軽井沢に来た頃

 「屋根の上に花の咲いた家を見つけたよ。そこに住もうよ。」東京で、次女が生まれると
すぐにサラリーマンを止めてしまった主人は、アルバイトで出かけていた軽井沢から帰ると
私にそう言った。長かった髪を坊主頭にしての懇願に、私も同意した。

 1才と2才の娘を連れ、お金も仕事も無い私達。萱葺き屋根の農家を借り、珍生活を始
める。昭和54年。「脱サラですか?」そうおっしゃるかたがたに私は言った。「いえ、脱都会
です。」 なぜって、主人はサラリーマンはたった2年。『脱』と言うほどの実績が無かったか
らだ。中野から四谷まで通った2年で主人はどんどん青白くやせていった。軽井沢に来た
のは、ほんのあこがれ。計画などなにもなかった。


店を始める

 独身時代保母をしていた私は、軽井沢でも仕事が見つかるのでは、と期待していたが、
そんなにあまくはなかった。当時、軽井沢はほぼ夏(8月)だけが活気があり、職安へ行って
もなんの仕事も無かった。もちろん、保母でなくても良かった。何でも良かったが、何も無か
った。暇だけがあり、車もお風呂も無い私達は、貧乏なのに、一家4人でタクシーで温泉へ行
く。そんなことも余儀なくされていた。
 
 当時、私達のような侵入者は軽井沢にまだ少なく、目立ったせいかさまざまな方達が尋ね
てきてくださった。若さと、バイタリティと、人懐こさで、お金が無くても結構楽しい日々を過ごし
ていた。
 
 そんなある日、知人が持ちかけてくれた話。「店をやらないか?17歳の娘に店をさせたい
が、心配なので半分場所貸すから、一緒にやって欲しい。」 引っ越して半年でのありがたい
お話。私達は、独身時代それぞれが趣味でしていた革細工と織。今までの作品を持って、旧
軽井沢にお店を開くことが出来た。東京を出るときには思いもしない展開であった。
 
 翌年スポンサーは撤退。私達は独立し、お客様に育てていただきながら「霧下織工房」と
「革の子工房」はようやく形が出来上がった。


そして今…

 何も無いところから、親子4人が暮らし、自分の土地と自分達の店を持つまでには、それ
こそひとことでは語れないさまざまなことがあった。楽しい方達との出会い。素敵な方達との
出会い。そして、動いて動いて今にいたるわけだが、極貧中、子育ての中での店経営、家作
り、そして工房建設。そんな様子を書き綴り、お客様に報告させていただいてた冊子「む」。
10年続けることで、自分のあわただしい生活を整理することが出来ていた。
 ご飯ものどを通らないほどの生活の不安のなかでも、お客様に支えられ、物を作る気力は
いつも消えることが無かった。
 
 20代の頃、年配のお客様にかわいがっていただいたり、30代になると時に中年のお客様
に、悲しい思いをさせられることもあったが、今では何でも平気。できることなら、いままでの
様々な経験から、何か大切なことを、ここに来てくださる方達にお伝えしたい。

 そんな思いで今います。                  
                             平成13年10月30日 記

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