お墓

 店が旧道時代、食べる事が不安でなくなった頃、外面つぶれたポンコツ車に乗りながらも
私が買おうと思っていたのは 「お墓」 。なんと言っても縁故関係ゼロのこの地で、万が一の
事があった場合途方にくれるのも嫌でお金が少しでも余ったらお墓を買おうと思っていた。ま
だ30歳にもなっていなかった頃のことである。
 その頃たまたま私のお客様に近くのお寺の奥様がいて、そのふくよかな奥様は私の店の在
る通りのほとんどの店で結構高価なものを買っていらした。私にとってもありがたいお客様で
世間話をするうちに、そのお宅でもお墓を新しく開発(?)なさったらしい事を知り値段を尋ね
てみた。私の家からもほどよい距離にあるそのお墓。一区画80万円だとおっしゃた。東京で
の値段しか知らなかった私はその値段が結構手ごろに思え、いつか買おうとひそやかに思っ
ていた。
 しかし、そのおば様が道を通ると、どの店でも入店なさるのを待っている、などという噂を聞
いて私の気持ちはすっかり覚めてしまった。うまく言い表す事が出来ないが、お墓と言っても
単なる土地。どこで稼がれたのか、そのお寺の方がまとまった土地を買って、普通の土地の
売買からはるかに越えた値をつけて売られる「お墓」というもの。手仕事で大変な思いをして
生活している私達が背伸びして買う事がとがなんだかばかばかしく思えてきた。
 もちろん先祖代々のお墓があり、流れとして繋いでいらっしゃるかた達は何の迷いもなく自
然にお墓の前で手を合わせ自分もいつかはそこに入り、その先も子孫が守ってくれる。それ
は何の疑いも持たずに安定した事実である。

 しかし私のように仏壇も神棚も知らずに育ち (父は神主の子、母と兄はクリスチャン?そし
て私は無宗教) 先祖に手を合わせた事がほとんどない、お墓参りもほとんど無経験となると
お墓にどんな価値があるのかもわからない。そんな私達の娘達も仏壇も神棚もどんなものだ
か知らずに育った。私が死んでも家族はどうして良いか見当もつかないと思う。そんな事情か
ら 自分が死んだあとどこに埋まるのか自分で考えておきたかった。どこまでも先々を考える
私の性格。

 そして買った 「お墓に入りたくない人のための本」 この本との出会いはまさに目からうろ
こ。慣習に従う人間ばかりではないことを教えていただき、私も今までの生きかたどおり、お
墓に関しても独自の考えを持つ事が出来るようになった。

 私は今住んでいる土地に執着がある。何故かというと苦労して手にした土地だから。そして
とても好きな空間だから。だから骨を良く焼いてもらい、粉々の灰にして灰はここに埋めて欲
しい。買い足す予定の土地は調度、村の神様が祭ってある隣合わせ。誰もむげに入り込め
ない場所である。そう言うと家族が言う。 「わかった!じゃああなたの通ったパチンコ屋にも
少しずつ灰を蒔いて来る。」 私の望むところだ。「誰がお母さんの骨をくだく?」 後継ぎ娘が
聞く。「もちろん、あんたたちさ。」

 私の灰がここに蒔かれるかどうかはその時にならなくてはわからないが、私はローン会社と
銀行と宗教家だけには苦労して稼いだお金を貢ぎたくない。それはたまたま今まで私がステ
キな宗教家(?)に出会えなかったからそう思えてしまうのだが。
 私が残せるお金が少しでもあれば生きてる知り合いに振舞って欲しい。

 78歳になる母とそんな話を最近してきた。「樹木葬」 に関心を持った母とネットで検索。ほ
とんどお寺の運営で思いのほか高いのにびっくり!

 そんなとき友人に会った。「ねえ聞いてよ!こないだ義父が亡くなって、お金無かったんで、
お葬式しなかったの。夫婦でさいじ場の6畳くらいの遺体安置所で一晩。その時お坊さんが
簡単に拝んでくれて、一番安い戒名に納骨の時の数分拝んでくれたお坊さん。それで100万
よ!100万!」 明細は知らないが私はそんなのはいやだ。

 それやこれやを家族に話すと娘も少し気になったらしい。「あのね、宇宙葬ってあるんだっ
て!私はそれにして!」

 まあ、人間年の順に死ぬとは限らない。それぞれの意向を聞いておくのも良いと思う。私は
後に残った人の判断でどうしてくれてもかまわないが、すこしずつじっと作ってきたお金を私
の自分の好感を持った人のためだけに利用して欲しい。宇宙葬でも良いけれどお墓には入
りたくない。

 いつの頃からか私は人の葬儀にもほとんど参加しなくなった。 ・・・・・・・・・・

生きているときの良い人間関係は、そのかたが亡くなって何年経とうといつまでも私の心の
中から消えることは無い。
                         (2004.3.6記)


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