普通って?

 先日、桐朋学園高校を出てからヴァイオリンの道をひた走るため外国へ留学し、そのまま
さまざまな体験の後、スイスで暮らすようになった4歳年上の姉が遊びに来た。日本には仕
事でも遊びでも、たびたび来てはいたが、今回のように姉妹でゆっくり話せたことも少ない。
 オーケストラのソリストとして25年以上も頑張っている姉が最近しきりに日本に帰りたいと
いう。昔の友人にたくさん逢って日本に住むための知識をあさるように得たり、私に助言を求
めたりする。そんな時私が出す言葉、「普通はね、一般の日本人はね・・・」 すると姉が何度
も聞き返す。「普通って何?私わかんないの。」 
 抽象画家のイラク人(現在は姉家族3人はスイス国籍である。)の夫とそれを支え続けた
姉。娘は今年20歳だが、安全に家族3人がスイスで暮らすため頑張りぬいている姉とそれ
を支える芸術家を絵に描いたような夫との生活は、誰がどう見ても普通の生活だとは思えな
い。
 
 「たとえば夫がサラリーマンで、子供が二人くらいいて、塾へ行ったりしてるような家庭。住
宅ローンがあったり、ブランドを好んだり・・・そして平穏に暮らす人達とのこと。」 私は具体
的に普通を見つけては話して聞かせる。「じゃああんたんちは?普通?じゃないよね?お兄
ちゃんちは?・・ああ、あれも普通じゃないか。」 確かにそう言われてみれば私の周りに普
通の人があまりいないようだ。

 我が家の次女が小さかった頃、よく 「ふつうがいい、ふつうがいい。」 と言っていた。そん
な時私がどう思ったか忘れてしまったが、私は自分は普通だと思っていた。猛烈な貧乏では
あったが子供にお菓子もあげていたし、サンタも毎年来たし、良い洋服を着せていたつもりで
もある。
 今になって娘に問えば 「うちは普通じゃ無かったよ。絶対!保育園バックもお父さんの作
った革のだったし、みんなの家にはいつもお菓子があったし・・住んでいる家も茅葺だった。」
でもわが娘たちはそのことで不満を言うことは一度もなかった。「じゃあ何故それがいやだと
言わなかったの?」  「だって言えない雰囲気だったよ。お母さんが一生懸命やっているの
はわかってたし・・。言ったって無理なことはわかってた・・。」 まあ確かに・・・・。
 それでも脱都会の私たちは、地域に馴染もうと必死で、私は保育園でも誰もが嫌がる保護
者会長もやったし、娘たちが地元の高校を卒業するまで普通を精一杯装って暮らしてきたと
思う。

 銀座通り近くに店をしていた16年間、私の店にいらっしゃるお客様は特別なお金持ちだっ
たり、いつも奥様以外の違う女性と笑顔でいらっしゃる男性だったり、やくざのような人だった
り、たまには皇室の方だったりしたものだから、私は自分が普通だと言う意識が消えなかっ
た。

 ところが今からほんの2年ほど前、長いお付き合いのお客様で、精神科医の男性がいらし
た時、普段あまり言わない愚痴を彼に伝えた。助言を求めたつもりだった。「私の娘たちがど
うも普通の感覚でない。どう理解してよいのか・・・。」 小さな声で言ってみたら、「あったりま
えじゃないですか!あなたたち夫婦の子供が普通な感覚で育ったらそのほうがおかし
い!!。」 そしてその御夫婦は顔を見合わせて笑った。一瞬私はどう理解して良いかわか
らなかったが、奥様が 「あなたがあなたらしい感覚で生きていて、作っているから魅力があ
る。それを求めてお客様が来るんでしょう?そうでなかったら私たちも来ないから・・。」 その
ようなことをおっしゃった。確かに軽井沢でのそれまでの23年を振り返り、自分達の建てた
工房にお客様を迎える自分は、あまり普通とは言えないことに気づいた。

 その時から私は自分が普通でないことを認識したし、社会適応できないほど精神的に異常
になったら、彼の病院を訪ねようと思うことでとても安心もした。そして、普通でないことが、短
所とばかり言えないことも知った。

 あい変わらず私の工房には個性豊かなお客様がたくさんいらっしゃる。最近多いのが、男
性に支配されない気ままな熟女。家庭内別居あり、熟年離婚あり・・。それぞれ女性のパワ
ーはすごいもので私は心強い先輩とたくさんまじあう事が出来て価値観さえも段々に変化し
てきている。

 一時期私の価値観は固定したかとも思えたが、感覚も凝り固まってしまわぬよう世の中の
出来事をさりげなく見つめながら、動いている自分の感性をきちんと見ながら暮らしていこう
と思っている。

 ふつうじゃなくてもいいや。私の友人にあまり普通の人はいないしね・・・・。

                      (2003年12月8日 記)


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