芸術家


 以前、取材を受けた時(確か新聞だったと記憶している。)インタビュアーが言った。「○○さ
んはなにかですか?」 いつもお客さんから女子美か、多摩美か、それとも?と聞かれ続ける
私。「保母学です。」と言っても通じないから、「学校は出ていません。」と答えていた。何科?
これまた細かい質問かと問いただせば「あの、染色家とか、工芸家とか・・・。」

 ああそうか。そういうことか、と納得。「あなたの思ったように書いてください。」 テレビ、ラジ
オ、新聞、雑誌。20数年たくさんの取材をしていただいて、色々解ったことがある。取材をな
さる方が、もう自分のイメージを持っている。私をただ、それにはめて行きたい。始めは、多
少の抵抗もあったが、慣れてしまった。そして、無難かつサービス精神旺盛の答えをし、今ま
でやってきた。他人が私を見てどう言ってくださっても、かまわないのだ。

 ところがただ一つだけ、抵抗していることがある。それは、「芸術家」と言われること。もちろ
ん、記事にそう書いていただいた場合は仕方が無いのだが、面と向かって言われると、やは
り言葉が出てしまう。「私は、芸術家ではありません。生きるために作っているだけです。」
と・・・。私が自分を芸術家と言えない大きな訳は、私の姉夫婦の存在があるからである。

 姉は3歳からバイオリンを始め、桐朋学園卒業後18歳でプラハに渡った。渡る・・・。そう、
当時は船でモスクワまで行き、そこから汽車。中学生だった私は、港でなんだか悲しかった。
姉はその時、近所の仕立て屋さんで作ったワンピースを着ていた。丸い模様がどこまでも続く
柄。父が借金をして買ったバイオリンを抱きしめて甲板にいた姉。出航のとき、姿が無かった
のは、ひとり心細くて奥で泣いていたかと思いきや、切符の手違いで出て来れなかったと、私
は20年も後で知った。

 私が13歳だった当時、やさしい姉だとは思わなかったが、別れるのが悲しかった。最初の
切符の手続きのミスに始まり、ホームステイ先で友人を呼ぶとそのお茶代を請求されるな
ど、思いもよらぬ出来事の中、姉はたくましく、そしてやさしい人間になった。日本で家族と居
た時には見せなかった暖かさを手紙いっぱいに詰め、まだ子どもだった私にたびたびくれ
た。印象的なのが 「詩のように、歌のように生きればいい。」 という一節。それを参考にそ
れから私は生き、今もずっとそう生きている。

 その後、さまざまな波を超え、姉はバイオリニストになった。好きになった男がイラク人、絵
描き。当時、ドイツの大学に通っていた姉は、大学の構内で絵を広げて売る彼に出遭う。そ
の絵に惚れたという。彼は平和主義者。王家の生まれで、一族働いたことが無いという。家
族は絵描きが多いという。彼は兵役を逃げ、砂漠で絵を書きつづけた。学校で絵を教えてい
たこともあるらしいが、彼は絵を描きたかったらしい。

 日本の安定したパスポートを持つ姉は、その彼が捕まれば国外退去以上ののデメリットが
あることを思い、彼のために病院でシーツを盗み、文具店で絵の具を盗み絵を描かせていた
という。イラク国籍ゆえの彼らの苦労は、断片的に聞いてはいても私には想像することすら未
だ追いつかない。

 パスポートの問題があった彼が堂々と生きて行くには、相当な問題があったそうだ。姉は給
料が高くて、試験時の交通費を出してくれる(受かった場合)楽団を、新聞でジュネーブに見
つけた。彼をドイツに残して、交通費を友人から借り集めスイスで受けたカーテンテスト(弾い
ている人を試験官に見せない)。それで見事にコンサートマスターに合格し、彼も呼び寄せて
結婚。器用でやさしい彼は、衣食住の全てを支え、姉はお金のために必死にバイオリンを弾
いた。外国人2人のジュネーブ生活が始まる。

 そんな時、彼に闇で仕事を紹介してくれる友人も出来ていたが、彼は決してしなかった。
いちどだけアルバイトを試みたそうだが、1日で止めてしまったそうだ。その頃、私と主人は彼
らを訪ねたが、あふれんばかりのやさしさで対応してくれ、彼の芸術家魂に、感動し、呆れ
る。自らを『アーティスト』という彼は、本当に芸術家。仕事に妥協は決してしない。余談だが、
私達はそこで結婚式を挙げた。

 今は義兄も姉も、ジュネーブで立派な地位を築き、どんなに不景気でも、彼の絵は売れて
いる。それでも借金だらけの彼ら。そういうところが私の思う芸術家である。

 一文無しの生活のスタートは、私達も姉夫婦も同じ。しかし私は、店にお客様の無い冬はど
んな仕事でもしたし、(かつらの植毛の内職に始まり、ペンション・喫茶店で皿洗い、そしてピ
アノの先生までも。)なんでも良かった。主人も土方のバイトをしてくれた。

 作品作りにも妥協してきた。お客様に望まれればわけのわからない物も作ってきた。私の
作品は生きるためのもの、と割り切っていたのだから。

 今も、私は自分を芸術家とは思わない。常に生活のために売れるものをめざして作ってい
る。 だから、芸術家ではないのである。

 昨日、ジュネーブの姉から電話があった。お決まりの文句「みんな元気?」 少し口ごもって
も、私は嘘が言えなかった。「それがねー」 ちょうどその時我が家に事件があった。娘婿が
夜中、自動車事故を起こし、現場検証に私達夫婦が立会い、車が全壊したことを姉に告げ
る。「そして、ひろしくんは?」 「軽いムチウチかな?」 「えー!よかったねー!車なんか1台く
らいいいじゃない。本人が無事なら。」 「でもいろいろとあって心配でネー。」 それ以外の心
配事はこの際ふせておいた。

 「かっこちゃん、あんたねー、心配できる人がいるって幸せなことよー。」

 私が、連日心配で眠れない状況の中、姉がどういう意味でそう言ったかさだかではないが、
妙に納得した私。芸術家は、言うこともさすが違う! 私はそんなふうに時折姉に救われる。

 今日も、朝から蒔を炊き、よもぎで染める大作業をしながら、姉夫婦の事を考えていた。「青
い絵が売れるから、描いて欲しい。」 と言われても 「描けない」 と断る義兄だそうだが、今
では注文を断り、お客様の思いに合わせられなくなった私も、もしや芸術家に一歩近づいた
のかと、自分を笑ってしまう。若い頃、悩みぬいて腸が変形するほど体を痛めてきた私だが、
年と共に自分を楽にする方法が少しづつ、身に付きはじめている。

 この大好きな姉夫婦に、来週主人は逢いに行く。姉にお土産に欲しいものを聞いたら、乾
燥ワカメとおつまみと文庫本。それと17歳になる娘に、日本のファッション雑誌が欲しいとのこ
と。

 そんな彼らの応接室の中央に飾られている彼の絵。「これは、初めて出遭ったときに見た
大事な絵。私の宝物。」 そう言った姉の顔とその絵が25年経った今でも私の脳裏に住んで
いる。

 義兄は今、自宅でいつでも映る話題のアルジャジーラの番組に釘付けだそうだ。公平にな
んでも流す局。だからあとは自分で考えろという立場で電波を流す局らしい。

                 平成13年10月14日 記

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