モンゴル

 
 一昨年の大晦日、紅白歌合戦でモンゴルのオユンナさんという可愛らしい娘さんが歌った。
私はその歌が大好きになり、主人はモンゴルへ行きたくなった。
 
 年が明けて少しすると、主人はどこかへ電話をしていた。「えーと・・・・・、モンゴルなんとか
協会とか、なにかモンゴルのつく団体はないでしょうか?」104番できっかけをつかもうとしたら
しい。結局、新潟でモンゴル親善のために働いていらっしゃる方を知り、その方の主催する団
体旅行へ申し込んだ。一年にただ一度飛ぶチャーター便で、時期はお盆。八月の十四日か
ら二十一日まで。「オレは行く。」 と決めた主人は本当に良く働き旅費を貯め、こづかいを貯
めた。協会から送られた「モンゴル語会話帳」を手に、「モンゴルグタルバイナウー」(モンゴル
靴ありますか?の意味)を繰り返し繰り返し言っていた。語学には比較的明るい主人も、モン
ゴル語となると全く聞いた事がない。「アクセントがついてないんだぜこれ、どう言うんだろ
う。」カタカナで書かれたモンゴル語を不器用に読む主人を見ていて、私もいつぞやの自分を
思い出していた。

 十七年前、私は主人とイスラエルにいた。英語もヘブライ語も堪能な主人に比べ、私は英
語がほんの日常会話だけ。習い始めたヘブライ語も、二歳児にも及ばない頃、突然激しい目
の痛みに襲われた。原因は 「カルチャーショックによるストレス」 と勝手に思っていたが、両
目が痛くて開けていられない。目を閉じるとあとからあとから涙がこぼれ、少しでも開けるとひ
どく痛み、とうとう食事もできなくなった。しかたなく入院したが、下手な英語で苦労するより
も・・とヘブライ語で医者との疎通を図ろうと主人に相談した。 「コエブリーポー」(ここが痛
い)と「ヨテルドーブ」(前より良い)の二言を頭に入れて入院した。
 痛みで開かない目に、ドクロマークの薬を入れてもらうとわずかに目が開く。わずか数分の
麻酔時間に私の目に入ったものは、地雷に足を飛ばされた婦人が廊下の仮設ベッドに横た
わり、軍隊の訓練中に腕を無くした娘さんが泣き叫んでいる。今まで見たこともない不思議な
場所に私は一人残された。 「ヨテルドーブ」 「コエブリーポー」で数日後、微笑む医師の顔を
残して退院した。 

 「あなた、思い出すね。コエブリーポー。」 「モンゴルグタルバイナウー。」を家族中に覚えさ
せてしまった主人と二人、笑ってしまった。 「おとうさん、モンゴルに行ったら、なんか帰らな
いってかんじがする。」と長女に言われて「バカなこと言うな!」と怒鳴りつけていた主人は、フ
ィルム、水筒、帽子、何日も前から揃え、出発していった。

 「においがあるんだよ!草原の。テレビではわからない。」 興奮して戻ってきた主人は、モ
ンゴルで良い通訳に恵まれ、しゃっかり音楽のCDを借りてきた。「今度行く時返すんだよ。」
友達に餞別までいただき、「おみやげリスト」を手に出かけた主人は、「あっちに行ったら、す
っかり忘れてしまった。」という。 「モンゴルグタルバイナウー使ったの?」 「発音が全然違う
んだぜ。」 帰った日に、モンゴル相撲のやり方と正しいモンゴル語(?)の発音を得意に披露
してくれた主人のモンゴル熱に少し心配した長女。その長女の部屋にこっそり入って言ってお
いた。「はやりやまい のようなって言葉があるのよ。」

 ラクダの鳴き声入りのスライドに写っているのは、ほとんどが靴と小さな花たち。モンゴル語
のテープを毎日聞く主人は、モンゴルを評して言った。 「あの国の人たちといると、まるで兄
弟といるような気がする。」だんだん遠くなる懐かしい日々をモンゴルで見つけたようだった。

 「モンゴルの人たちが野球をしたがっているけれどグローブが無いんだって・・・。」工房を訪
れる友人が一つ二つと集めてくれている。「オレは自分の手で持って行く。」それはどうも来年
らしい。

 はやり病、でもよし。血が騒いだら動くもよし。風の吹くまま揺れるのも結構おもしろそうだ
から・・・。

                          1992年 夏

 

トップへ
トップへ
戻る
戻る