そのかたが、工房建築中の我が家を訪れたのは、平成元年冬の晴れた日だった。お菓子
を片手に持って、「すごいねえー。これ自分たちで造るの?」 懐かしそうな笑顔で主人と話し
をしている。八角形の校倉造りの工房の出来上がりを目指し、夫婦でコツコツと木を刻む毎
日であったが、まだ土台の上に、ほんの一・二本の木が積まれただけの頃だったと思う。
その頃の主人は、山遊びや犬の散歩の途中、さまざまなログハウスを見て歩いていた。ほ
んの少しのことでも、自分の知識にすることで必死であった。ログハウスは、あちらこちらでで
き始めてはいたが、八角形ともなれば不安も大きかった。そんな時、旧軽井沢に近い鶴溜で
主人の目を留めたのがMさんの製作中のログハウス。 「和子、今日おもしろい人に逢った
よ。ひとりで造ってる。すごくきちんとしていて、がっちりとした丸太小屋。その人がいろいろ教
えてくれて勉強になったよ。」嬉しそうに主人が話すのを見ていると、紹介される前にMさんで
あろうことがわかった。「すごいねえ。できるかねえ。」 やさしい言葉の中にも不安材料を残
し、持ってこられたお菓子を置いて、その日は帰られた。
それから何日かたって、今度はコーヒーを片手に現れた。「一緒に飲もうよ。」 ところが我
が家のカリタはこわれていて、その日はコーヒーの粉を眺めながらお茶を飲んだ。 そしてま
た・・・。カリタとフィルターとを持ってきてくださり「これでやっとコーヒーが飲める。」 と笑顔を
見せてくださった。その頃には、我々夫婦の働く姿を、プロとして黙って見ていられなくなった
様で、ていねいに手取り足取り、技術を教えてくださった。そして自らも面倒な仕事をすすんで
手伝ってくださり、「この家に来るときは、コーヒー持って、お菓子持って来なきゃなんないんだ
から・・・。」 と苦笑しながらも、何度も来て下さった。食事にお誘いしても決して話に乗ってく
ださらず不思議であったが、この上ない強い味方を得て、私たちはとても嬉しかった。
そのMさんが、お茶の時間に話してくださった事が、またなんとも興味深い。Mさん、年齢は
不詳だが、私たちよりは上らしい。お住まいは東京。以前、有名な(私でさえも知っている、と
いう意味)会社の重役をなさっており、ハイヤーで送り迎えの出勤生活を送っていらしたが、
ある日思い立って仕事をやめ、ハーレーダヴィッドソンを買い、北海道へ旅立たれたそうだ。
私たちも独身時代、各々北海道の旅の経験があったので、話の花は満開に咲き乱れた。
「不破さん、あの広い草原で、ちょっと用足しに藪に入り、何見つけたと思う?宝の山だよ。鹿
の骨。白骨。きれいなんだよねえ。見つけたはいいけどバイクに乗らず、そっと隠しておいた
よ。まだ肉のついたものは川にさらしてあるんだよ。あとから車で取りに行って東京で〇万円
で売れたんだよ。」 「草も生えるし・・・場所分かる?」 「ちゃんと目印に棒立ててきた。」
「ふーん。」 「そしてまた、ダダダダ・・・・バイクで走って見つけたものがログハウス。何か変
な事してるなーと近づいてみて、よし!自分も。」と思われたそうだ。 日本、北から南から、
数棟の丸太小屋を建て、主人と逢った時にはちょうど友人の丸太小屋を軽井沢に建てていら
した時だったのだ。 別荘地で、少し主道路から離れたその場所は、春、雪が解けるころにな
るとひどくぬかるみ、車が入れなくなり仕事が全くできなくなってしまう。施主にとってはこのう
えなく残念な話だが、私たちにとってはまたとない幸運であった。何の約束もなく時々顔を出
してくださった。
上棟の時、十人ほど集まってくださった時の宴会で、初めて食事を共にしてくださったMさん
が言った。 「牛の丸焼きを、自分のナイフでスーッと切って口にいれたいねえ。」 「この家で
きたらパーティーやろうや。モツでもいいから。」 「よしやろう!」 次々に皆が話を盛り上げ、
昨年、六月十日、百人ほど集まって、牛の丸焼きパーティーを実行した。
ところがMさんの姿が見えない。前もって連絡はしてあったのだが、体の調子が少し悪そう
であった。「迎えに行ってくる。」主人と設計士さんと来るまで迎えに出たが、辛そうでお連れ
できない、と淋しく戻ってきた。 その後Mさんは東京の病院に入院なさったそうだが、私たち
も店の引越し、工房の手入れ等で忙しい日々を過ごし、主人がお見舞いに行ったのは今年
の四月頃であったと思う。 「元気になったら必ず工房を見に行く。」 とおっしゃったMさんか
ら、主人はナイフをいただいて帰ってきた。
今年も春になると、昨年のパーティーの参加者の中からリクエストコールがかかってきた。
仮店舗から本店舗への移店で、工房一周年のパーティーは十月までおあずけにしたが、気
のおけない仲間を集め、秋のパーティーのための準備会を開いた。その会が偶然にも六月
九日から十日にかけて、牛のパーティーから丁度一年たった時であった。
「工房の屋根から花火をあげよう。」 「おすしとうどんと餃子を作ろう。」 「火の番は僕がし
ます。」 「花火は私が買います。」 調子よく話がまとまり、宴会の次の日の朝、散歩を終え
た面々が群馬へ、東京へ、埼玉へと散って行った。
その日の夜、電話のベルが鳴った。Mさんが亡くなったという知らせであった。
二日後の葬式から帰った主人がポツリと言葉にした。「Mさんのあの技術、誰にも受け継ぐこ
とできなかったなー。もったいない。」 「不破さん、今度、僕の技術全部教えるよ。」
一年前のMさんの声が、むなしく思い出された。
ログハウスのはやる軽井沢。 「ログビルダー求む。」 の広報が新聞に折り込まれてくる
が、私の好きなログビルダーは、今のところ、Mさんだけである。
1990年 夏
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