開いた口がふさがった話


 六十二年十二月六日、日曜日。その日は年内にしては珍しい大雪だった。朝食を終え、一
段落すると主人は八キロの道のりを徒歩で、一路、革の子工房へと向かった。我が家の娘た
ちは犬のアラックと共に、庭中を駆け回り大はしゃぎ。粗大ゴミが数々置かれた手入れの行
き届かない庭も、この日ばかりは真っ白な雪に包まれて、もっこりと面白い姿になっていた。
 
 さて私はというと、今年は藍染に明け、藍染で暮れようかと、家の中を汚しながらウールの
染めに取りかかっていた。必要な薪もたっぷり、お湯もたっぷり。用意が整い。使い慣れて藍
に染まったゴム手袋に手を通し、白い毛糸を手にしたとたん、長女の声がした。「お母さん、
アラックがおかしいよ!よだれが出てて、雪の上に血がついてる!」

 真っ白な雪に赤い血。ゾッとするような光景?というほどのことは無い。ここでの生活でそん
なことには、もうあまり驚かなくなっていた。「ああそう、かわいそうね。足でも切ったのかしら
ね。」 よだれというのが気になってはいたが、軽く聞き流しておいた。ウールを熱い藍液から
そっと引き上げ、見入っていると、今度は次女の声。「おかあさん、変だよ!アラック、口が開
いてて閉まんないよ。しっぽも振らないし、チンチンもしないよ!」 あーあ、またか。しょうが
ない。染め上がったウールを丁寧に絞り、庭に出てみた。

 確かにおかしい。いつも愛嬌物のアラックが、大きな口を開けて私を見上げ、そのそば不
安気な娘が二人立っている。ワンとも言えぬ犬は、私に少しだけしっぽを降ってはみせたが、
すぐにだらりと落としてしまう。その様子は、まさに異常であった。首から顎にかけてよだれで
汚れ、そのまま口の中までたどってみると、舌はきちんと定位置にある。 「ん?なに?」 よく
見ると左の一番奥の上の歯と下の歯の間に何か茶色っぽい物が、つっかえ棒のようになっ
ている。 「お母さん。薪かな?」 石のように固いその物体は、手を入れてみてもびくとしな
い。普段なら、こんな時、すぐにに助けてくれる主人があいにく店に出かけて留守だ。甘え声
で電話すると、「エサたっぷりやったのに、何故あいつ薪なんか食うんだろう。でもオレ、今や
っとたどりついたんだよ。そっちでどうにかしてくれよ。」 確かに30センチほどにも積もった
雪の中、せっかく着いたところで、また戻れとは酷だった。車も出せない状況の中、獣医さん
を呼ぶのも申し訳ない。覚悟を決めて、再び外へ出た。 

 「いい? お母さんが取るから、あんたたちこの口押さえてんのよ!」 開きっぱなしの犬の
口をさらに上下に押し広げ、指示をした。娘は泣き出すし、泣きたいであろうアラックは、声も
出せずにいる。この騒ぎに、コタツからノコノコと出てきたドロも雪の中に座り込み、じっと
我々を眺めている。犬の口が果たしてどこまで開くものやらわからない。おっかなびっくりで広
げてみる。もう少し、もう少し・・・。これで限界と思えるところで、泣く娘を叱りつけてまた押さえ
させる。手を入れてみると、アラックの奥歯にガッチリとはさまった物は、石でも薪でもなく、な
んと両端からかじられかじられ、最後に4センチほど残った豚骨の真ん中、その髄の部分に
上から下から歯が食い込んでいるのである。2.3日前からおもちゃにやっておいた豚骨がこ
こまで小さくなっていたとは。 これは難しい。

 いったん手を離し、3人で顔を見合わせる。悲しそうな犬の目と、冷たくなった犬の口。
微動だにせずそれらを見つめるドロ。アラックの舌がこころなしか紫色に変わっていくようで、
もう仕方が無かった。娘達にもう一度ハッパをかける。大きく開いた口の中では骨は水平にく
るくると回る。回るが取れない。雪は静かに降り続く。

 「アラック、がんばって!」 娘の声に口が裂けんばかりに押し広げ、恐ろしさを殺して手を
入れた瞬間、コロリと骨が外れて落ちた。 「よく頑張ったわね。」 娘の安堵の声と同時に開
きっぱなしだった犬の口がふさがった。当たり前の姿になった犬を見ると、ドロもスタスタと部
屋に戻った。藍のにおいのプンプンする部屋で、温められた牛乳をアラックが飲み終える頃
には、降り続く雪が、血の跡をすっかり消していた。

                        1988年 夏

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