山本勘助本当の墓・川中島合戦の真実・甲越 川中島戦史 公式サイト


「山本勘助の墓と信州柴阿弥陀堂」

山本勘助は晴幸または入道道鬼斎とも称しました。三州牛久保(現愛知県豊川市牛久保町)出身で、26歳の時より諸国を巡り修業し、天文、兵法、槍術、築城術等武芸百般を体得しました。各国の情勢を見聞後、44歳の時武田信玄に仕えた名軍師であり、戦わずして勝つ数々の戦法を信玄に提唱し採用されました。川中島合戦の際には海津城の構築も手がけました。1561年(永禄4年)、最も激しかった4回目の合戦で「きつつきの戦法」を信玄に勧めますが、謙信に見破られ窮地に陥りました。勘助はその責任を感じ、本陣を守るため奮戦しますが力尽きて討死してしまいました。享年62歳。

  現在墓のある地は千曲川の改修工事によって堤防が築かれ河川敷になっていますが、その昔は地盤の高い一等地でありました。「広瀬の渡し」により千曲川を渡り、善光寺へ抜ける交通の要所でもあり、また、信玄が甲斐から海津城に入る時、海津城を出て八幡原に本陣をしく時に通った軍事上の要衝でもありました。そこには信州柴阿弥陀堂がありました。

  1200年代、下総国(現千葉県)の武士であった吉池隼人介重次は、関東を20年にわたって布教のために行脚していた親鸞聖人に出会い、親鸞聖人に帰依し、御真筆の「十字の名号」をいただきました。1400年代になり、親鸞聖人の教えが信州にも広がり、9世吉池彦四郎重行(法名:行西)は「十字の名号」を携えて信州にやってきて、この地に阿弥陀堂を建立しました(2×3間。1代目阿弥陀堂)。1553年、1回目の川中島の合戦で、信玄は阿弥陀堂に戦勝祈願し、1561年の4回目の戦いの後、陣小屋を寄進し堂宇を大きく建替ました(6×12・5間。2代目阿弥陀堂)。そして、自らの冑中の守護仏「善光寺如来御分身仏」を堂に奉安し、両軍の亡くなった士卒全員の霊を祀りました。上杉謙信もこれを聞き大いに満悦し、家臣を遣わして阿弥陀堂に礼拝しました。
  以来、真田家統治に代わってからも阿弥陀堂は、歴代藩主に崇拝庇護されてきました。1779年には藩主真田幸弘の援助により阿弥陀堂が建替えられました( 5×6間。3代目阿弥陀堂)。

  山本勘助の墓は、初め勘助が討ち死にした陣ヶ瀬の東「勘助塚」にあり、藩主真田信之の姫君見樹院により五輪塔も建てられました。その後墓が、千曲川の流れにより荒廃していくのを憂え、1739年(元文4年)、松代藩家老鎌原重栄と原正盛らが遺骨とともに墓を信玄ゆかりの阿弥陀堂境内に移し墓碑を建立しました。墓石には寒松山大林寺和尚の碑文により、勘助の一生と墓移転の経過が詳しく刻まれました。1809年(文化6年)重栄の孫鎌原重賢が、勘助死後250年の節目を迎え末永く墓を守るために、高く石積みをしました。この経緯についても重賢の碑文により墓石に刻まれました。こうして勘助の墓は松代藩士らにより大切に保護されてきました。

  江戸時代、信州柴阿弥陀堂と勘助の墓には天皇、皇族、諸侯、民衆と全国各地から人々が参詣に訪れ、にぎわいました。1693年霊元天皇が皇后、有栖川宮、鷹司関白を伴い阿弥陀堂に参詣しています。また昭和11年に高松宮宣仁親王が阿弥陀堂と勘助の墓を参詣しています。住民から「お柴様」と親しまれてきた信州柴阿弥陀堂は寺尾小学校ができる前は子供たちの教育の場でもありました。大正から昭和にかけて千曲川築堤が行われ、堤外地に入ってしまったため、昭和12年やむなく堂を堤内地に移転しました(4代目阿弥陀堂)。その後、昭和52年、先に移転していた300M離れた自宅敷地内に阿弥陀堂を移築し現在に至ります(2×3間。5代目阿弥陀堂)。信州柴阿弥陀堂は見真大師(親鸞聖人)御旧蹟であり、甲越川中島戦役の史跡であります。

{参考文献}

中部山村社会の真宗(千葉乗隆著)

古墳中興之記(原正盛著)

朝陽館漫筆(鎌原重賢著)

甲越川中島戦史(吉池忠治著)

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  • ・見真大師御旧跡
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