをしていた同年齢の友達が私に言った。 「貴方達はそのままでいい。不破さんだからね」 世間とずれた行動でも近所の人は不破さんちということで納得してくれていた。 誘われるまま夫も私も近所の方に混じり色々なアルバイトもしたし地域での役割もそれなりに果たしていた。 公民館の掃除であったり地域の草取りであったり娘達の保育園や学校での様々な奉仕にも参加していた。 子供達は近所の家に遊びに行っていたし近所の子供達も我が家に遊びにやってきていた。 当時としても珍しいかやぶき屋根の家、トイレは庭にあり薪で湧かす風呂。 遊びに来た子供達が何をその時感じていたかは想像すら出来ないが、不破さんちの娘達は特にいじめられることもなく地域に混じって 子供時代を過ごしていた。 長女は今になって言う。「こんなくそ田舎出て行ってやる、とずっと思っていた」・・・と。 結果的には都会の生活をあきらめ自分から田舎に戻ってきたが彼女の活発すぎる生活ぶりには驚かされることばかり。 次女は紆余曲折を経て自分がその時感じたままに行動し、昔から言っていた「普通が良い」 を実行し今生きているように思える。 娘達が50歳も近くなった今その子供達は?と見てみれば・・・。 長女の家庭は男子3人、次女の家庭は女児ふたり。 次女とは同居なのでふたりの女児は私にとっては産まれる前から知っているようなもの。 孫達と言っても上はもう18歳、下は小学校4年生。それらの子達がまた実にユニーク。 私が小さかった頃と同様人が作ってくれたレールの上を通らない生き方を選んでいるようだ。 5人の中で一番大きい高3の孫娘とその次の孫娘は二人とも塾にも行かず自力で我が家で育ったとは思えない良い成績。 しかしふたりとも大学に行く意思はなく上の子はダンスに夢中。3年できりが付いたら後輩の指導に専念するようだ。 中二の孫娘は私に言った。「大人になって勉強するのが嫌だから今やっている。今覚えたことは忘れないでしょ? 年とってから勉強しても一晩寝ると忘れちゃうみたいだし」 まさに私のことだと思いながら 「それでも何度も同じ事勉強するとたまには覚えていることもあるよ」 その孫は大きくなってしたいことはコンビニで働いて自活することだそうだ。 上の孫は4年ほど家族とのやりとりはラインだけでほぼ話をしないので彼女が何を考えているのかは正直わからないのが残念な限り。 それでも彼女、仲間や後輩から慕われているようで根がとても真面目なので家族が余計なことは言わないということで意思を統一している。 隣町の男の孫3人は上が高校2年生、通信教育の学校に籍を置き今はガソリンスタンドでバイトもしているらしい。 2番目は中学3年生で1年生の時に学校の先生に「このままでは行ける高校がないと言われた」 と娘がしょげていたが サッカーではちょっとしたヒーロー。もちろん特別に上手いわけでもないだろうが熱中できるものがあることを嬉しく思う。 4年生の三男は甘えっ子しょっちゅう母親に連れられあちこちに出かけていて微笑ましい。彼が何を思っているかはまだわからない。 その子のことで知っていることは肉料理とグミが大好物ということくらいかしら? つい最近まで激しい兄弟げんかばかりで母親である長女は家出したい、とばかり言っていた。それも少し落ち着いたようだ。 それにしてもその3人が小さい頃からとても仲が良いのでそれだけで素晴らしいことだと私はいつも思っている。 保母学院で素敵な先生に出会った私はその先生に 「自分の物差しを持って生きるように」 と伝えられていた。 不破さんちの子供達も長女の家の男の子達も皆それぞれの物差しを持っているようだ。 その物差しを頼りに寄り道をしても良いからしっかり前を向いて進んで欲しいと思っている。 (2024年8月24日 記) 我が家の畑 むかしむかし夫の作る畑を「すごい畑」という題にしたエッセイを書いた覚えがある。 今年は新しく出来た上田の大切な友人に私が苗をねだって頂いたこともあって私も畑が気になって あまり足を踏み入れたことのない夫の畑に入ってみることにした。 数人で借りている畑はきれいに四角く分けられているが夫の畑だけは四角くない。 他の畑は丁寧にマルチが敷かれ元気に苗が育っているが、まっすぐでない畝と雑草に覆われた一区画。 先ず畑を四角くするように草を取った。他の人に会うと「お宅は自然農法だそうですね。私は草取りが面倒なので・・」 と精一杯のお褒めの言葉も頂きはしたが、私は心の中で 「自然農法ではなくて放置しているだけだ」 とつぶやいていた。 しかしこの夫は皆のために雨水を大きな容器にためる装置を作り皆に水を提供しありがたがられている。 しぶとく根を張った草は根から抜くのは大変でちぎれてしまうものも多かったがまずは四角に・・。 そして3日ほどかかって畑が四角くなった。 「だいぶ畑らしくなったな」と喜ぶ夫。夫とて四角い方が作業はしやすいと思ってはいたようだった。 夫の畑は我が家の土地のあちこちに点在し、そのうえ小さなハウスの中でも何かを育てていた 。 あちらの場所ではジャガイモが植わりこちらの畑では菜っぱ。そしてあちらでは豆が・・・。 それも少しずつ耕されているので草をむしりながらため息と恨めしさと笑いが同時に頭をよぎる。 この夫、山菜や木の実を採るDNAが異常に組み込まれていて、散歩から帰ると台所に色々なものが置かれている。 長い付き合いの夫なので今更それを否定はしないが忙しいときに少しずつの収穫は腹が立ちさえもする。 それに加えての点在した畑。放っておけばそれまでのことだが今年は私も本気。 ダイビングを続けるためにリハビリに行き指導を受けているが終日の草取りにも全く痛くない腰について 先生はこうおっしゃった。「点在している畑で動き回ることが良いのでしょうね。」 ! そうだったか・・。 それ以来点在畑への恨みは消えたがそれなりに収穫が始まると空いたスペースが出来 そこを夫が耕し私が種をまく。丁寧に丁寧に。気持ちはそうだがなんと! 3袋の種が同時に畝にばらまかれてしまいもちろん回収は不可能。 仕方なく少し散らばせながら上から土をかけた。 同じもの同士ではなくバラバラに植えられた夫の苗をそれまで理解できずにいたが今私は全く同じこををしてしまった。 正直のそれを夫に言うと夫は言った。 「オレなんかさ、ディル撒いたの忘れてまた掘り起こして違う種撒いちゃった。」 そんなところがおおざっぱな似たもの夫婦。 お互い攻める事も出来ずに笑うだけ。 2~3ヶ月経った頃友人の苗がキャベツと白菜とブロッコリとトマトだったことがわかった。 キャベツは虫で穴だらけ芽キャベツほどの結球が見られるがとてもキャベツではない。 白菜はそれなりに結球して白菜っぽくなってきた。 私達の畑仲間は皆仲が良く「採って自由に食べてね。」 とおっしゃってくれるため 違うものを作ろうとはしているのだが。 そんなある日隣の畑の方と雑談 「我が家のこのキャベツここに皆の虫を集められるかな?それともこのせいで来なくて良い虫まで集めちゃう?」 私の問いに首をかしげ返答は得られなかったがこれも様子を見るしか無かろう。 20代の頃花を育てることに失敗し、夫も40年以上畑をしていてもあまり満足な結果は得られない。 「今度はどうなるか、今度はどうなるかそれを試すのが楽しい。」 言われてしまえば返す言葉は見つからない。 「本職でないからいいよね。それに結婚して50年近くたって初めて同じ趣味が出来たね。」 そう言って私は微笑んだ。 (2024.7.1記) |
3粒のイチゴ
浮遊の丘に昨年あたりからワイルドストロベリーらしきものが生え始めた。
昨年2粒実った実をおそるおそる口にしたときの美味しさにびっくり!その甘さに感動した。
その味に惚れた私は今年は周りの雑草抜きに励んだ。
今年はずいぶん広がり実の数も多い。しかしその実の愛らしさに今だ摘果できず小さなものばかり。
今年は様子見でそれでよいと思っているがいずれ大きな粒も目指したいと思っている。
この実を見つけたときに先ず中学生の孫の顔が浮かんだ。イチゴ大好きな彼女に摘んで貰おうと・・・。
しかし普段は部活動で帰宅は遅く土日は寝坊。タイミングが合わずしょんぼりの私。
折しもその前日に夫がやはり私と同じ思いなのであろう。孫の好きだった黄色い木イチゴが
たくさん摘んでテーブルに置かれてあった。
「一粒も食べようとしないんだぜ」 成長した孫の様子にがっかりしていた。
夫の言い分はいたいほどわかるが孫の気持ちも理解できないわけではない。
同居する家族ならどこの家でも味わう思いなのではないかと思う。いつぞや長女の舅が
孫のバイクの破れたサドル修理を夫に頼みに来た。初めての彼の頼みに孫を思う爺の姿を見た。
孫に摘んで貰うことをあきらめた今朝、私が摘んだのは3粒。
そういうものにあまり関心の無い高校生と次女が留守なのをよいことに3粒のイチゴのひとつは私が食べた。
ふたつテーブルに置かれたイチゴの大きな方は夫が食べた
おそるおそる残ったひと粒を孫の目玉焼きの隣にそっと置いてあとは素知らぬふり。
「おいしい。」と言う声が聞こえたような聞こえぬような・・・。
その声を夫が聞いて私に伝えてくれた。
孫のご機嫌を伺うなどナンセンス極まりないとはわかっているがこれが現実。
孫に頼まれればほいほいと言うことを聞く夫と私。頼み事と言ってもコンビニやカラオケに連れて行くくらい。
朝食も作り方を教えたので今では自分で作る。
我が家の孫達は自立心旺盛でほぼ手がかからない。中学生は家で皿洗いのアルバイトで稼いだもの以外小遣いもない。
高校生の孫娘も相変わらず5時前には起きて朝食後掃除機をかける生活が続いている。
あまりにも手がかからず淋しく思うのかしら?
美味しいと言って食べた小さなイチゴがまぶしく私の頭の中に残った。
(2024年6月13日記)
浮遊の丘
母が亡くなって3年と少し経った。コロナ禍で亡くなった母。我が家で皆に囲まれて素晴らしい大往生。
親戚縁者最小限に伝えたところ香典があちこちから送られてきた。
その香典を何に使うか思案し、雑木林になっている我が家の小さな丘を整備して皆が集う場所を作ることにした。
植木屋さんを呼び大規模な手入れが始まった。兄も姉も賛同し資金の寄付をしてくれた。
たくさんの植木が運ばれ私の指示する場所に植えられた。
植物に対して知識の無い私はネットで一つ一つ調べながらの手入れ。
基本は雑草を抜くことと放っておけば竹林になるようなクマザサの切り取り。
雑草もクマザサも下手に取ると土が乾燥したり山の地形が変わってしまうとの助言からまさに試行錯誤。
1年目は地面のほとんどがカタバミとツユクサに覆われ植えた小さな花達を守ることに必死だった。
そのカタバミの種を餌としてキジが住みつき 「ニジマル」 と名付けた。
2年目はニジマルは来るがグランドカバーがカタバミからスミレに替わった。
そして3年目、大きな切り株の上で縄張りを主張するニジマルは変わらないがグランドカバーはジシバリに替わり
黄色い花を山一面に咲かせている。
その頃になると買って植えた寒さに強いと言われる多年草の草花もほぼ根付かず自然に生えたワイルドストロベリーが増え始めた。
そして大好きなハハコグサもあちこちに出てきている。
4年目になり思い切って邪魔な植物を切る勇気も出てきた。少しずつ整い初めてはきたものの
まだこの先の姿がはっきりしないでいる。
この山に名前を付けようといつも思っていたが最近頭にひらめいた。
「浮遊の丘」
山と言うには小さいし元々この山の手入れの動機はみなが死んだら灰をここに撒こうというもの。
一番乗りしたのが故郷の海と彼女の夫に墓に撒いたあとの私の母の灰だった。
何の決まりも束縛もなく、ただ私が皆様のお金を無駄にせぬよう守っているだけ。
この丘は実に豊かで 山椒・タラの芽・ブルーベリー・いちご・ミョウガなどなど口に出来る植物がたくさんある。
春から冬にかけてそのうちには花の絶えない丘に仕上げたいと思っている。
浮遊の丘・・・。生きている者も魂になった者も霊になった者も全てがこの丘に来れば誰かに会える
そんなことを想像しながらこの名に決めた
ここを知る方ならどなたでも遠慮なく訪れて欲しい。
10代の頃ボーイフレンドに 「君の言うことは理想論だ。」 と言われたことがあったが
あの頃と何も変わらない私。これからも理想を追って生きていきたい。
我が家の変化は多すぎて自分ですら過去のことを忘れてしまうが今回7年ぶりに入らした87歳のピアニストミュリエル。
彼女が浮遊の丘を見てびっくりして 「よくここまでに・・」 と褒めてくださった。我が家に来るのは7回目だという。
それがとても嬉しくて次の日 「浮遊の丘」 という名に決めた。
(2024年6月4日記)
お金に働いて貰う
コロナ禍で家に閉じこもったときに私がしたのはU-NEXTやユーチューブで話題のアニメを網羅することと興味のある分野の知識を得ること。
そして中国の歴史ドラマを見ることとNHK見放題という特権で初期からの大河ドラマをあさるように見ること。それが今でも続き
アニメのキングダムは相当に長いものだが繰り返し見ている。
そんな中で大河ドラマで感動したものも数々あるが 「晴天を衝け」 渋沢栄一の話。
彼が藍農家に産まれたこともあり藍の葉や藍染の様子、絞り染めの衣装も多く使われていてなかなか興味深く
藍染を生業にもしている私としては目が離せないほど納得させられる部分も多かった。
話が進むうちに国と国民の豊かさを追求する彼の行動に感動すると共に当時頑張って生きた人々の姿に知らないうちに頭が下がっていた。
もちろん演出上どこまでが真実でどこがフィクションなのか知識の薄い私にはわからないが大筋間違ったことは言っていないと思われた。
ただ立場の違いでよい人が悪い人として登場したりまたその逆もしかり。
話の最後の頃には皆が元気になるために投資を勧めるという場面があった。投資などという言葉は私のような者には無縁の話
、一切興味がなかったが投資で皆を元気にし皆で豊かになる、と言った彼の言葉が私の頭にいつまでも残った。
たまたま他の情報でも日本最後の将軍徳川慶喜が懇意にしていた渋沢栄一に株を勧められ言うとおりにお金を稼働させ豊かな生活を送ったという
記載もあり投資というものにその時私は初めて興味を持った。
それまでは金持ちの友人の投資で儲けた話を聞いても全く他人事。 「へーすごいね」 と言うだけで金持ちはいつも雪だるまのように金が増え
貧乏人はその日その日が精一杯という思いが常にあり、たった今でもその思いは変わらない。
毎朝の日課でメールを見る私がある日、産地直送のサイトに 「投資を考える」 と言うような言葉を見つけそれに反応してしまった。
人口が減る一方で日本の景気も芳しくなく日銀総裁がテレビに写ったときの苦虫をかみつぶしたような顔。
どこをどう見ても経済は不安要素が多く経済的な安心は今後たぶん見込めない気がしている。
ファイナンシャルプランナーという職業のかたとズームで1回2時間以上話す。新ニーサが始まり皆が投資に関心を持ち円安が止まらない今・・・。
タイムリーと言うには乗り遅れの感がある。
初めてのお話の時に私が今まで得たつたない知識と自分が根っからの遊び人であることと自分のお金の価値観などを彼の説明の前に
自己紹介のような形でお伝えした。私の話に耳を傾けていた50歳だというきちんとした感じの彼はてきぱきとした話し方で
「不破様のおっしゃるとおりです。そこまできちんと考えていらっしゃる方は少ないし私が説明しようとしたことを不破様から
完璧に教えて頂いたような気がします。」 と言われ思わず恥ずかしくなってしまった。
「こんな時にはお金に働いて貰うのですよ。」 なるほど、私の持っている眠っているお金に働いて貰う。
そのわかりやすい言葉に納得した私。
新ニーサの説明を受けた2時間あまり。よくわからない言葉も多くその都度初心者の私に丁寧な説明をしてくださった。
すぐにでも投資が出来るのかと思っていたが私の口座の不都合やらゴールデンウィークもありなかなか事は進まなかった。
彼と4回話しその都度丁寧な説明が繰り返される。親しみを持った私は 「ねえねえ、よーい!までは来たけれどどん!
にはなかなかならないね~。」 その言葉に大笑いの彼も私と話すのが楽しいとおっしゃった。
「70代の方とお話しするのは多いが女性は少ないし、不破様のようなお考えの方はまずいない。」 ともおっしゃった。
それは私が博打好きなので投資でマイナスになる覚悟はあるし預ける年数を決めたら終わるまで待つという姿勢。
日本人はマイナスになると次のマイナスが怖く解約する方も多いという。
様々な話をたくさん聞いて頂き説明を受けた結果元本が減らずある程度のプラスが見込まれるものに投資をすることに決めた。
今までの説明して頂いたことやメモを見ながら頭を整理して家族と話した。
「5年とか10年とか置いておいて上乗せ分があったとしてもその時には物価も上がりギリギリの生活はかわらないね。」
その言葉に夫 「世界恐慌になったらどうする?預けるお金もったいなくない?」
「そう言うなら何もないあなたや長女のようにあるお金全部使ってる人が一番強いよね、今も恐慌があっても何も変わらないんだから。」
そこでそばにいた次女登場 「何でもあるお金全部使わないで年金から月に5000円でも良いから貯めてよ。何もなくてどう生活するの?」
「そりゃあ家族がなんとかしてくれる。それが家族でしょ?」 すかさず次女 「まったくー!甘えてるんだから。」
私は吹き出そうとする口を押さえるのに必死だったがそのあとの夫の一言で噴き出したあと涙が出るほど笑った。
「驚くなよ、オレだって貯めてる。どこに隠しているかは言わないけど見つけたら腰抜かすぞ!」
「あの雑然とした工房から探せって?どうせ8000円くらいでしょ?」 次女の8000円という根拠はなんだ?
今日も笑い声の朝に幸福を感じながら腰を抜かす日を待ち遠しく思う私。
娘達が小さかった頃夫は娘らに時々言っていた。「俺を本当に怒らしたら怖いんだぞ!殴ったら中国まで飛んでいくぞ!」
その夫は家族に手を上げたことはいまだに一度もない。
(2024年5月8日記)
幸せな人
夫を見ているとつくずく幸せな人だと思う。理由はたくさんあるが先ず人生の経験値の豊富さ。
外交官だった父親と長年行動を共にし、共に・・とは言ってもホームステイ先や寮に住み寂しさはあったかもしれないが無駄な干渉とは縁が無かった。
10歳の頃はアフリカの子供達と遊んでいたというし中学生で一時日本に戻った際には学校には行かずテレビや映画を見て過ごし
次の父親の勤務地が決まるのを待っていたという。
フランスの中学校、タイの高等学校そして大学はイスラエルで地理学を学んだという。
大学の半ばで父親が癌で余命が少ないとわかり帰国。その後はヘブライ語を生かしイスラエル大使館に勤務。
闘病生活の父親も喜んでいたに違いない。
その勤務中に父親が亡くなり偶然目にとまった革屋さんで半端の革を買い大きなバックを作り
そのバッグを自転車に付けて放浪の自転車旅行に旅立った。
放浪のはずがすっかり気に入った礼文島で3ヶ月を過ごし、そこでのキャンプ仲間達とは50年近く経った今でも交流がある。
そのあとは自宅で試行錯誤の革細工を作りため当時はやった地下道での露天商を始めた。
それぞれ自分で作った針金細工や陶芸品などを並べるなかで革細工を並べひたすら客を待つ。
そんな時に私と出会いトントンと進んだ話で私の姉の生活するジュネーブで結婚式を挙げた。
結婚当時二人は無職。私に多少の貯金はあったが夫はほぼ何もなかったような記憶がある。
私にとってこの結婚は大きな賭。「この人は年を取っても変わらない人。」 そんな印象が私を前に進ませた。
そして今48年経ち私が思ったように初対面の時の印象と今の様子はほぼ変わらない。
ただ当時のヒッピーのような風貌と違い今はこぎれいにしている。
何故この文章を書こうかと思ったのかというと、先日朝食時に頭をひねる夫。
何事かと思えば友人からいつも送っていただくベルトの端切れ、そのベルトを編んでバッグを作ったが
市松模様は良いが斜めに編むと端は合わないと言って工房から実物を持ってきて見せてくれた。。
確かに市松模様は美しいが斜めはずれていっている。当然のことだとは思うがそれをどうにか解決しようとする夫。
見ていてとても羨ましくなり幸せな人だと実感した。
私はと言えばそういう頭のひねり方は30年前くらいからもう経験していない。
娘に店を任せてからは売れるかどうかもわからない小物ばかりを作り続ける日々。
昔はアイデアを夢で見てもメモを残し制作の実行をした。
高価なものも何でも売れた時代で制作が間に合わなかった日々を懐かしく思う。
1年くらい前までは旧道で店を続けようとする夢で目を覚ましたが今はそれも無くなった。
娘は時代に合わせるように商品の値段を下げて販売するようになった。
初めの頃は反対もしたが今は娘のやり方に口は出さない。
78歳になっても現役でドキドキワクワクしながら仕事をする夫を幸せな人だと思いながら
幸せな人のそばにいる私も幸せなのだと思う。
パチンコはやめたがダイビングでお金を使う私。
使うだけで稼がない自己嫌悪を夫に話すと 「あなたは昔やり尽くした俺は今もしているだけ。」
夫らしい反応に救われた。
人生経験値が豊富な夫は悩みを全く人に見せずどんなことにも悪あがきをしない。
「あなたさ、ホントにお金が全く無くなったらどうする?」 と尋ねると 「食い物探しに行く。」
何もなかったら小さい場所に引っ越して節約しながら暮らす。
単純明快な答えが返ってきた。
(2024.3.19記)
習慣をやめる
私には45年以上続く習慣がふたつあった。ひとつは喫煙。
本数は少ないしダイビング中は全く吸わないので依存はしていないと自負していたが
これが何度禁煙を試みても上手くいかなかった。
電子たばこにしたり禁煙サイトに登録したりもしてみたが結果は同じ。禁煙をいったんあきらめたがPCの周りに落ちる吸い殻に自己嫌悪
そんな年を多く重ねていたが今回はきっぱりとやめた。
それには大きな理由があった。この直ぐ下の事故の話と関係がある。大笑いの事故だったはずが修理時車の中を開けてみたら
見えない場所も壊れていて30数万円かかったという。直さぬ訳にもいかず10万以上の臨時出費となった。
それにあわせその原因になったパチンコ屋さんの駐車場の光景が脳裏を横切った。
ここでやめた習慣の二つ目がパチンコ。遊び大好きな私は本当にパチンコが好きだった。
パチンコの仲間も全国にいて今まで数十回も皆で会い楽しんできたしその方達とは今でも多少の交流がある。
そこまで好きなことを何故やめたのかというと、
接触事故で10万円以上も支払いその上20キロ離れたパチンコ屋さんに行く往復のガソリン代が高い!
そしてそこへ行くとあの理不尽な事故を思い出し悲しくなるであろうし・・・。理由はいくつでもあげられる。
それでも一番大きな思いはパチンコに関してはやりきった感が体中にあるからなのだと思う。
小学生の頃神社のお祭りで一人で遊んだパチンコ台。
高校生の時友人と東京中野のブロードウエイ近辺で何度かやってコーヒー代だけ稼いでやめたこと。
そのあとブランクはあったが長女が生まれ、あまりにも手のかからない子ゆえつまらなくなって抱きかかえていった沼袋のパチンコ屋さん。
隣の席のおばあちゃんに飴を貰いご機嫌だった娘に私はホッとしていた。
その後パチンコ店の前にある大きな花輪と葬式の花輪が同じに見えたらしく、葬式の花輪にも喜ぶ娘を見て
子連れでは2度と行くことはなかった。。
軽井沢に移り娘にバレエを習わせ待ち時間にしていたパチンコ。
ここでは日用品や松茸に至るまで様々な土産を抱えて帰宅していた。
そして子供達が大きくなると週に2日のパチンコタイム。これが何より楽しく充実のパチンコとの関わり時代。
旅に出ても買い物に行ってもパチンコ屋さんを見るだけでワクワクドキドキ。心から懐かしく思う。
その後工房を自力で建てているときは大工仕事の合間にパートと称して近所のパチンコ屋へ・・。
2~3千円プラスになると帰宅していた。
そのうちパチンコもただの習慣になってしまいドキドキワクワクもなくなり顔なじみと挨拶を交わしながらの時を過ごす手段と化した。
パチンコのおかげで我が家のお菓子はいつも豊富で、私も人気者だったがパチンコには現金がけっこう必要。
パチンコに行かなくなると私の財布にはいつまでも現金がある。もちろん必需品はカードで買うのだからお金を使うことに変わりが無いが・・。
財布から現金が減らないことがなんだか新鮮で嬉しくてこれがパチンコをきっぱりやめるきっかけになったかな?
どちらにしてもたばこも値上がりが続きガソリン代も高くガソリン代をこれまた高い灯油代にまわすというなんとも理にかなった考え。
考えた上で納得すると比較的実行をするのが早い私。
そんなわけで半世紀近く続いた習慣と決別できた自分が今ここにいる。
(2024年3月17日記)
3度で終わらせたい
45年の運転生活で故3回。15年に一度ということになるが恐がりな私はすれ違いが難しいと思えば止まってしまうし、
車庫入れが危ういときは何度でも降りて確かめるの。5年ほど前からドライブレコーダーで前後をから自分も変な運転は出来ない。
車を買い換えるたびに近所のテニスコートの駐車場で車庫入れの練習を何度も繰り返した。
初めての事故は30年ほど前、仕事が軌道に乗り大忙しのさなか仕事以外では、テニスとパチンコと麻雀をしていた頃のこと。
麻雀はテニス仲間の10歳年上の彼女達とその夫達も仲間でたまにはゲストいた。
2卓ですることも多く盛大な大会も楽しみのひとつだった。普段は車で20分ほどの友人宅で4~5人で遊ぶ。
その日、麻雀が終わったあとパチンコに行こうとした私は初めての事故に遭った。
雪も降り道は凍っていた。直進の私は坂道を下ってくる車が視野に入ったときには遅かった。
停止を怠った私はそのまま若い男性の運転する車にぶつかった。私はスピードは出ていなかったが彼の車の側面は傷ついた。
一方的に悪いと思う私は平謝り。携帯電話もなかった頃なので近くの家に飛び込み電話をお借りしてパトカーを呼んだ。
彼はノーマルタイヤでの走行というハンディがあったためかいくら待っても私に保険の請求が送られてこなかった。
不思議に思っていたが忘れた頃に何か来たのかも忘れてしまった。
保険万全の私。懐が痛まなかったので覚えていないのだろう。
そして2度目は今から数年前、カイロプラクティックに行く前に農協の売店で先生のお昼ご飯を差し上げようと寄り道したのが悪かった。
美味しそうな餃子とチャーハンを買い意気揚々と混み入った駐車場で車をバックさせた時
「グチャッ。」っと信じられない鈍い音がした。
バックした私の車に軽トラックの正面がぶつかっていた。
バックしたときに良く確認しなかった私は100%私が悪いと思い運転していたおばあさんに謝った。
「ごめんね、いきなりバックしたから驚いたでしょ?」 彼女はうなずいてはいたがなんとも煮え切らない態度。
警察を呼ぶと言う私に夫に相談したいという彼女。
いくら話してもらちがあかないので私の名刺を差し上げいつでも連絡するように伝えた。
どきどきするなか数日待ち数週間待ち数ヶ月が経った。そして数年が経った。
今思えば傷だらけのその車夫に 「またか!?」 と言われたのではないかと思っている。
そして3度目がこの下に記された事故。「陽気な交通事故」 ではあったが今までと違い娘の目が光る。
どんな時でも損をすることは多い私達だが私も夫も気にしない。
ところが娘は違う。「保険料がすごく上がったよ。」 私のせいだと思うので保険会社に電話した。
事故を起こすと等級が下がりそれに乗じた支払額になるとのこと。「事故を起こさなかったということでの処理も出来るがどうします?」
相手が右側通行で下を向いてスマホを見ていることはドライブレコーダーの映像でわかるが
相手が何割負担かは未だ決まらないという。
私の損傷は8万くらいだと言うが2万近く上がった保険料と私が修理に負担する額を天秤にかける。
こういうことは我が家全員苦手。保険が満期になる11月初めまで様子を見ることにはなったが
このことを知って 「陽気な事故」 などないことがわかった。
一昨日の事故では 「悪いのは相手、私は悪くない。このままぶつかるの?私も右を走れと?」
様々な思いが寸前まで巡っていたがクラクションも鳴らさず車をよけなかった私にも責任はあるという。
確かにそう言われればそうだろう。どんな時でもできる限りの回避が必要なのであろう。
「なによあれ!」 ドライブレコーダーに残された私の声と車から降りて強気な態度でおじさんと話す私の姿が
今見ればむなしいだけである。 できることは4度目がないよう気をつけることだけだ。
(2023年10月20日記)
陽気な交通事故
昨日ちょうどお昼の時報が鳴った頃、私は久々のパチンコ屋に来ていた。
いつものように車内のラジオを聞きながら慣れた店の慣れた駐車場に枠に入れようとゆっくりと車を動かしていた。
真っ直ぐ通路に目を疑う光景。私が走る左側を軽トラックがゆっくり右側を走ってくる。「え!」
思わず自分を疑った。「私変なところ動いてる?」 ゆっくりと私の正面に向かう運転手は下を向いて全くこちらを見ていない。?!
私もわずかに右に向けて車を動かしたが時すでに遅し。私の左バンパーと相手の左バンパーが中くらいの音と共にこすりあった。
100%落ち度は無いと思う私はすぐさま車を降りて相手に詰め寄った。
すると相手のみすぼらしい爺様は 「どっかで見た人だな。」 私もよく見ると 「アラおじさんお元気そうで。」
40年以上前によくパチンコ屋で見かけた顔だった。
それでも私はおじさんの肩をたたきながら攻撃に出た。
「ねえ、右側通行してたよね?下向いていて前見てなかったよね?」 おじさんは私の一言一言に大きくうなずき
「スマホ見てた。右を走っていた。」 と素直に答えた。
「警察呼ぶから。」 とスマホを取り出す私に 「ちょっと待ってくれこっちも保険屋を呼ぶ。」
警察の響きに 「ちょっと待ってくれ。」 を繰り返すおじさんは免許証不携帯。
私の押しに負け警察を呼ぶことにも同意した彼だが 「近所の家から免許証を取ってくる。」 と言う主張は曲げなかった。
保険屋と警察が来る間昨今のパチンコ事情で大盛り上がり。
警察に電話すると、相手と免許証を確認しあい連絡先を交換するよう指導された。
「おじさん名刺持ってる?」 常に名刺持参の私は自信満々で手渡した。「あるある、あ!でもきったねーな~。」 「汚くても良いよ。」
渡された名刺を見るとおじさんは工務店の主、金回りも相当よさそう。
保険屋さんと警察を待つ間にも何度か仕事の電話が来ていた。
「未だ現役なのね~。素晴らしい!」 と言う私に対して 「もうオレ80だよ。競売物件買いあさっては女房に怒られている。」
顔にこぼれ落ちそうにぶら下がったイボを持つおじさんはそう言って笑った。
パトカーも保険屋もオールメンバーが揃い発見されたのが私のドライブレコーダー。 前後に付けているが映像を見たことはない。
警察と保険屋がICチップを取って提出するように言うが、長女の夫に付けて貰ったので触り方もわからない。
その旨を話すといじくり回した警察官は 「わからない。」 と言って接続線を抜いていった。
みんなが解散するときおじさんが私に言った。 「飯でも一緒に食わんか?」 「ごちそうしてくれる?」 「うん。」
そこで我に返った私は 「私パチンコするときは昼ご飯食べないの。これからパチンコしてくるわ。」
「そうだな、せっかく来たんだからやっていくといい。」 「おじさん元気でね、また逢おう。」 と手を振った
4時間ほどパチンコをしたあと長女に電話。事故のことを話し長女の夫にチップを外して欲しい旨伝えた。
長女の家に着くと作っていた料理を振る舞ってくれ美味しくいただき上機嫌な私。
まもなく帰宅した夫が早速チップを外して内容を確認した。
双方の保険屋には私は右側通行の下を向いてゆっくり走る軽トラックが接近するとき私は止まっていたと説明したが
映像では右にゆっくり動いているように見える。後方の映像ではぶつかった直前には止まっている。と長女の夫は言ったが
それは専門家の判断にゆだねるしかないと思う。
いつもいつも助けてくれる長女の夫。私にも映像の見方を教えてくれて保険会社への送り方も教えてくれた。
暗い夜道を走りながら、ぶつかる寸前にクラクションすら鳴らせず体の損傷を心配する双方の保険屋さんに
「体はふたりともいたって元気です。」 と応えていたが
以前身内が追突事故を起こしたときに相手の元気そうなトラック運転手二人が警察官が来たとたん大げさに 「痛い痛い。」と繰り返し
長期入院をしてたくさんのお金を貰ったことを懐かしく思い出した。
それにしても税金で給料を貰っている警察官の高飛車の態度がなんとも心に痛く刺さった。
(2023年10月13日記)
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