娘の習い事を待つ一時間余りの間、私が見つけたパチンコ屋で、あの当時一世をふうびし
ていたのが、ゼロタイガー。
それまで、チューリップ台しか知らなかった私にとって、飛行機の羽根が開くのがとても新鮮
で、その羽根に拾われる生の行方を興味深く見守っていた。そしてV入賞時の出玉の多さに
感動しこんなのがパチンコ?とびっくりしたものだ。
今のように肝がすわってパチンコをしていたわけではないので、ホールの中を歩き回ること
も無く、ただそのシマと、カウンターの行き来しかしなかったため、その頃どんな機種があった
のかも知らない。今になって思うとフィーバー機が多くあったものと思われるが、私は、一度も
触ったことが無かった。
その店のそのコーナーは、常に活気があり、それでも今と違い、お客様の中に極普通の女
の人はいなかった。大体が汚れた服装のかたばかりだったので、私も意識して汚いかっこう
で出かけて行った。5時半頃から、7時くらいまでの間であったが、その間に、開放台の抽選
が必ず行われ、うまくいくと、20分もかからずに、いっきに打ち止めになり、そのまま、山のよ
うな景品を抱え帰宅したものだ。
その頃の開放台の抽選とは、けたたましく流れる軍艦マーチとともに流れるスタッフの放送
で伝えられたが、塗り箸の先端に赤いビニールテープが張ってあれば当たり、張ってないの
ははずれ。占い師を思わせるような箸の束が缶に入れられ、当たりを引こうとお客が長い列
を作る。パチンコを誰に習ったわけでもない私は、初めは遠巻きにその様子を見ていた。そ
して、ある日を境に私もその列に加わるようになった。
当たりの棒を引いた幸運な人は、カウンターに並べられた裏返しにされた何枚かのボール
紙の破片を1枚選ぶ。そしてその表に書かれた番号が運命の台となる。それを持って、その
台に座ると、周囲からの羨望のまなざしが送られる。そして、スタッフが台のガラスを開けて
「打ち止め台。」と書かれた札を取り去ってもらえば、そこから楽しい時間が始まった。
同じ当たりを引いても、台によってはすぐ止まるし、台によってはなかなかうまくいかず、「ど
こかに道があるはずだ。」と、打ち方を調整する叔父さん達ともそのうち言葉を交わすように
もなった。そして打ち止めになればまた、その台は次の抽選まで誰も座ることができなかっ
た。3台に1台はそんな台であったように思う。
叔父さんたちに混じって列に並ぶのは、20代の私にとって、はじめこそ恥ずかしかったが
1度してしまえば大丈夫、。しかし、半分ほどあるはずの当たりがどうしても引けず、皆が、何
度でも並びなおす。3順ほどすると、スタッフが首をかしげながら客の引いた普段そのまま缶
に戻されるはずれの箸も のけていった。箸の残り本数で、自分の番が来なければ、そこで
諦めて退散。
そんな楽しい抽選時迷うのが、その時点で少しだけ出玉があった場合。『抽選に並ぶべき
か否か。』もちろん並ぶと時には、少ない出玉も流さなくてはならなかった
あの頃、私は換金をしたことが無く、出玉は全て、日用品やお菓子に替えていた。青や緑
のビニールのようなプラスチックで出来た小さな細長い箱に、何玉入ったのか覚えてはいな
いが二箱ほどで止まったような記憶がある。出玉が多いときの交換には、必ず大きいホタテ
缶がいくつか入り、少ない時はお菓子や洗剤。羽根物を打って一時間余りで出玉ゼロはまず
ない。底の方に少しばかり残ったものでもお菓子に替えれば、小さな娘達を喜ばすのには充
分であった。今、書いていてやっとうなづける。だから、あの頃はパチンコで負けた実感がな
いのだ。そんな時代が懐かしい。
あのゼロタイガーは、8ラウンドで、最後にまたV入賞で1ラウンドから始まった。意地悪な
パンクもほとんど無く、1ラウンドの入賞が、10個以上の場合も多く、良い台ならば、あっとい
う間に止まった記憶がある。ビユウンという左右チャッカ‐入賞の音、ビユウンビユウンという
2チャッカ‐入賞の音。あとは、ブーーーーーンラウンド中の音。役物の小さな電気が地味に
光っていたようだったがそれだけの仕掛け。でもあの機種は、誰もが言う名機であった。
(平成13年11月26日 記)
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