その方が私の店に入ってこられたのはある秋の晴れた日。丸顔で黄色のジャンパー。首に
は白いタオルを巻いていた。その頃の私は、店にいらっしゃる方の視線、服装などで、その
人の大まかな職業がわかった。 「この人は創る人だろうな。」 やはり、そうだった。そして、
長いおしゃべりが始まった。
彼は、美術品の作り手だった。師からも独立し、山の中に工房を持ち、複数の弟子を持ち、
注文も増え、順調な日々を過ごしていらした。それまでも、高額な作品を手がけていらしたよ
うだが、ある時、展覧会に出品した作品に、七千万の値がついたそうだ。その後もそのまま
値は上がり、一億に届きそうになった時、師に言われたそうだ。 「あとで苦しむのは自分だ
から、もうそれ以上高くしないように。」 と・・・。百万くらいの安いものは弟子に任せている、
と、私にとっては桁違いの話に驚いた事も確かだったが、それ以上に、彼の苦悩が私には伝
わった。
誰が聞いても羨むような、華やかな舞台の主人公であるその時の彼の顔には、物を創り出
している喜びの表情はほとんど無かった。 「来年までは注文でうまっているけど、その後は
わからない。」 弟子達の生活を支えねばならないし、今後のことが不安でならないらしかっ
た。小さな物を作りながら生活をしている私に、彼は、羨望の目を向けていた。そして、ふっと
もらしたこんな話。
「僕んとこ、山ん中でなんにもないんですよ。だから、弟子の親達が心配して、食べ物を持っ
て来たり、送って来たりするんだよね。ある親は『これ皆さんで食べてください。』って、同じ物
をたくさーん。そしてある親は『これ○○ちゃんへ。』っていろんなものを少しづつ。自分の子
にだけ、ってそういう親、けっこういるんだよね。僕達、共同生活してるんですよ。どう思いま
す?」
彼は、たくさん話した後、さわやかな笑顔とともに消えて行った。名前も、住んでいる場所も
教えていただいたのに忘れてしまった。平成になって2年ほど経った頃かだったか。
バブル期にあってほとんど恩恵も無かった私だが、当時、軽井沢でいろいろなかたが、さま
ざまな生き方を見せてくださった。彼は今、どうしていらっしゃるのだろう・・・。
平成13年1月27日 記
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