軽井沢の旧道の店を一生の友として過ごすことに、何の疑いも持たずにいたが、ここ数年
の東京並みの地価の高騰の中、毎年不安をつのらせている。ずーっと店を今のままでと思い
ながらも自分のものでないものと共にあるのは、一抹の不安を常に抱えさせる。
旧道で一年間定食屋さんをして止められたNさんの可愛がっていた薪ストーブがご好意に
より、我が家にやってきた。その薪ストーブを燃やしながら、前から出ていた話がどんどんエ
スカレートしていった。 「庭に工房建てようよ。」 と私。 「前から言ってるだろ・・・。八角形が
いい。」 主人は言う。 「八角形?やだ。落ち着かなくて。」 「動線が短くて女の人のために
いいって言うよ。」 「動線?そんなことが気になるほど広いもの作るわけじゃなし・・・」 「スト
ーブを八角形の真ん中に置いて、作るなら自分たちで・・・。」 「自分で?それでもずいぶんお
金かかるし。それにしても設計士さんだけはきちんと頼もうよ」 「和子、そんなことしなくても
平気だよ!」「だめよ。」 何度かそんな会話を繰り返し、設計士さんの顔をいくつか思い浮か
べた。少ない予算で素人が・・・。こんな無理な話に乗ってくださる方はよっぽどの方でなくて
は。私の脳裏から一つ一つ顔が消え、たった一つ残ったのは、私の店のお客様の若い素敵
なご夫婦。奥様はピアノを、そして確かご主人は設計をなさってらした。
それからしばらくして、私たち夫婦は、東京に事務所をお持ちのKさんを訪ねた。「全く分か
らず失礼ですが、設計士さんって、どんな仕事をしてくださるんでしょうか?」 私のこんな変な
質問に嫌がりもせずに丁寧に説明してくださり、東京に来た甲斐があったと、まずひと安心。
その後、主人の言うバカ安い予算を笑いもせず、真剣に相談に乗ってくださり、私の反対す
る八角形もKさんの奥様の絶大なる支援を受け、3時間ほどの打ち合わせが終わると、半年
先の完成を目指す工房作りが決定していた。
十一月の大安に、娘たちを巫女(みこ)に仕立て、主人が縄をない、八角形に張り巡らされ
た中で、有志数人で地鎮祭をした。地面が凍りつく前に基礎作りのための穴を掘り、工事が
始まった。主人と私と、その時その時に時間のある方がボランティア同様で手伝ってくださり、
一月、昭和天皇が崩御されたころ、山のような木材が運ばれてきた。「不破邸設計図」が、鉄
工所のNさんのアイディアで 「ふわっと一号設計図」と名が変わり、それが気に入った私たち
は、工房を 「ふわっと一号」とした。
校倉造りの八角形、刻む角度は百三十五度。できるか否か、まずアラックの犬小屋で試す
ことになった。本番は五寸角であるが、試しは三寸角。いい加減に主人が作った犬小屋は外
見はなんだかよくわからないが、中をのぞくとそれでも八角形になっている。「できそうだよ!」
その次の日から大工が始まった。チェンソーと電気カンナは以前の小屋作りで体験済みであ
ったが、私のレパートリーに電ノコとノミが加わった。材木を一本づつ運び続けること三ヶ月、
気が遠くなるような作業を終えると、この変な夫婦は夜、ジグソーパズルで世界地図の六千
ピースに挑んだ。刻み続ける仕事と、細かいパズルで大海を組み立てるのと少し似ていた。
どちらも冬ならではの作業であった
。
土台を乗せて積み上げ、手が届かなくなるころにクレーンを使い、そして棟上。
その日には大型・小型のクレーンに12名の大人の方たちが集まってくださった。積み上げよ
うとする材木が間に合わず、その側で刻んでいる。設計士さん自ら墨を打ってくださり、初め
ての方にも電動工具を渡し、たまたま通りがかった方にも運ぶのを手伝っていただき、働き
働き、働いた。信じられない労働力でその日の棟上を終えた。
その夜、ビールを飲みながら四十代の男数人、おかしな話を始めた。 「不破さん、これ建
ったらパーティーやろうよな。」 「僕の持ってるナイフ、あれで牛の丸焼きをスーッと切って口
に入れてみたいな。」 「牛の串は私が作ります。」 鉄工所のNさんのひと言に、この日東京
から来てくれていた私の兄 「その話、乗った!」 絶えない笑い声の中で主人も上機嫌。 私
は疲れてタバコに火をつけながら、できるかできないか分からない工房のパーティーの話を
静かに聞いていた。夜が更けて皆が帰る頃、鉄工所の工場長のKさんが 「ほんとはホルモ
ンでもいい。パーティーやろうや。」 そんな言葉をさらっと残していった。その後、子供ほった
らかしの夫婦大工は工房が出来上がっていくにしたがって、牛の丸焼きも現実のものにする
方向に気持ちが動いていった。一生一度の披露宴と思えば、牛の一頭ぐらい・・・。 工事の
ために借りたファックスに工房の設計図の合間をぬって、牛のための串の絵がNさんから送
られてきた。牛の準備もでき、パーティーの人数集めもできた。ところが工房の屋根のトタン
屋さんが来ない。毎日ため息混じりに働いて、どうやら形ができた頃、ふたたびNさんから電
話。 「串はできたけど、雨露はしのげますか?」 「フフフ・・・雨風はしのげるけど風がね
え・・・。」 晴天続きでどうやら屋根は間に合ったが、四面もある観音開きが結局時間オーバ
ーであった。
パーティー六月十日。なんと前日から梅雨入り。私の出した案内状には願いを込めて、てる
てる坊主を描いたのだが、残念ながら朝からしとしと雨。それでも、私たち双方の母親を筆頭
に、百人ほどの方が次々と来てくださり、七十数キロの子牛は、庭で薪のバーベキューにさ
れた。一泊二日のパーティーはさまざまな才能の方が集まり、歌ありチェロあり、踊りあり、素
敵な日となった。 私たちの知らぬ間に、たくさんの写真を撮ってくださっていたNさんからの
宅急便で二百枚ほどの写真が届いた。参加してくださった方々に写真と共に手紙を添えた。
「雨に負けず、ふわっと一号未完成パーティーに参加してくださって本当にありがとうござい
ました。あのあと、プロの建具屋さんが開く扉をつけてくださいました。これからも、まだまだ変
わっていくであろう工房を、また、ぜひ見にいらしてくださいませ。」
1989年 夏
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