お金の話

 今まで何とか軽井沢での暮らしを続けながら、つくづく思う事がある。よくこんなに勝手気ま
まな暮らしが出来ているな・・・。他の人にくらべて小さい頃から私は物を欲しがらない性格だ
ったとは思うが、自分としてはあまり倹約をしているつもりも無い。

 若い頃、ここでの生活が不安で御飯が喉を通らず病院に通ったこともあるが、それも過去
の話として思い返せば苦しいというよりも良い体験だったようにも思う。
 物を作って売って生きてゆくことは、夏しかお客様の無かった当時、とても難しいことで、夫
婦ふたり、お金になる仕事があれば、あちこちでバイトもしながらしのいできた。、まだ店を始
めた頃に大先輩に言われた事がいまだに私の耳に残っている。
 「君たちは、いまのまま、今のままの姿勢で店を続けなさい。必ずお金はあとから付いてくる
から・・。お金を追っかけてはいけないよ。追っかければ逃げるから・・。自分たちに見合うお
金の量は皆それぞれ決まっていて、それ以上を求めたら、あふれ出してしまう。そして自分で
処理できなくなるんだら・・。」  食べるお金にも事欠いていた私にとって、その意味は良くわ
からなかったが、わからないなりにいつも心のどこかにその言葉が住んでいた。

 初めて独立した店を持ったときに、高価なものを買ってくださったお客様に、(1万円を越え
る物は私にとってはとても高価なものであった。)主人が育てたトウモロコシを箱に詰めてお
送りした。宅急便代が高くて閉口したが、そのお客様の存在があまりにも嬉しくてした行動で
あった。あの頃より大人になった私が今思えば、先方にとっては迷惑なことであったかも知れ
ないが、そういうことを考える余裕もなかった。お客様に喜んでいただければ・・。そんなふう
な思いだけで、店を続けてきた。
 その方たちは軽井沢にいらっしゃるたびに、小さな娘たちを可愛がってくださり、私達の店
に来てくださっては、物を買ってくださった。その方たちの顔を思い出しながら長い冬も製作を
続け、少しずつ生活も成り立つようになってきた。 

 貧乏を思い切り味わった私は、自分の手の中にあるお金だけでしか物が考えられなくなり、
仕入れも全てその場で払い、何を買うにもローンを組むこともしなかった。主人が運転をしな
い中、私は、走りさえすればよいということで、事故で横がつぶれた車を、そのまま安く買って
使っていたこともある。その車の姿に友人は驚いたが、格好を気にするゆとりはその頃無く、
そのままで、島根まで家族4人を乗せて法事に出かけたこともあった。そんな姿の私たちを両
親は哀れに感じたことと思うが、静かに認めてくれていた。
「いつ軽井沢から引き上げるか、いつ挫折して東京に戻るか・・・。」 私の母はそう思って見
守っていたと、今になって言う。

 そんなある時、こんなことをどこからか耳に挟んだ。「お金って寂しがりやだから、少しは な
いとくっついてこないんだよ。」 そうか・・・。たしかにそうかもしれない。
いつからか、自分にお金の核を作ってみた。核?自分から離さないお金である。金額云々で
はなく絶対自分から離さないお金。すると少しずつそれが増えていった。核の周りにお金が集
まってくる。もちろん小銭でも良いわけで、もともと私に集まるお金などしれている。

 そうしてゆくうちに、なんとなく土地が手に入り、なんとなく店が建ち、なんとなく住居ができ
た。贅沢な物は決してない。店だってジャリを買うところから自分の車で買いに行ったし、基
礎の鉄筋だって自分たちで曲げて作った。住まいは体力が無くなって人に建てていただいた
が、安い家を探し回ってようやく見つけた業者。不景気が幸いして安く建てていただいた。

 友人や家族が、私達の歴史を見て誉めてくださるが、私自身はこうして文章に書いていな
いと自分の姿を見失いそうな錯覚におちいる。今 紅葉がきれいで静かな時期。25年目の店
は、いつになっても安定したといって気を抜くことは出来ないが、なんとなく穏やかに過ごせて
いる自分が不思議でならない。

 国民年金も払えない時期も多かったために、老後のお金のあてもあまりない。生きている
限り仕事が出来れば理想だが、そんなにうまく行くとも思えない。これからさきはどうなるので
しょう?

今まで、正直に努力をしてきたら、いろいろな意味で馬鹿なところが多い私たちにも、ちゃん
とお金が付いてきた。先輩があの時おっしゃった言葉は本当だった。その先輩は、親分肌の
Aさん。店1年目、私達のスポンサーになってくださったかたである。

    ・・・よくばらないからこれからも付いてきてね! お金さん。おねがいね。(笑)・・・

                        (2003.10.23記)


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