たぬきさん


 今から二十年近く前の旧軽井沢は、夏しかお客様はいらっしゃらなかった。しかしその八月
は、毎日がさながらお祭りのようで、朝から晩まで色々な方達が店の前を通られた。絶対に
御夫婦ではない感じの熟年の男性が、若い美しい女性を連れて、和服姿で優雅に歩き、
「いつも前を通してもらってありがとう。何か買わせてもらおうか。」 などと思いもかけぬ言葉
とともにお買い上げくださる方もいらしたし、 「この娘に似合いそうなもの、何か選んで・・。」
と、値段も見ずに買ってくださる方もいらした。 「おたくに来るのが楽しみで・・・。」 とおっしゃ
って、とにかく何かを買ってくださる方。すてきな御婦人が、お友達同士でゆっくりていねいに
選んで買ってくださる方も多かった。今思えば、『古き良き軽井沢』の時代である。

 夜も十時頃までは夕涼みのお客様がしっとりと歩き、店の主人と別荘のお客様とが囲碁を
打つ光景もあった。お客様の連れて歩かれる子供たちも、どこか落ち着きがあった。といえ
ば少し言いすぎか・・・。そんな中にあって、異色の御夫婦がいらっしゃる。ある暑い日の夕
方、杖をついた、とても体格の良いご婦人と、小柄な御主人が店に入っていらした。奥様の買
った買い物袋をご主人が体中で持ち、私の店のものを物色なさった。 「いいわね、これ。」
何を買ってくださったのか忘れてしまったが、奥様の言葉のすぐ後に 「これとこれとでいくら
になるの?」 とご主人の言葉が続く。値切られた私は安くできないと理由をとくとくと伝え、そ
のまま買っていただいた。ところが、その方達はその後も何度も私の店に来ては値切る。そ
して私は応じない。それに応じることは、他のお客様に対しての裏切りだと思い、どこまでも
突っぱねた。若かった私には、どうしても妥協ができなかった。

 その方の姿が道路の向こうから見えると、隠れてしまいたい気持ちであったが、そうもいか
ず、とうとうその御主人に誉め殺された感じで私は根負けした。その時の奥様の言葉が忘れ
られない。 「こうやって値切るのが楽しみなのよ。」 私にしてはそのことがどんなに苦痛であ
ったか。その後毎年その御夫婦は店を訪れ、その都度ねぎり、早くその場を終わらせたい一
心で私はそれに応じていた。それも、何か一言、必ずケチをつけて買われる。
 それでもただ一つ、その奥様が私に力を与えてくださったことがある。十年以上経ったある
日、やはりお買い物袋をたくさん持ったご主人を引き連れ、私の店中に目を通し、おっしゃっ
た。「ホントは、私、洋裁やってんのよ。アンタの作るもん見てて、何これって思ったけど、アン
タえらいよ。それで通しちゃったもんね。かたちになったもんね。立派だよ。」 そんな誉めら
れ方が、当時私はけっこう好きだった。嬉しかった。
 ある日、その方から電話が入った。「もしもし、たぬきですが・・・。」 「エッ?たぬきさん?」
その名前は、どうやら聞き間違いであったのだが、その日からその人は私の中で、たぬきさ
んになった。

 林の中に店が移ってからも、閉店時間を過ぎてからおみえになたそうだ。外出していた私は
顔を合わせることはなかったが、主人が言っていた。 「たぬきさん、『奥さんに逢いたい。』っ
て言ってたよ。」 でも、どちらかというと、私はできることならこのままずっと逢いたくないと今
でも思っている。

                   平成12年6月10日 記

トップへ
トップへ
戻る
戻る