おうちごっこ


 「かーこーちゃーん、あーそーびーまーしょ!」 もう三昔以上も前、東京中野の家の建て込
んだ中にある我が家の玄関によく友達が遊びに来た。私もよく行った。友達の家の玄関先
で、「かっちゃーん、あーそーびーまーしょ!」 小学校に上がる前からである。その呼びかけ
に対し、「あーとーでー。」 と家の中から返事があればさっさと引き上げたし、「いーいーよ
ー。」と聞こえてくれば友人が現れるのをうきうきしながら待っていた。その頃した遊びはほと
んどがおうちごっこ。 「今日は私がおかあさん、あんたがおねえさんね。」 いつももめること
なく役が決まり、そのうち仲間も増え、日が暮れるまで家に帰らなかったように記憶している。

 さて、二十二歳で本物の結婚をした私だが、悩みに悩んだ十九歳の時こんなことを考えて
いた。「早く結婚して早く子供産んで、早く自分の気ままな生き方がしたい。」 今から思えば、
あの頃よくそこまで思ったものだと我ながら感心してしまう。早く早くと急いだ理由はよくわか
らないが、結婚もしたいし子供も育ててみたい。でも生きるのは自分自身、という思いが当時
あったのだと思う。
 渋谷の地下道で初めて出会ったとき、まさか結婚するとは思えなかった主人。肩の下まで
伸ばした髪を一つに束ね、エスニック調の毛皮のチョッキを着たその人はどう見ても年齢不
詳。「この人、お爺さんになってもきっとこのままだろうな。」 今まで誰にも持たなかった印象
を持ったのが事実である。「いくつだと思う?」 とその人が聞くのでたまたま私の兄の年齢を
言ったら当たった。当たった事にきっと主人はあの時感動したと思う。「私、イスラエルに行く
の。」と言うと、「えっ?ぼくもイスラエルに行かなくちゃいけないんだよ。昔の彼女に借金返し
にね。」 私が行く理由は保育の勉強のためで、お互い目的は違ったが、一緒に行こうという
ことになり、家に帰って母に言った。エライ母である。「連れができて良かったわね。」と一言。
生真面目(?)だった私は、母が反対すると思っていたのである。話が進んで不安になったの
は母より私であった。「何年も帰らないと思うよ。」 「そう。」 母は動じなかった。

 無職の二人は結婚することに決め、姉夫婦の居るスイスの小さな村役場で結婚式を挙げ
た。私には少しの貯金があったが、主人はほとんど何も無い。結婚してからそれが解りびっく
りはしたが、そんなことはどうでもよかった。イスラエルに一年程滞在し、帰国後、母に説得さ
れサンプラザで披露宴をした。 武蔵小金井に家を借り、私たちの生活が普通に始まった。

 主人自ら英字新聞に広告を出して見つけた職場は、ヘブライ語が役に立つ輸入会社。しか
し外国であれほど元気だった主人が、サラリーマン生活でみるみるうちに痩せ細り、「子供を
産むまで頑張って!」 という私の願いを聞き入れてくれたものの、四月の末、次女が産まれ
ると同時に会社を辞めてしまった。 当時私の父が、「普通だったらボーナスもらってから辞
めるのになあ・・・。」 と首をひねっていた事が懐かしく思い出される。

 また二人とも無職に戻ってしまった。主人は友人から自転車を借り、荷台を改造して革細工
をぶらさげ、道交法にひっかからぬよう動きながら原宿の町で売り歩いていた。ほとんど売れ
なかったように記憶しているが、ある日誘われるまま、友人の家を作る手伝いに軽井沢へ行
った。そしてなんと坊主になって帰ってきた。 「あなたたちを説得するため、頭を丸めた。軽
井沢で住もう。」 脱都会の第一陣と思われる軽井沢移住組みにすっかり影響されてきたよう
だった。父親の変身に、一歳の娘は目を見張り、二歳の娘は大笑い。私もいずれ空気の良
い所に住めれば・・・と夢を抱いていただけに、反対はしなかった。
 
 双方の親の反対を押し切って、昭和五十四年九月、軽井沢にやってきた。
田舎暮らしにあこがれて、十九歳の時車の免許を取ってはいたが、七年間全くのペーパード
ライバー。主人は、といえば 「運転は嫌い。」 と無免許。一日に何本もないバスは生活のあ
てにはならない。母が援助金としてくれたお金で、三百六十CCの中古の車をまず買った。
とにかくお金が無かった。職安にも役場にも通ったが仕事はなく、新聞代にも事欠いていた
のに友人はたくさんできた。私は東京から持ってきた糸で機を織り、主人は東京の友達から
端皮をもらって何かを造っていた。時間ばかりある私たちは、燃費の良い車でよく走り回っ
た。中古車センターのバキュームカーに目をやり、思わず目を見合わせ同じことを思ったこと
に二人で笑った日もあった。

 少しづつ物を作っていたおかげで次の年の春、思わぬ話が舞い込んだ。ある方がスポンサ
ーのようになってくださった。『私たちが作ったものを買ってくださる方がいる。』皮細工と帯と
ショールとテーブルセンター。 翌年スポンサーが手を引き、私が独身の頃貯めておいた虎
の子を家賃にあて、『革の子工房』と『霧下織工房』が産まれた。
 道路際で機を織り、手織りのすだれで店を飾り、あちこちからいらない物をもらってきては
店の内装をした。ほんの二ヶ月ほどのシーズンが終われば、声がかかれば二人もどこへでも
働きに行った。その頃は何の保険にも入れず、国民年金も免除。娘たちの保育料も無料。 
 稼ぎも少なかったが生活費もわずかだった。 その後、下の下の生活から下の中へ、その
実感は大きかったがその後は、『よくやってるなー。』 というかんじ。土地を買って家を建て
た。店を二軒借りて次に工房を建てた。文字にするとびっくりするが、やり方はなんとも手作
り。その間、遅ればせながら保険にも入り、年金も払うようになり、娘たちは高校生になった。
商売とは恥ずかしくてとても言えない売り上げで、こんな生活ができることが不思議でならな
い。ただ最近は、「好きな仕事だけして食べていけるんだから日本も捨てたもんじゃないね。」
というのが私達夫婦の実感である。

 我が家は変わった家である。三間×六間のワンルーム。長女の部屋をくぎり、次女の部屋
は付け足した。食堂も居間も寝室もあって無いようなものである。押入れはなく、タンスもほと
んど無い。どういうわけかベッドは六つもあるがほとんど使わない。私達夫婦は各々布団を
持って、寝心地の良さそうなところに敷き休んでいたが、それなりに定位置が決まり、よく見て
みれば主人は西向き次女は東。私が南で長女はなんと北を向いて寝ているのである。猫が
一晩のうちに、その寝床をわたり歩く。

 家事も皆が気ままにやる。今のところ、今年高校生になった次女が一番の早起き。弁当作
りに燃えている。次に主人が起き娘たちの朝食を作る。その次に長女が起きて猫にエサをや
る。最後に私が起き上がり、一家そろった時間を少し持つ。登校後の後始末を今のところ私
がやっている。「のの(次女)がお弁当作るようになって、堂々と広げられるようになったよ。」
とは長女。私が作っているあいだは、「今日は力が入ってない。」とか「今日は毛玉が入って
た。」とか文句ばかりであったが、今は安心して弁当が開けられるのだそうである。二人とも
アルバイトで稼ぎ、欲しい物は好きなように買っている。親がねだれば、時々何か買ってくれ
ることもある。 「ねえ、今度あんた お母さんやらない?私子供やるから。」 と、どうも一番
家事をさけている長女に持ちかけてみたが、「なにそれ、ヤダヨ。」とふられてしまった。
 
 「もうかえる。」と言って抜けることもできず、帰るところも無くなったが、私たちの生活は、あ
の幼い日の 『おうちごっこ』 によく似ていて少しも飽きることが無い。

                          1994年 夏


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